Fragile Scent - 02

「律さん調子悪い」
「断定してくるじゃんこの子……」

 数日後。『怪異』退治の仕事を終えた後、『変身』を解いた恭が険しい表情で律を振り返る。隠し通せているとは思っていなかったので、律は肯定も兼ねて返事を返した。
 ――残念ながら、律の身体から違和感は消えなかった。原因の解明のため、そして何らかの侵蝕の危険性を鑑みて、四六時中魔術のリソースを使用し続けているような状況になってしまっている。どうしても戦闘時に割けるリソースが激減してしまっているので、常日頃律の魔術を見ている恭が気付くのは当然だ。

「熱中症? 夏バテ?」
「違うと思う……多分何かされてて、そのせいで今調子全般的によろしくないやつですね……」
「は!? 何でそういうこと早く言わないんすか!?」
「どこで何されたのか全然心当たりなくて。とりあえず仕事片付けつつ原因調べて、糸口掴めたら相談しようと思ってたんだけど……」

 さすがにこの状態で十全に仕事ができるなど、律も考えてはいない。どちらにしろ心配を掛けてしまうことは重々承知しているので、せめて原因くらいは把握しておきたかったのだ。思いのほか時間がかかってしまっているのが、誰にも言えていない原因になってしまっているのだが。
 もう、と怒る恭に連れられ、車に戻る。助手席に腰掛けて、ゆっくりと息を吐き出して。普段こうしている分には、別段どこかに痛みを感じることは全くない。いつも通りで、体に違和感も何も感じない。

「で? どういう状態なんすか、今」
「確証はないんだけど、多分、家で桜や咲と過ごしてると、頭とか胸が引くほど痛い」
「……へ?」
「俺に対する個人的な攻撃ってことになるんだと思う。確認してみたけど、桜と咲、それに椿、伊鶴さん、芹ちゃんとか、うん、変わった様子はなかった」
「ちなみにそれ、桜っちには言ったんすか」

 恭の質問に、律は肩を竦める。恐らく律の不調に関しては気付いているだろうが、直接説明はしていない。律自身、桜にどう説明すればいいか分からないというのが正直なところだ。
 何度思い返しても、どこで何に引っ掛かったのか分からない。朱緋を頼って関西に行くまでの話ではないだろうと思うが、戻ってきてからは打ち合わせばかりだ。場所は様々ではあるものの、危険があると思われるような場所はない。他に外出もしていないので、狙われるような場所はなかったはずだ。
 となると、何らかの方法で律のスケジュールを事前に把握し、気付けない程入念にトラップを仕掛けられたのか。だとすると、それはどんなトラップなのか。今の律の状態に、どんな理由があるというのか。

「もー……ええー……また『院』すかね……?」
「まあ可能性は高いよねえ。そうなると次から次に飽きないなーって感じだけど」
「どうするんすか。家いるとしんどくなっちゃうってことでしょ?」
「そうなる。……居場所をなくしちゃえーって感じなのかなー……」

 今は律だけの問題だ。だから、律が耐えていれば済む。
 だが、この症状がもし桜や咲にも出るようになってしまったら――と考えると、寒気がする。だから、どうにか早く片付けなければならない。どこから、何から。ひとつでもヒントを掴んで、早く。そう考えてしまうから。

「いつものことだけどさー、駄目だね、一人で考えてると」
「俺も何か調べるの手伝えないすか」
「んー……もう一回心当たりないか整理してみる。どっちかっていうと禮知くんにまた頼んで、二人で仕事片付けてもらえる方が助かるかもしんない……」
「スケジュール、がっつり組んだ後っすもんねえ……」

 調査自体は、もう少し目処が立てば知り合いを頼るという手も考えていないわけではない。もしこれが『院』の事象であれば巻き込みたくないのは山々だが、そんなことを言っていて手遅れになってしまう方が大問題だ。ただでさえ仕事も多い時期だ、頼れるものは頼っておいた方がいいだろう。

「もー……んで?桜っちにはナイショにしとくやつっすね? それ」
「うん、お願い。ちゃんとタイミング見て自分で言うから」
「律さんそのうち桜っちに殴られても俺知らないっすよ」

 真顔で恭にそんなことを言われて、律は苦笑う。そんな事態には陥りたくもないが、自分の行動を省みると否定できないというのがつらいところだ。
 帰ったら仕事の内容をもう一度確認してから、禮知に連絡を取ろうと心に決めて。疲労のせいかくらりと襲ってきた眩暈に、小さく舌打ちをした。


 一休みしてから恭と共に自宅に戻ると、来客の姿があった。

「あれっ、ゆりっぺ!」
「おかえりなさーい、恭ちゃん、茅嶋さん」
「おかーなさ!」
「柳川家勢揃いだー、どうしたの?」

 訪れていたのは憂凛、そして憂生と玲生。来るとは恭も聞いていなかったらしく目を白黒させながら、駆け寄ってきた憂生を抱き上げる。先ほどまでわいわいと騒いでいた恭が嘘のように父親の顔をしているので、何とも微笑ましい気持ちになって。
 ――ずきん。
 胸に走った激痛に、息を吐く。

「おかえりなさい、律様、恭さん。憂凛さんがゼリー買ってきてくださって」
「あ、ほんと?ありがとう、憂凛ちゃん。どこか行ってたの?」
「今日れーくんの検診で。せっかくだからパパと一緒に帰ろうかーって思って、手土産持参で来ちゃいました。急にすいません」
「全然いいよ。あ、夕飯食べてく?」
「いえいえっ、お構いなく。茅嶋さんの手を煩わせませんよっ」

 ごはんの用意は終わってます、と憂凛が笑う。出かける前に仕込みだけは終わらせてから外出していたのだろう。さすがにその辺りは手慣れたものだ。それであれば、律としても無理に誘う理由はない。
 また今度、ゆっくり食事ができるタイミングもあるだろう。その頃までには自身の体のことも解決すればいいな、と思った矢先。

「――あれ」
「ん?」
「茅嶋さん、最近シャンプーとか香水とか柔軟剤とか、何かそういうの変えました……?」
「え、いや、全然? 何で……、」

 憂凛の問いに首を傾げて問い返そうとして、言葉が止まった。彼女の腕の中に抱かれている玲生が、じっと律を見つめていることに気づいたからだ。その表情は、どこか怯えているように見て取れた。
 玲生が憂凛から『狐』の素質を色濃く受け継いでいるのは、周知の事実だ。『狐』としての能力を制御できている憂凛とは違い、その感覚は獣に近しいものがある。玲生の様子に気づいて、憂凛もその制御を緩めてみたのだろう。
 ヒトの嗅覚では捉えられない、何か。

「……何かにおう?」
「え、律さん早くお風呂入ってきた方がいいやつ?」
「そういうのじゃない、何か茅嶋さんの内側から……こう……ちょっと嫌な感じの、甘くて苦いにおい……って言えばいいのかな、そういうのがする感じ」
「……ちょっと待って」

 記憶を掘り返す。思い当たることは、なかっただろうか。
 ――そう、確か。打ち合わせ先のひとつに、綺麗な意匠の香炉のようなものが置かれていた。世間話の一環として、話題にした覚えがある。貸会議室を借りて打ち合わせをしたので、打ち合わせ相手とは直接関係はないはずだ。
 香炉が点いていた覚えはない。何かにおいがしていたのなら、律の印象にももう少し残っていたはずだ。だが、それがヒトの嗅覚では捉えることができないにおいを発しているものなら。そしてそれを逆手に取って、知らぬ間に律の体内に巣食ったのだとしたら。

「……どう考えてもそれしか考えられない、ありがとう憂凛ちゃん」
「え? え?」
「これを糸口に、やっと調査、でき、る……」

 ――ふらり。
 急激に体の力が抜けていくのを感じる。律様、と叫ぶ桜の声と、慌てて体を支えてくれる恭の腕。
 解決できるかもしれない、と思ったほんの一瞬。気が抜けてしまったのだろう、ぐわりと押し寄せてきたのは疲労感と虚脱感。ただでさえこの数日、魔術を四六時中連続使用しているような状況だったのだ。気が緩めば、その分押し寄せる疲労はいつもよりも色濃い。
 意識を、保っていられない。視界が暗転して。

「……しゃーねえなあ」

 呆れたように笑う、巧都の声を聞いた。