Layered Abyss - 02

 話は数日前に遡る。

「はあ?」
『だから、松崎くんが普通に生きていて、普通に生活してるんですって』
「ちょっと何言ってるか分からないですね」
『異常事態だから帰ってこいって言ってます』

 深夜。仕事の書類を片付けている最中に鳴り響いたスマートフォン。時差を考えれば日本は昼時くらいだろうかと思いつつ、律は陵の話を聞いていた。
 松崎 渚が生きている。
 そんなはずはない。しかし、確かに隼人が遭遇した。その話を聞いた陵が、英二と共に調査を行った。渚は確かにアパートの一室に住んでおり、不在時に家の中を調べてみたが、普通に生活している痕跡はあったらしい。

「……異常事態であることは分かるんですけど、いや、申し訳ないんだけど、俺、全く帰れるような状況じゃなくてですね……」
『仕事してる場合でもないでしょう』
「仕事投げ捨てて帰れるような立場でもないんですよ」

 あいにく、スケジュールは一週間先までは確定している。少なくとも、そのスケジュールを今から動かすのは難しい。かといって、それならば一週間後には帰国できるのかと問われたら、答えはノーだ。確定していないだけで、先延ばしにできることはそれほど多くない。
 どうして日本にいないときに限ってそういうことが起きるのか。だが、相手が渚なのであれば、海外にいるのはある意味正解なのかもしれない。恭をこの件に関わらせずに済む。先日も渚の姿を使って、恭に揺さぶりをかけようとした事件があったばかりだ。律としては、そういったことで恭に負担を掛けたくはないというのが本音だ。
 『松崎 渚』は、隼人のことを『隼人』として認識しているという話だった。その奇妙さから考えても、今回は隼人が狙われているのだろうか。

「いや、とりあえず物理的な距離からしてどうにもできないし俺には」
『めちゃくちゃ困ってるんですが』
「うん、それは分かるよ……分かるんだけど帰れない……ごめん……」
『帰ってきてください』
「無理です……」
『ひとまず情報共有は都度させていただけますか』
「ハイ……ちょっとあとでぶんちゃんが手助けできないか聞いてみるね……」

 不服そうな陵に申し訳なく思う気持ちはありつつも、律はそのまま電話を切った。『分体』は現在、いつも通りに恭の相棒を務めてくれているが、そのリソースを割いて恭の子供たちの世話の手伝いもしている。どうしても普段より使えるリソースが少なくなっているのが現状だ。普段よりも調査の速度が遅くなってしまう、と漏らしていたのを聞いたばかりなので、あちらもこちらもとなれば、『分体』にかかる負荷が大きくなりすぎてしまう。
 さてどうしたものか、と律は天井を見上げた。
 間違いなく、松崎 渚という人間は亡くなっている。思い出したくもないが、その無惨な遺体を、律は自身の目で確認した。生きている可能性は、ひとつも残っていなかった。確かに一目で渚と分かる状態ではなかったが、DNA検査等入念な裏付けが行われ、確定したはずだ。遺体をそのままの状態で遺族に見せるわけにもいかなかったため、偽装は行われたが、遺骨は正しく返されている。自宅で当時の書類を探せば、詳細に確認が取れるはずだ。

「……さすがに何も分からん」
「お? 壁打ち付き合ってやろうか」
「今渡せる対価、朝食ビュッフェしかないよ」
「それやっしーがいらねえだけじゃねえか」

 ふらりと現れた巧都は、にやにやと面白そうに笑っている。果たしてこの『カミ』にはどこまで状況が見えているのだろうか。おおよそは分かっているのだろうなと考えると、思考に苛立ちのノイズが走る。
 深呼吸。――まだ仕事の途中だ。あまり時間を掛けると、恭が起きてしまう。

「……一番引っかかるのは、その渚くんが隼人くんを認識していること。隼人くんと俺たちが関わりを持ったのは、渚くんが亡くなった随分後だ。渚くんは隼人くんの存在を知覚していない」
「ま、記憶の整合性取ってんだろ。有り得ない話じゃないな」
「前提として渚くんは亡くなってる。俺は直接見て確認してる。遺体のすり替えがされていたというのは、状況的に考えにくい。それに実は生きていたってなら、今までどこで何をしていたのかって問題が発生する」
「人目に触れないように遠方で生活してたんじゃね?」
「なら何で帰ってきた? しかも今のタイミングで?」
「ほとぼりが冷めたから?」
「何の」
「何かしらの?」
「……あー、じゃあ時期とかそういうものは何も関係なく、たまたま今だった」
「ま、その可能性はあるわな」
「……いやでもやっぱ情報が足らなさすぎるよ……」
「伝聞しかねえもんなあ」

 今はまだ、陵から話を聞いただけだ。彼らの調査で分かったこと以外は、全て推測にしかならない。そして現状、律は推測を立てたところで、動くことができない。
 直近の仕事のスケジュールに思考を移す。打合せや調査の依頼等、かなりスケジュールは詰まっている。今回起きている事象を考えると、恭の耳に入れることはなるべく避けたい。となれば恭が寝ている時間、深夜の数時間が使える時間になるが、そこを潰すと仕事が滞る。
 現状では、主体的に関わるのは難しい。できることが限られるのであれば、下手に手出しをしない方が陵たちの調査も捗るのではないだろうか。

「……まあ一番可能性が高いのは何らかの『カミ』の介入ってことになると思うけど、隼人くんの周辺ってなかなかアレだし、普通手出ししないと思うんだよな……」
「普通じゃなければ?」
「……いやまあそれはそう……。あと今回の件は隼人くん狙いじゃないとしたら……あと考えられるのは憂凛ちゃん……? いや、そうなってくるともっと理由が分からないな……」
「そもそもだ、その死人を使って誰かを狙う必要性は?」
「精神的にダメージを与えて何かを引き出したい……? いや待て、そもそも理由も必要性もなくて、ただ結果としてそうなったって可能性もある……?」

 どうしても狙われている、と考えてしまいがちだが、そうではないのだとしたら。何らかの別の事象の副産物だとしたら。或いは何らかの計画が進んでいて、その一環として渚が使われているのだとしたら。
 そう考えていくと、可能性は無限に広がっていく。絞り込むには、やはりもう少し、情報が足りていない。

「ギブ! だめだ、やっぱ今ある情報じゃ何も分からない。情報として何から調べるべきかを考えてみるかな……」
「ちなみにやっしーなら何から調べんだ?」
「渚くんが生きていると認識している人がいるかどうか、かな。今回全員渚くんが死んでることは分かってるけど、渚くんは普通に生活しているらしい。じゃあ、生きてるって認識してる人はいるのか、って問題が出てくるかなって」

 普通に生活ができているなら、渚の生活圏では生きた人間だと認識されているはずだ。ならば、生活圏外ならどうなのか。彼の知り合いの中で、認識が書き換わっている人はいるのか。一旦そこを調べてみて、どうしようもなければ新たに方針を考える。調査の過程で、他に分かることがあるかもしれないという期待も込みとなるが、取っ掛かりがそれ以外に思いつかない。本人に問い詰めるとなれば、どういった影響が出るかも分からないので。
 律の返答に、ゆるりと巧都の口許が歪む。それに気付いて眉を寄せれば、わざとらしくゆっくりとした動作で、巧都は首を横に振った。

「……おや。陛下はお気に召さない?」
「悪くはねえけどな」
「ちょっと足りない?」
「俺はまあ、やっしーの考え方は理解できるけどな。こうやって理屈で詰めたところで、果たして意味があんのかねえ」
「……ん? ……え?」
「んじゃ、朝食ビュッフェ楽しみにするかー」
「あ、ちょっと!?」

 引き留める間もなく、巧都の姿が消えた。これで対価分は終わりということだろう。これ以上付き合ってくれるつもりはないらしい。

「何もう……理屈じゃないってこと……?」

 果たしてそれが何を指すのか、何を言いたいのか、皆目見当もつかない。さすがに睡魔で鈍ってきただろうか、と律は目を閉じた。ぐるぐると回る思考を、無理矢理シャットダウンする。どれだけ考えても、答えに辿り着ける気がしない。

「……何もなきゃいいけど……」

 おおよそ無理であろう希望を口にして、大きく溜め息をひとつ。目を開いて、律は電話前にしていた仕事の続きに戻ることにしたのだった。


 松崎 渚のルーティンは、ここ数年変わっていない。
 朝起きたら身支度を整え、パソコンをつけ、メールチェック。朝食を作るついでに昼食もまとめて作っておき、食事を取ってから仕事を開始。渚が現在している仕事は、古い文書の解読だ。崩し字を解読し、歴史的背景を読み取る一端を担う。流行した感染症の影響もあり、在宅での仕事が基本になったのは数年前のこと。メールやWebミーティングといったやり取りはあるものの、基本的には一人で集中して行えるので、渚としては気が楽になったというのが正直なところだ。
 その日もいつも通り、変わらないルーティン。夕方には買い物に行き、夕食の準備。それで仕事を切り上げることも多いが、気付けば夜が更けているのも日常茶飯事。
 変わらない、安定した日々。それに特に疑問を抱いたことはなかった。

「……何だったんだろうな」

 数日前、偶然出会った友人のことを思い出す。見かけたので声を掛けたところ、ひどく驚いた顔をされた。現在は近隣に住んでいるのだ、別段会ってもおかしくはない。しかしどうにも、妙に動揺していたように見えた。
 そのときは他愛ない話をして終わったが、更におかしいのはその後だ。急に飲みに誘われたので、承諾した。待ち合わせたチェーン店の居酒屋で、最近どうしていたのかという話をして。その話の流れで、友人は大学時代の話を口にした。
 気が緩んだのだと友人は笑っていたが、そんなことがあるだろうか、と渚は首を傾げる。今の彼が『彼』になった経緯自体は何となく理解できている渚としては、どうにも違和感が拭えない。そんな初歩的なミスを繰り返してしまうと、彼が『彼』である意味がなくなってしまうはずで。
 ――極めつけは、先程だ。
 高校時代に交流があった、他校の教師だった『エクソシスト』。数年ぶりに偶然会って世間話をしたが、果たして本当に偶然だったのだろうか。
 この数年、旧知の知り合いとはほとんど関わらない生活を選んできた。一時は転居も考えたが、結局この地に住んではいるので、完全に会わないのは難しい。それでも必要最低限の外出しかしていないこともあり、本当に会わずに過ごしてきた。
 急に立て続けに会うことがあるだろうか。
 そこまで考えて、ゆっくりと息を吐き出す。首を横に振って、思考を追い出す。考えすぎだ。偶然が重なった、ただそれだけのこと。何かを疑う必要も、何かを調べる理由も、今の渚は持ち合わせていない。
 そもそも昔のことなど、思い出さない方がいい。

「……夕飯作るか……」

 深呼吸。日常に戻ろうと決めて、渚はキッチンへと向かった。