Chilling Calm - 閑話02
隙間の話
日本に帰ってきているからといって、別段仕事量が落ち着くわけではない。打ち合わせをするからと律から連絡があり、約束の時間より少し前に恭は茅嶋家を訪れた。
――のだが、律の姿はなく。
「あれ? 桜っち」
「お疲れ様です、恭さん。律様とのお約束ですね」
「うん、ちょっと早いけど」
出迎えてくれたのは桜だ。娘の世話にかかりきりになっている彼女が、こうして出迎えてくれるのは珍しい。そういえば咲の姿もないなと思ったとき、桜が悪戯っ子のような笑みを浮かべて唇に指を当て、恭を手招きした。
きょとんと首を傾げつつ後をついていくと、通されたのはリビング。指差されたソファをそっと覗き込むと。
「……撮った?」
「いえ、起こしてしまいそうで……」
「あー……」
こそこそ、小声でやり取り。
ソファの上には、咲を抱いたまま眠っている律がいた。いつから寝落ちているのか、全く起きる気配はなさそうだ。律がここまで無防備なのは珍しいなと思いながらしばらく眺めた後、桜と二人でこそこそと部屋を出る。
リビングを離れ、いつも打ち合わせのときに使っている部屋に移動して、恭は大きく息を吐いた。
「……えーと? 今日の打ち合わせってらっちっちも来るんじゃなかったっけ?」
「そうです。麻葉さんとのご予定の時間まではまだ1時間ほどありますので、もう少ししてからでもいいでしょうか……、でも恐らく、先に恭さんと打ち合わせするつもりだったとは思うんですが……」
「あんだけ気持ちよさそうに寝てるとなあ……。律さん、昨日徹夜だった?」
「いえ、遅かったですがきちんと睡眠は取られてました。ただこのところ、魔術書の解読に時間をかけていらっしゃるようで……」
「ああー……あれかあ……」
日本での仕事であれば、芹は勿論、現在は禮知に仕事を任せることも多い。そうして空けた時間で、ずっと手元にあるままの課題を片付けている、という形ではあるのだろう。海外仕事のときも、少し集中する余裕があるときに広げているのを見掛ける。
解読が進んでいるのかどうかは、恭には分からない。聞いたところで全く意味が分からないというのもあるが、下手に色々と聞いていると邪魔をするのではないだろうかと思ってしまうからだ。
「……あのっ」
「ん?」
「恭さんから見て、最近の律様って、どうですか……?」
絞り出すように吐き出された疑問に、恭は瞬く。桜としては本当に、律のことが心配なのだろう。彼女自身少しずつ仕事をしている時間も増えているようだが、だからこそ彼女には見えてしまう――仕事上、律だけが抱えているもの。誰も手伝うことができない部分、誰も手伝うことが許されない部分が。
「……んん……分かんないっつか……律さんにも分かんないのかもなーって」
「律様も?」
「うん。最近は結構難しい顔して悩んでることも多くて」
声はかけている。逐次何を悩んでいるのかと尋ねるようにしている。聞かなければいつまでも黙っていることは、よく知っているからだ。しかし、律から明確な回答は返ってこない。それは隠しているというわけではないのだろう、と恭は思っている。上手く言えない、と困った顔をしている律を見ているので。
このところ、律に隠し事をされていると感じることはほとんどない。律なりに、恭にはきちんと情報共有を心掛けてくれているのだろう。他の人に内緒にしていてほしいと言われることは多いが、隠さないのは恭が納得するまで聞くタイプの人間であることを知っているからか。それとも共に過ごす時間が長い分、余計な軋轢を生まないための策なのかもしれない。
――それでも。やはり喉奥に引っ掛かる、小さな違和感。
「……心配だよなあ、桜っち。俺もずーっと心配してんだけど」
「恭さん……」
「でも、律さんがめっちゃ色々考えながら必死に頑張ってんのは、分かるんだよなあ……」
桜を、咲を、自分の周囲にいる人たちを守るために、何ができるか。どうすべきか。
きっと律は、ずっとそのために考え続けている。――自分が傷つくようなことをするな、と言うことは、恭にはできない。代わりにできるのは、近くで支え続けることだけだ。
「信じてて大丈夫だよ、今んとこ。何かあったら俺がぶん殴る」
「……もう。分かりました」
「うしっ、じゃあ律さん起こしに行こー写真撮ろー」
「え!? お、怒られませんかね……」
「いーじゃん、律さんと咲っぺの思い出の1ページじゃん」
いししと笑う恭に、そうですねと桜が応じて。
――その後に起きたひと悶着は、また別の話だ。