Defiled Bliss - 04

 先に英二を抱えた姫が魔法陣を踏んで消え、憂凛も陵を抱えて魔法陣の中へと入る。何とも言えないぞわりとした感覚に襲われ、その次の瞬間には周囲の景色が一変していた。
 薄暗い部屋の全面全てが、様々な魔法陣に覆われている。そして先に行った姫と英二の姿――の先に、香炉がひとつ。

「っ……」
「大丈夫ですか、柳川さん」

 ひどいにおいが、する。
 甘くて苦くて、ひどく濃密で、頭がくらくらする。同じものは姫も感じているのだろう、青い顔をして口許を覆っているのが見えた。陵を下ろして、憂凛も同じように口許を覆う。意識して嗅覚を遮断しても、既に鼻の奥ににおいが残ってしまっている。ふらふらする体を叱咤して、周囲を伺い。
 最初に異変が起きたのは、英二だった。

「――、何だ?」
「旦那様?」

 英二の足元の魔法陣がぼう、と発光している。直後、動きを封じるように赤い光が英二の足にまとわりついた。何なのかと思う間もなく、ぱちぱちという緩慢な拍手の音が響く。音の方に視線を向けると、いつの間にか一人の男が立っていた。
 見た目からして、30代半ばだろうか。どこかやつれた雰囲気を漂わせる、その男から感じる気配は。

「……『ソーサラー』?」
「辿り着いたのは見事だが、君らに用事はないな。死んでくれ」
「ぜーったい、やだっ」

 跳躍の瞬間には、憂凛の身体に狐の耳と尻尾が顕れていた。力任せに尾を叩きつけたものの、突如現れた赤黒い何かに阻まれ届かない。立て続けに動いた姫の攻撃も同様に対処した男の唇が、何かを紡いでいる。

「っ……ひめちゃんあぶない!」
「な、」

 気付いたときには遅かった。姫の背後にあった魔法陣が発光し、赤黒い光が姫の身体を貫く。膝をついた姫に英二が声を掛けているが、反応が薄い。そして今、英二は動きを封じられている。
 救援に駆け出そうとした憂凛を制止したのは陵だった。懐から取り出したのは応急処置用の薬だろう。傷口に当てれば、僅かながら回復していくのが見える。
 それに舌打ちしたのは男の方だ。ふっと英二の足元の光が消え、代わりに同じように捕らえられたのは――陵。

「姫、大丈夫か」
「情けないところを……申し訳ありません……」
「ひめちゃんになにするの……!」

 自由になりすぐに姫に駆け寄る英二に安心しつつ、憂凛は男に向き直る。先程は止められた、ならば狙いを変え、動きを変え、僅かでも相手に一撃が入るように。掠りさえすればいいと思った一撃は、狙い通り。憂凛の尾は男の右肩辺りを直撃し。
 ――どくん。
 嫌な鼓動。途端湧き上がってきた感情は、恐怖だ。慌てて気を奮い立たせたものの、ばくばくと動悸が収まらない。恐らく攻撃の瞬間に何かをされた――だが、それが何なのかは分からない。
 とてつもなく嫌なものを、相手にしている。それだけは確かだ。
 体勢を立て直した英二と姫がそれぞれ動いているが、あっさりと攻撃は防がれ、代わりに赤黒い光が再び二人を蝕んでいく。このままでもどうにもならない、突破口を見つけなければと考えた直後、今度は憂凛の足元の魔法陣が光り。

「もうっ……これ、うっとうしいっ……!」
「憂凛!」

 力任せに赤い光に抵抗しようとしても、びくともしない。恐らくこの部屋に誘い込まれてしまった時点で、避けることができない罠ではあったのだろう。とはいえ、一度に一人しか捕らえられないのであれば、臨機応変に対応していくしかない。
 目まぐるしく入れ代わり立ち代わりながら、戦闘は続く。4対1の状況で攻撃も防御も捌いている男はさすがに疲れてきたのか、小さな舌打ちが聞こえた。気付けば赤黒い何かが男を守ることはなくなっている。余裕がなくなっているのか、あるいは手持ちのリソースを使い切ったのか。
 どちらにしろ、男を止めるには今が好機と考えた方がいい。畳みかければ――いける。
 陵の斬撃を男が躱したそのタイミングで、憂凛は跳ぶ。そのまま背に尾を叩きつければ、男の身体がよろめいた。その隙を見逃さず、英二の銃撃。瞬間、英二に黒い霧が纏わりついたものの、男が昏倒して霧は消えていった。

「……手こずったな……」
「大丈夫ですか、丁野さん。最後何かされてましたよ」
「いや別に何も」

 黒い霧が何だったのかは分からないが、英二はけろりとしている。何かしようとしたものの間に合わなかったのだろうかと思いつつ、憂凛は男を起こした。最後の英二の一撃が綺麗に入ったのだろう、目を覚ます気配はない。
 ひょい、と英二が男の顔を覗き込み、てきぱきと拘束を始める。

「舌噛まれても困るからな。姫、起こせるか」
「大丈夫です、少しお待ちを」
「むりしないでね、ひめちゃん」

 最初に喰らってしまった攻撃が、どうしても尾を引いてしまっているのだろう。満身創痍の状態でふらつきながらも、姫が男の治療を始めて――その光景に首を傾げたのは、陵だった。

「……丁野さん?」
「ん、何だ」
「玉藻先生に治療していただくんですか? ……あなたもできましたよね? 確か」
「……うん?」
「……なるほど?」

 きょとんとする英二に、陵は大きく息を吐き。ごそごそと懐を漁ると、取り出した札をぺたりと英二の額に貼り付けた。うわ、と小さな声。そして溶けるようにして札が消えていき。

「……やっぱりあなた、今引きずられてましたね?」
「えっうそっ」
「……うん、多分? 何か、すまん……?」

 あまりにも変化がなさすぎる。しゅんとする英二を見ても、先程の状態が引きずられていたものだとは思えない。陵が見抜いたのは、さすがと言うべきか。
 はっとして姫の方を窺えば、治療を終えた姫がにこりと微笑み。

「旦那様。後程、一緒にお父様のところに参りましょう」
「いやそれは別に俺一人で」
「一緒に行きましょうね?」
「……ハイ……」


 姫の術を使うことで、一行は一旦魔法陣まみれの空間から脱出し、元居た部屋に戻ってきていた。香炉は置いてきている――今のところどう扱えばいいものか、判断がつかなかったからだ。壊してみてもいいが、その結果として律が更に窮地に追い込まれてしまう可能性がないとも言い切れない。ひとまず男に術について話を聞き出すしかないだろう、ということになったのだった。
 だがしかし――目を覚ました男は、何も話す気はないようだった。

「往生際が悪いなコイツ」
「丁野さんに言われたくはないと思うんですが」
「うーん……ワンチャンもう大丈夫になってないかなあ、と思ったりもしたんだけど……」

 男を捕らえたことを律に知らせるついでに状況を聞いてはみたが、何も変わってはいないという返答だった。今朝のしんどそうな律の姿を思い出すと、何も解決できていない自分が歯がゆい。
 禮知が足りないと言っていた書類を探してもう一度家探しはしてみたものの、特に何も見つからない。男が鼻で笑っていたことから考えて、この部屋からは既にその書類は持ち出されている可能性もあるだろう。
 となれば、残る探し場所は。

「一度香炉を調べに戻るしかないか……」

 英二の言葉に、男が英二を睨み上げる。英二はそれをちらりと見返してから、浴室の方へと歩いていく。慌てて後を追ったのは姫だ。今のところ魔法陣で移動した先から戻るには、姫の術を使う他に方法が分からない。
 お気をつけて、と二人を見送った陵が、男の前に腰を下ろした。男はただ、陵を睨んでいるだけだ。

「そもそも大前提として、何が目的で茅嶋さんを狙ったんです?」
「……」
「写真から推察するに、随分と執着されていたようですし。たまたまではないですよね。わざわざあんな香炉を手に入れてまで茅嶋さんを狙ったのには、何か理由があるんでしょう?」
「……」
「全然答えてくれる気がなーい……」
「困りましたねえ……」

 何を聞いてもだんまりでは、埒が明かない。先程までは英二が煽るようなことを言って怒らせて口を割らせようとしていたが、そちらにも反応はなかった。こうなると専門の人間に任せてしまった方がいいのかもしれない。
 しかし、あまり悠長にしている時間はない。いつ律がどうなってしまうかも分からない。男がこうして口を割らずにいるのが、時間稼ぎである可能性も否定はできないのだ。
 さてどうしたものかと頭を悩ませていると、どたばたと慌てたような音が聞こえた。英二と姫が戻ってきたのかと、そちらに視線を向けて。

「えっ、ジッポ先生どうしたの!?」
「あの香炉に触れた瞬間、旦那様、気を失ってしまって……!」

 姫の腕に抱えられているのは、ぐったりとした英二。完全に昏倒してしまっているようで、陵が呼び掛けているが反応はない。
 ――香炉に触れると、気を失ってしまう。そうなると運ぶことも壊すこともできない。どうすれば、と思ったとき、ふと思い当たる。
 ここまで来たのだ。もしかしたら、手伝ってくれるのではないだろうか。
 慌てて鞄を漁って、ポーチの中から律に預かった指輪を取り出す。今のメンバーでは、魔術について詳しい者はいない。最も詳しい者は、どう考えても巧都だ。
 駄目ならそのときは、律に無理を頼むしかないかもしれない。ぐ、と指輪を握りしめて、憂凛は姫の方を見た。

「ヒメちゃん、私が行く。ジッポ先生のこと心配だろうけど、一緒についていってもらってもいい?」
「……でも、どうにかできるの? 同じことに……」
「多分、大丈夫だと思う。だから私のこと、無事に連れて帰ってほしいな、なんちゃって」
「っ……分かったわ。中御門さん、旦那様をお願いします」
「はい。危険を感じたら、すぐに戻ってくるんですよ」

 心配そうな陵にしっかりと頷いてみせて、憂凛は浴室にある魔法陣へと向かう。踏めば一瞬で眼前の景色が変わり、先程までいた魔法陣だらけの部屋に移動していた。強いにおいは変わっていない。気を落ち着かせている間に、すぐに後ろから姫が現れる。

「本当に大丈夫なの? 憂凛」
「大丈夫……、だと思う」

 どんな畏友があれ、巧都は自分から助けを申し出てくれた。そして言われた通り、『カミ』の力は借りずにここまで来た。
 ――だから。

「手を、貸していただけませんか」
「ふん。まあ、ギリギリ及第点にしてやってもいい」

 ふらり。音もなく、気配もなく現れた巧都が、そのままひょいと香炉を掴む。その瞬間にひらりと落ちた紙を拾い上げると、内容はさっぱり理解できないものの、足りなかった書類だろうという推察はできた。
 くる、くる。楽しげに手の中で香炉を回しながら、巧都は姫に視線を向けた。どうしたのだろうと思えば、その口許を象る笑みが濃くなり。

「イイ女のことは好きだからな、教えてやろう。お前の旦那が引きずられたままなら、この香炉に触っても平気だったぞ、視野が狭かったな」
「――!」
「ま、ボーナスってことで、お疲れさん。弟クンの嫁ちゃんはその書類の内容をやっしーに送ってやれ。アイツなら後は自分でどうにかできんだろ」

 はは、と楽しげに巧都が笑って。
 その手の中で、さらさらと香炉が砂と化して消えていった。