Malicious Forethought - 01
海外での仕事がかなり多忙であったこともあり、「少し休んでから仕事再開にしようか」と律に提案された。恭としては断る理由はないので、それに頷いて普段通りの生活をしていたのだが。
――こういうときどうしたらいいのか、さっぱり分からない。
「うちの旦那さんから離れていただけませんか?」
「す、すいません……でも、怖くて……」
「怖かったのはめっちゃ分かるんだけど」
「恭ちゃん?」
「……いやこの状況にはね、俺もめちゃくちゃ困ってるんですよ……」
恭の右腕にひし、とひっついて離れない女性が一人。トレーニングの帰り道、たまたま『怪異』に囲まれているのを見かけたので、条件反射で助けに行った。すると怯えてしまった彼女がそのまま離れなくなってしまったのだ。家族全員の食事を調達していたこともあり、困って憂凛に連絡した。間違いなく、それが悪手だった。
暑い中だというのに、ブリザードが吹きすさんでいそうな状況になってしまっている。憂凛に手をつながれている憂生と、腕に抱かれている玲生が何かを察しておとなしくしている時点でただ事ではない。
「いやまじ何でこんなことに?」
「大体何なんですかあれっ……」
「何がいたの?」
「正直よく分かんない。傷だらけの子供たちに取り囲まれてる、みたいな状態だったんだよなあ……でも、話したらみんな静かに消えてっちゃった」
怪我を負った子供の群れに囲まれていた、という表現が一番正しいだろうか。
彼女を取り囲むようにしていた子供たちはしかし、特段敵意や殺意といったようなものは感じなかった。しかし、全員が瞬きもせずに女性を見つめていたというのは異様な光景で、見つめられていた女性はたまったものではなかっただろう。お姉さん怖がってるでしょ、と話しているうちに姿を消してしまったので、結局何だったのかはよく分からない。
――恭としては、ふうん、と無表情に呟いている憂凛のほうがよほど怖い。
「何の理由もなくそんな目に遭うかなあ……」
「でも実際遭ってたし……」
「とりあえず、だからって今うちの旦那さんに引っついとく理由ないですよね?」
にこり、笑う憂凛から女性へと視線を移す。怖い。女性はびくりと体を震わせ、恐る恐るといった様子で恭を見上げた。はは、と乾いた笑いを返すことしかできないのが正直なところだ。
「えと、あの、俺動けないんで……離してもらって……?」
「す、すいません……」
謝罪しながら、女性はようやっと少し離れてくれた。――が、その手はジャージの裾を掴んでいる。完全に離してくれる気はないらしい。
さて、これはどうしたらいいのか。とりあえず憂凛を呼んだのが失敗だったことは分かる。気温も上がってきているので、子供たちを連れて早く家に帰りたい。恭がおろおろしているのは憂凛にも分かっているのだろう、深い溜め息を吐いて。
「……えーと。あなた、お名前は?」
「え」
「また襲われるかもって不安なんですよね? 連絡先の交換しましょう。何かあったら私に連絡してください。すぐ駆けつけるので」
「で、でも」
「だいじょぶ、うちの奥さんめっちゃ強いから……」
正直なところ、本当に恭では歯が立たないので。
何より狐の力を使えば、憂凛はあっという間にその場に駆けつけることができる。味方としては非常に頼れる存在だ。
困惑した表情で恭と憂凛を見比べた後、女性は恐る恐る口を開いた。
「……高階 華純、です……」
「は!?」
事の次第は律に報告しておこう、ということで。その日の夕方、恭は茅嶋家を訪れていた。夕方になってしまったのは、すっかり機嫌を損ねてしまった憂凛を宥めていたからだ。「万が一にも恭ちゃんが浮気するなんて思ってないけど、女の人に引っつかれてるのはぜーったいに嫌!」とのことだった。それはそうだよな、と恭は反省せざるを得ない。とはいえ、あの状況では他に呼べる相手も思いつかなかったので、許してほしいところだ。
そんなこんなで訪れた茅嶋家で、律に今朝の一件を報告したところ。女性――華純の名前を聞いた瞬間、律が素っ頓狂な声を上げた。思わぬ反応に、恭はどう反応したらいいのか分からない。
「その人、高階 華純って名乗ったの? 本当に? 聞き間違えてない?」
「う、うす……律さん、知り合いすか?」
「……この間から、誰が俺を殺してくれって依頼したのかを調べてて。そのときに名前挙がったのが、その高階 華純」
「ふーん……、……へ!?」
――少し前に起きた事件を思い出す。
モルテン=ニーグヘルト、ヘルト=ヴェーメルと名乗る二人組に襲撃されたのは、この春のことだ。二人は誰に依頼されたのかという話をしていなかった気がするが、その辺りは律が独自に調べていたということだろう。
しかし、とてもではないが今朝会った彼女が律の殺害を依頼した人物だとは思えない。ひどく怯えた様子だった華純が、殺害依頼などという大胆なことをするだろうか。
「ええー……別人では……?」
「でもどう考えてもそうある名前じゃない気がするしな。別人だとしたら高階 華純を名乗らされてるとか、そういう可能性はあるかもしれないけど」
「……何か仕掛けられてるっすか?」
「このタイミングで何もない方が気持ち悪い」
「それは……そっか……」
そんな偶然は、恐ろしいほど低い確率だということだけは、恭にも分かる。
華純と連絡先を交換したのは憂凛だ。じゃあ俺も、と口にした途端に憂凛に本気で怒られたので、恭は交換していない。
「……あれ? え、俺うっかりゆりっぺ巻き込んじゃったのでは……?」
「どうかな。恭くんとコンタクトを取るのが目的だったなら、憂凛ちゃんの介入で失敗したっていう見方もできるけど。……ぶんちゃん、記録残してる? というか、『ウィザード』だったかどうかを確認したいんだけど」
「あ、そうか」
基本的に、『分体』が恭の傍を離れていることはない。恭のスマートフォンの中を住処としている上、恭がスマートフォン自体を忘れて出かけることはほぼないからだ。最近は『分体』のためにスマートウォッチを買うべきかどうか悩んでいたりもする。
取り出したスマートフォンの上に浮かび上がる、白いもやもや――『分体』。しかしそこから出てきたのは、困惑した顔文字だ。その様子に、恭は思わず首を傾げた。
「ぶんちゃん? どした?」
『……今朝の女の件やんな?』
「うん、そう」
『……ログあらへん……』
「ん?」
「は?」
弱ったような『分体』の一言に、律も首を傾げる。記録がない、はずはない。恭はあのとき、確かにスマートフォンを持っていた。憂凛に連絡を取っているのだから、それは確かだ。『分体』自身も、今朝の女、と発言している。つまり、あったことは記憶されている。
「映像ではないとかそういう話?」
『ちゃう。会ったことは覚えとるんや。その女が何やったかの記録がない』
「……どゆこと……?」
「……消された? となったら、十中八九当たりなんじゃないのそれ」
「バレたら困る?」
「そういうことになるだろうけど、でも或いは第三者が関わってる可能性もあるしな……」
腕を組んで考え込む律に、恭が言える言葉はない。――しかしどうにも、華純が『ウィザード』で、律の命を狙っていて、というのもよく分からないのが正直なところだ。
華純を取り囲んでいた、傷だらけの子供たち。何をするでもなくじっと華純を見つめていたあの状況も、果たして何だったのか。恭には分からないことばかりだ。
「……恭くんが分からないっていうのはまあ普通だし、帰って憂凛ちゃんに聞いてみてもらってもいい?」
「今電話するっすか?」
「いや、ぶんちゃんに何らかの影響があるなら、直接顔見て話した方が絶対に確実。明日にでも直接報告もらっていい?」
「了解っす」
一体、何に巻き込まれてしまったのだろうか。
人助けのつもりが何もかも妙な方向に動いている気がして、恭は思わず宙を仰いでしまったのだった。