Fragile Scent - 03

 目を覚ますと、見知った自分の寝室の天井が目に入った。ぱち、ぱち。軽く瞬いてから体を起こそうとしたものの、全身に全く力が入らない。

「おー、起きたか」
「……たくと、」
「魔術使い過ぎと寝不足で体ぼろぼろだ、動けるわけねえだろ」

 寝てろ、と笑われて息を吐く。時計へと視線を向けると、時刻はとっくに真夜中を回っていた。目と閉じて集中し、体の状態を確認する。侵蝕を防ぐための防御魔術は途切れてしまっているが、何かに侵蝕されたような形跡はない。だが、違和感はそのままだ。
 ――香炉。当たりはついたが、この状態で律が調査に出向くことを是とするような者がいないことくらいは、理解している。

「……桜は?」
「今のお前には大変よろしくないからな。解決するまで近寄るなっつー話はしてる」
「……俺どうなってんの」
「単純な話だよ。――お前の中に入り込んだ術式は、お前の『幸福』を喰らって成長する」
「……幸福……?」
「そ。早い話が、『幸福で在れ』という名の呪いだな」

 言われて初めて、合点がいく。だから、桜と咲の二人と過ごしていると、時々強い痛みが走っていたのだ。恭が憂生を抱き上げたのを見たときに、痛みが走ったのも当然だ。その光景は、幸福の象徴のようなものなのだから。
 幸福を感じることを封じることは不可能で、避けようと思えば孤独を選ぶしかなくなってしまう。術に殺されたくなければ孤独を選べ、とでも言われているかのような状況。――そういう、罠。

「なかなかヒトの心がないな……見習いたいね……」
「ははっ。やっしーが寝てる間に諸々話は進んでたぞ。今回は甘受するしかねえんじゃねえか」
「どうなったの」
「弟クンはお前が言ってた通り、明日からの仕事は『ソーサラー』のアイツと組んで片付ける。さすがにあの感じじゃまだまだ不安定すぎるコンビだしな、女子高生は弟クンについていくらしい。狐嫁に絶対に一人で先走らずに『ソーサラー』の指示もらってから動けって散々言われてたぞ」
「あー……さすが憂凛ちゃん……」

 恭の扱い方については、憂凛もよく心得ている。今回は特に律がこんな状況だ、何も言わなければ恭の場合気合いを入れて空回りしかねない。それでもまだ不安はあるが、予定していた仕事はそれほど難度の高いものではなかったはずだ。調査もほとんど済んでいる『怪異』の討伐依頼が主軸だった覚えがあるので、二人でも上手くやれるだろう。
 それで、と巧都は言葉を続け。不意にその口許が、悪戯に歪んだ。

「お前の方の調査は狐嫁が行くってよ。子供らは実家に預けてくるってよ」
「……は? 何で憂凛ちゃんが」
「においが分かるのが、狐嫁しかいねえからだよ」
「っ……でも、そんなの」

 憂凛の強さはよく知っている。戦闘面では基本的に心配はいらない――しかし、彼女を巻き込むわけにはいかない。それに巧都は先程、『黄昏の女王アリス』は恭についていくと言っていた。
 彼女を一人で行かせるようなことはできない。そもそも恭が、どれだけ憂凛に言われたとしても、それに頷くとは思えない。一番憂凛を危険に晒すことを嫌がるのは、恭だ。
 となれば、他にも何かあるということか。まさか芹を巻き込んだりしていないだろうかと考えてしまったところで、巧都の笑みが濃くなり。

「――そんなわけで、俺がついていくことにした」
「……はい?」
「おもしれーし。まあ、やっしーの代わりくらいはしてやるよ。解決に口出しはしねえけどな」
「……待って待って、どういうこと?」
「女一人守ってやるっつー話だよ。それで弟クンも渋々納得した」
「いや、そこじゃなくて。……どういう風の吹き回しなの、それ」

 何の対価もなく、巧都がそんなことをするとは思えない。
 彼は紛うことなく『カミ』であり、『ウィザード』だ。対価に見合わないことはしない。代償なくその力を振るうことを認めない。以前、恭が夢の中に閉じ込められたときは「面白そうだから」と力を貸してはくれたが、あれはあれで後で対価をきっちりと請求されている。
 今回も後払いか、と身構えた律を見下ろして、巧都はすうと笑みを消した。

「俺は自分の所有物に好き勝手傷をつけられるつもりはねえぞ、律」
「……え」
「その魂は俺のものだ。勝手に傷付けて価値を下げるようなことは認めない。これ以上は目に余る。ヒトが頑張ってお前を救うと言うのなら、俺はもう少しだけ待ってやる。――無理だと判断したら、俺はお前の魂が傷ついて弱る前にその魂を徴収する」

 それは巧都と交わした、力を借りるための契約条件。
 律の命が尽きるとき、その魂は巧都に喰らわれる。律はそれを受け入れた。今更、そこに異議を唱えるつもりはない。そしてこの場合、契約上の問題を持ち出してきているのは巧都の方だ。
 魂に、傷がつく。故にこのままでは契約違反になる。それであれば今、律を殺すと――そういう話をされている。
 律が現在置かれているのは、そういう状況なのだ。

「……そこまで?」
「そこまでのことになってんだよ。思わずいつ教えてやろうか悩んじまったろ」
「黙ってそのまま魂持ってくこともできたのに、律義だね、陛下」
「今喰らうには、お前の人生は面白くて勿体無い」
「それは光栄です」

 律の幸福に絡みつく術式。成程そう考えれば、魂に傷がついて摩耗させるような事態になるのは道理かもしれない。となれば、巧都の行動にも理由はある。
 さて、解決のためにはどうすればいいか。巧都は口出ししないと言った。つまり、確実に憂凛とともに、この事件を解決してくれる相手に依頼するしかない。となれば。
 ――もともと依頼するつもりだったのだ。こっぴどく叱られる可能性はあるが、そこはもう諦めるしかない。

「何をどっから説明したものかな……」

 苦笑いひとつ。朝に連絡を取るべく、律は思考を巡らせたのだった。