Layered Abyss - 04
在宅で仕事をしていると、どうにも仕事の切れ目というものが分からない。明確に就業時間が定められているような仕事をしているわけではない、というのも一因ではあるのだろう。キリのいいところでいったん中断し、休憩しようと伸びをして――そこで響いたインターホンの音に、渚は玄関に視線を向けた。
渚の家に人が訪れることは滅多にない。家を訪れるような関係性のある相手が、今の渚にはほぼいないからだ。セールスか何かだろうかと思いつつ、インターホンに出る。
「はい?」
『……あ……、柊なんだが……』
「ああ」
聞こえたものは、確かに友人のものだ。つい先日誘われて飲みに行ったばかりだが、何か用事だろうか。そのときは妙に違和感はあったものの、努めて気にしないことにしていた――のだが、こうも会うことが続くと、どうにも妙な気持ちになる。
インターホンを切って、玄関の扉を開ける。そこにいたのは、確かに友人である柊 隼人だった。渚を見て驚いた表情になった隼人は、そのままぼろぼろと泣き始め。
――何が何だか、分からない。
「は……? え、何泣いてんだお前……?」
「……いや……、……っ」
「……とりあえず、入る、か……?」
状況が呑み込めないものの、玄関先で号泣されるのは困る。中に入るよう促せば、こくこくと頷いて隼人は部屋に入ってきた。
泣き続けている隼人は、どうにも言葉が出ないようだった。ひとまず落ち着かせなければ、話もできない。お茶でも淹れようかと思ったそのとき、隼人の手がぽん、と渚の肩に触れた。そのまま何かを確認するかのようにぽんぽんと触れながら――やはり泣いている。
「……いや、きもいんだけど」
「ぅ……っ」
「何なんだよ……」
「……、すまん……」
「きったねえ顔……、はい、タオル」
取り急ぎ出してきたタオルを渡すと、受け取った隼人が顔に当てる。それを確認してから、渚は茶を用意してテーブルの上に置いた。座るように促せば、こくこくと頷いた隼人がテーブルの前に腰を下ろす。
暫しの沈黙。鼻を啜る音と嗚咽だけが室内に響いて、どうにも気まずい。
それでも、しばらく黙って様子を眺めているうちに、何とか落ち着いてきたようだ。目は赤いものの、隼人は顔を上げて渚を見た。
「……すまん、驚かせた……ちょっと最近色々あって、情緒不安定で……」
「いや、お前に情緒が安定してるときがあんのかよ」
以前から、この男に色々とあることは承知している。う、と怯んだ隼人は、ゆっくりと息を吐いた。落ち着いて話をしようとしていることは見て取れる。
「……何か、お前の顔見たら、安心して」
「はあ? この間会ったろ」
「いや、そう、そうなんだが……悪い、変なこと言うかもしれんが」
「充分変だろ。何」
「色々あって……お前との記憶の整合性、確かめさせてほしい」
隼人の申し出に、渚は思わず眉を寄せた。
飲みに行ったときも、隼人の様子はどこかおかしかった。今の彼が決して触れることがないはずの『昔』の話題を振ってくる。その当時の話は、隼人に対してすべきものではないということは弁えているつもりだ。
それでも、当の本人である隼人がそういうのであれば、何らかの切迫した事情があるのかもしれない。
「お前、この間も何か変なこと言ってたろ。大丈夫か?」
「最近駄目かもしれん」
「元から駄目だけどな」
「いや、最近ちょっと、輪をかけて駄目になってる自覚がある……」
「最悪じゃねえかよ。……まあ、お前がいいなら話すけど」
高校時代の出会い。期せずして同じ大学に進学先を決めていたこと。何だかんだと一緒にいる時間が増えたこと。
もう一人、仲良くしていた同級生がいたこと。その同級生とは、大学卒業後は連絡を取らなくなり、自然と疎遠となった――と話したとき、少しだけ隼人の表情が動く。問えば何でもないと言われたので話を続けはしたものの、その後はあまり彼とは会っていない。隼人は海外にいたし、渚も色々とあった結果、大学院に篭りがちだった。隼人とはほとんど連絡を取らないまま、先日の再会に至る。
「……そっか。最近は……何か、オカルト的なことに巻き込まれたり、とか」
「日頃あんま外出ねえしな、特には」
「そうか……」
「学会の出席くらいでしか遠出もしねえし。何だかんだ仕事してんのが楽しいから」
それ自体は嘘ではない。ずっと好きだったことを仕事にして、研究に没頭して。それが楽しくないと言ってしまうと、嘘になる。
――そうすることしか、できなかった。
再び、場に沈黙が落ちる。さすがにこれ以上話せることもない。茶のお替りでも淹れようかと思ったそのとき、隼人が神妙な面持ちで顔を上げた。
「……あの、な。俺の中では、お前が死んでるんだが」
「……は? いつ? 変な夢でも見たか……?」
何を言われているのか分からない。
だが、その言葉で合点はいく。突然泣き出したのも、やたら触ってきたのも、隼人の中にそういう記憶があるからなのだろう。変な『怪異』の事件に巻き込まれていたのかもしれない。本当にこの数年、そういった事象とは縁がないので、渚としては何とも言えないところだ。
「……いや、そうだよな、すまん」
「大丈夫かマジで……」
「もうひとつ確認させてほしいんだが」
「次は何だよ」
「やな……いや、もしかしたら違うか……? ……あの、橘とは、最近連絡は取ってないのか?」
「――……」
かちりと時間が止まった気がした。口を開きかけて、閉じる。
橘――橘 憂凛。その名を他人から聞くのは、一体いつ振りだろうか。
どうしてそんなことを聞くのかと考えて、ひとつの可能性に思い至る。あの頃、隼人は既に海外にいた。日本で起きた出来事には疎いのかもしれない。最近こちらに帰ってきたという話をしていたから、彼の耳に入っていない可能性は充分にある。
「……お前、誰かから聞いてないのか」
「何を」
きょとんとしている隼人は、本当に何も知らないのだろう。茶で潤したはずの喉が、渇く。
それでも、知らないのであれば。伝えておかなければならない。
「憂凛は、死んだよ」
一方その頃、陵はルキと『とおる』と共に渚の自宅近くで待機していた。今回、神社のことは燈依に任せている。そして英二は、神社近くで隼人に憑いている『カミ』、『蔦花』の監視を任せた。現状、面白がって手出しされると話がややこしくなるのが目に見えているからだ。
現在の隼人の状況は、『堕天使』から共有されている。何かあれば玄関の扉を蹴破ってでも介入する手筈だったのだが、事態は思わぬ方向に転がっている。
「……んん? 松崎先輩が生きていて、柳川さんが死んでいる……?」
「そんな訳がないでしょう。今日、信田さんは柳川さんに呼び出されて子守をしているという話でしたし」
「ですよね……。……念の為確認しておきましょう」
渚が憂凛の死を口にしたことで、事象が反転、確定してしまった可能性がないとは言い切れない。慌てて陸に確認を取ると、すぐに「今から買い物して帰るって連絡あったけど」という返事が返ってきた。
――渚の中で、憂凛は死んだことになっている。
しかしこちらとしては、死んでいるはずなのは渚だ。事態がこんがらがって、訳が分からない。
「……そもそも松崎くんって、どういう方です?」
「あれ。陵さん、会ったことありませんでしたっけ?」
「何度かは会っている、と思いますが……正直、あまり覚えていないんですよね」
それほど目立つタイプの青年ではなかった。直接会話をしたことがあったかどうかも定かではない、という程度だ。
知っているのは、彼が柳川 恭のトラウマであるということ。
当時何があったのか、陵は詳しいことを聞いていない。当時から、その件について律は口を噤んでいる。聞き出そうとしたこともあったが、どうしても口を割らなかった。事後に少しだけ、酒の席でぽろりと零した感情を聞いた程度だ。そのときの様子から、あまり深く聞かない方がいいだろうと判断し、そのままになっている。
「とはいえ、僕もそれほど関係が深かったわけではないんですが。松崎先輩は柊さんの御友人で……柳川くんと色々あって……あと柳川さんの幼馴染で」
「その辺は知っていますよ。どういう方でした?」
「僕としては、柊さんとよく似ている方だな、という印象ですね。だから仲が良かったのかもしれません。僕には何とも言えませんが……」
「――あ!」
会話を遮るように、『とおる』が声を上げる。何かあったのかと思えば、『とおる』は勢いよく顔を上げて陵を見た。
「よく分かんなかった縁、繋がった! 追える!」
「まさか今のでですか?」
「じゃあ殴る先ができたということですね」
「殴るかどうかはともかくですが」
ひとまず、『堕天使』を通じて憂凛が無事であることと、縁が繋がったことは隼人に伝えてもらう。やっと停滞していた事態が動き出した形だ。隼人のメンタル面が心配ではあるが、解決しなければどのみち状況の改善は見込めない。
ややあって、隼人は渚の家から出てきた。玄関先で二言三言会話を交わした後、渚が玄関のドアを閉める。少しの間その場から動かなかった隼人はしかし、何とかといった様相でふらふらと3人がいる方へと歩いてきた。ふわりと現れた『堕天使』が、隼人の身体を支えている。
「大丈夫ですか?」
陵の問いかけに、隼人は弱々しく首を横に振る。蒼白な顔色に溜め息を吐きつつ、陵は持ってきていた水筒の水を隼人に飲ませた。神社の水だ、多少なりとも隼人のメンタル面を落ち着かせるだけの効果はあるだろう。
しかし隼人がこの状態では、今日はこれ以上動くのは憚られる。『とおる』の力を借りて繋がった縁を辿っても、隼人がいなければ辿り着けない可能性は高い。先程の渚との会話で分かったことも、精査は必要だ。律に報告して、その意見も聞いておきたい。
「今日はここまでにしましょう。隼人くん、明日また神社に来れますか?」
「っ……、はい」
「茅嶋さんの意見もお伺いしてから、今後の方針を決めましょう。一人で勝手に動いてはいけませんよ」
陵の念押しに、隼人はこくりと頷く。この状態で勝手に動くことはないだろうが、何をするか分からないのも本当のところだ。『堕天使』の方を見れば、任せろと言わんばかりに頷いてくれた。隼人に何かあれば、『堕天使』から知らせてくれると考えてよさそうだ。
事態は混迷を極めている。一体この先どうなるのか想像もつかない。どうしたものかと考えながら、陵は大きく息を吐いた。