Defiled Bliss - 02

 神主姿から私服に着替えた陵の運転で、3人は貸会議室のあるビルへと辿り着き――その入り口で仁王立ちしていた見知った女性に、憂凛は思わず飛びついた。

「ヒメちゃんだー! 何でここにいるのっ!?」
「あら、憂凛?」

 そこにいたのは玉藻 姫――狐の『化生』であり、この辺り一帯の狐を束ねている存在だ。憂凛にとっては親戚の姉のような存在である。そして彼女は現在、英二の伴侶でもあった。
 何でここにいるんだ、と頭を抱えた英二を見た姫は、そのままキッと隣にいた陵を睨む。意味が分からずに瞬く陵を、びし、と指差して。

「そこの旦那様の悪い御友人が! また旦那様を危険なことに巻き込もうとされているようでしたので! 部下に仕事を押しつ……任せて駆け付けた次第です!」
「わるいごゆうじん」
「押し付けてやるなよ……」
「ヒメちゃん、誤解だよ、憂凛が助けてもらうの」
「憂凛が? ……何かあったの?」

 慌てたせいで思わずいつも『狐』の身内側で見せている、昔ながらの甘えた口調で話してしまい反省しつつ。怪訝そうな表情で憂凛を見下ろした姫に、かいつまんで状況を説明する。とはいえ、こんな場所では誰が聞いているか分からないので、流石に律のことまでは話せない。
 それでも何となくは察してくれたのだろう、姫は神妙な面持ちになった。

「……せっかく来てくれたし、ヒメちゃん、私のこと手伝ってくれたりしない?」
「それは……、けれどあまり旦那様を危険な目に遭わせたくはないのだけれど……」
「人手は多い方が嬉しいし助かるんだけどなあ……あ、そうだ」

 ふと思い出して、憂凛はスマートフォンを取り出した。姫の前に差し出したのは、先程神社で撮影した英二の写真である。
 ――そして思った通り、姫の目の色が変わった。

「ファイル共有」
「手伝ってくれるの?」
「当たり前じゃない!」
「さっすがヒメちゃん!」
「おいこら待てそこの狐たち、俺の写真で取引を成立させるな」
「まあいいじゃないですか……ここで丁野さん連れて帰られても困りますし……」
「ぐう」

 ツッコミを入れる陵の声が、既に疲れている。何だか申し訳ないなと思いつつ、メンバーに姫を加えて一行はビルの中に入ることにした。
 受付に話を通し、指定された部屋へと入る。それほど広さのない、応接室に近い会議室だ。デスクと椅子は綺麗に並べられており、整然とした印象を受ける。

「……香炉はないな」
「そうですね……」
「でも、絶対にここに何かあった、と思う」

 律から感じた、嫌な雰囲気の甘くて苦いにおい。それは確かにこの部屋に残っている。それほど広い部屋ではないのだから、香炉があればすぐに分かるはずだ。だがしかし、それらしいものは見当たらない。

「あったとしたら、ここでしょうか」

 陵が指摘したのは、棚のように置かれている一角。何か乗せられそうだが、そこには何もない。しかし、何かを動かしたような形跡はある。香炉が置かれていたとしたら、会議用の長机か、その棚の上しか考えられない。
 律がここに訪れたときには存在していたはずのものが今はない。つまりは香炉を持ち込み、そして持ち帰った人間がいるということだ。

「下の受付で入館履歴とか見せてもらえないかなあ」
「個人情報じゃないのかそういうの。茅嶋くんならさくっと確認しそうだが」
「ああ、そうか。持ってきてますよ」

 英二の言葉に、陵がごそごそと取り出したのは――警察手帳。以前、律に「調査するときにあると便利だから」という理由で持たされた、とのことだった。何らかの報酬のような形で調達したのかもしれない。

「何でもアリだなあの男」
「まあ茅嶋さん、警察はお得意さんみたいですし……」
「恭ちゃんも持ってる、警察手帳」
「大丈夫なのかアイツに持たせて」
「……この間出すタイミング間違えてましたね……」

 遠い目になった陵には、何か苦い思い出があるらしい。何故か詳しく聞かない方がいい気がして、憂凛はそっと目を逸らした。
 ひとまず、目的の香炉がない今の状況では、この部屋にいつまでも滞在していても仕方がない。会議室を出てもにおいは残っていたものの、ビルの外で話しているときにはにおいはしていなかった。紛れて消えてしまっているとなれば、嗅ぎ分けて追うことは難しい。

「ねえヒメちゃん、あのにおい覚えある?」
「全く。あまり良いにおいではなかったわね……けれどかなり特徴的ではあるから、間違えることはないと思うわ」
「うん、私もそう思う」

 嫌な、甘くて苦いにおい。そうとしか形容できないが、同じにおいは恐らく二つとないだろうと思えるもの。
辿るきっかけさえ掴むことができれば、問題はない。
悩みつつ階下に降りると、さっそく陵が受付に話を通していた。職員が出してきた予約履歴のファイルには、ここ1か月分の予約の状況と予約者の情報、そして入退室の記録が残されている。

「柳川嫁、茅嶋くんが来た日時は聞いてるか?」
「もちろんですっ」

 その辺りはしっかりと確認済みだ。該当する日付のページを開けば、確かに『茅嶋』の記載が残されている。偽名や他者の名を借りずに予約しているのは、律の方針だろうか。
 なら、と英二が前後のページを確認する。――該当するのは、一人だけ。同じ名前の人物が、律の前後の日付で予約を取っていた。

「……この佐藤某が怪しいな」
「明らかに偽名でしょうね……佐藤なんて名字、ありふれてますし……」
「一応住所は同じみたいだな」
「その住所、でたらめですわね。検索しても一致する住所がありません」
「じゃあもうコイツで決まりじゃないか?」
「監視カメラを確認させてもらいましょう。この人物の姿は確認できるはずです」

 日時が分かっていれば、映像も確認しやすい。再度陵が職員に声を掛け、バックヤードで該当する日時の映像を用意してもらう。
 何人かがビル内に出入りしている中、一人だけ明らかにおかしい人物が映っていた。体格から男であることは想像がつくが、顔の部分だけが妙に不鮮明で、認識ができない。何らかの術を使い、特定できないように細工をしているのだろう。そこまでしているのなら、この人物が犯人で間違いないと考えていい。
 だが、問題は。

「……とはいえ名前は推定ですが偽名、そして住所はデタラメ。姿も分からない……となると、調べようがないですね……」
「何とかならんのか」
「うーん……簡単に尻尾掴めるとは思ってなかったけど……」

 職員に礼を言って、バックヤードから出る。さすがにこれ以上、このビルで得られる情報はない。情報は得られたが、手詰まりだ。

「……茅嶋くんに一度連絡してみるか? アイツ実はまだ情報隠し持ってるんじゃないだろうな」
「さすがに自分に関わることですし、何も隠してないと思いたいですが」
「う……でも、茅嶋さんだいぶとしんどそうだったから……」
「ふーむ。まあまだ電話する段階でもないか……」

 おずおずとした憂凛の申し出に、英二が腕を組んで唸る。律から何かあれば連絡してと言われてはいるが、あまり頼りたくないというのが正直なところだ。手詰まりであると言ってしまえば、律の性格上無理をしかねない。
 ちらり、と手に持っているバッグに視線を落とす。ここで一度、巧都に助言を求めるべきだろうか。何かしらの対価を支払う必要はあるかもしれないが――と思ったところで。

「……?」

 不意に視線を感じて、憂凛は顔を上げた。辺りを見回したものの、周囲にいるのは、ビル内に出入りする僅かな人数。こちらに視線は向いていない。ビルの外だろうか、と3人に断って少しだけ外に出て。

「――! ヒメちゃんっ」
「どうしたの、憂凛」
「ちょっと来て!」

 慌てて戻って姫の腕を掴み、二人で外に出る。急な憂凛の行動にきょとんとしていた姫はしかし、すぐに憂凛の言いたいことに気付いたらしい。
 ――鼻を擽る、甘くて苦い、嫌なにおい。
 外であるにも関わらず、先程の貸会議室の室内よりも遥かににおいは色濃い。先程までここに犯人がいて、様子を窺っていた可能性は高そうだ。二人を追って出てきた陵と英二は何も感じないらしい。となればこの先は、憂凛と姫で追うという話になる。

「におい、追いかけてみる! どこかに辿り着けたらチャンスだしっ」
「私も一緒に行きます。旦那様と中御門さんは」
「姫と柳川嫁のスピードについていける訳がないだろう……」
「後で車で追いかけます。どこかに着いたら、すぐに教えていただけますか。……どこかに辿り着いても、二人で行っては駄目ですよ?」
「はいっ」

 真剣な表情の陵に念を押され、憂凛は頷く。においを追った先にどこに辿り着くのかは分からない。行動は慎重であるべきだ。
 姫と二人で少しの確認を行い――そのまま、二人はにおいを辿り走ることとなったのだった。