Moonlight Shadow - 閑話03
旦那の話
律と恭が長期の海外出張に旅立ち、久しぶりに家にいないということにも慣れてきた頃。
あれこれと仕事の情報をまとめてくれていた芹が、不意に手を止めてまじまじと桜を見た。咲を寝かしつけて一息ついたタイミングだった桜は、その視線にきょとんと首を傾げる。
「どうかされました? あ、何かご不明点が……?」
「ああ、ううん。それは全然大丈夫なんだけど」
「はい……?」
「つかぬことをお伺いするんですけど、桜ちゃん、旦那が茅嶋くんで本当に良かったの?」
「え」
「鬼の居ぬ間に一回聞いてみたかったんだよね」
含みを込めてにやりと笑ってみせる芹に思わず後退りたくなりつつも、確かにその質問は律がいるときにはできない話だろう。桜の本心が聞いてみたい、ということだ。
律と芹の付き合いがそれなりに長いことを、桜は知っている。何より芹は、律が全幅の信頼を置いている幼馴染の伴侶だ。気心が知れた相手への、少し砕けた接し方。律がそうして接する相手は、桜が知る限りそれほど多くはない。
――少しだけ。いいなあと、そう思ったことがある。まだまだ子供だった頃の、記憶。
「り、律様で良かったのか、といいますと……?」
「だって桜ちゃんまだまだ若いし、他にも選択肢は幾らでもあったよね、と思っててね。茅嶋くんのことが初恋なんだろうなっていうのは予想つくんだけど、あの男ほんっと悪い男だから」
「わるいおとこ」
「ほらだって、優しいでしょ? 私も悠時さんがいなかったらうっかり惚れてたかもって思うもん」
罪な男だよね。そう言って、芹は笑う。
桜にとって、律は命の恩人だ。成り行きだったとはいえ、自分と、自分の兄を救ってくれた人。憧れが恋心に変わるまで、それほど時間はかからなかったように思う。それでも、仮にも『兄』となった人だ。気の迷いだと思ったことは何度もある。忘れた方がいいと思ったことも、一度や二度ではない。
それでも諦められなかった。本人にはっきり拒絶されたあの日さえ。
「……良かったのか、というのは、私には分からないです。分からないですけど……でも、私には律様しか考えられなくて……」
「うん。何で?」
「律様以上に、この人と一緒に思えるかたに出会う、ということが、私には全く想像がつかなかったから、ですかね……?」
ぼろぼろになっても尚戦い続ける人なのだと、そう知ってしまったから。
傍にいたい、支えたい。――失いたくない。膨らんだ気持ちは、今でも萎むことなく桜の中に在り続ける。
いつだったか、恭が言っていた。律のことを一人にしたくないのだと。そうして初めて知った。あの人はとても危うい人なのだと。強くて優しい人で、けれどどうしようもなく脆い人。
繋ぎとめることができる一人になれたら、と考えているのは、烏滸がましいかもしれないが。
「ふふ、そっかあ。桜ちゃんヤバイ男に引っかかっちゃったねえ」
「や、やばいおとことは……?」
「ふふふ」
「もうっ、芹さん!」
「ま、茅嶋くんが桜ちゃんに根負けして、結果としてこうして家族を持ってくれてよかったなって。私としては、それは本当に心から思ってるけどね」
穏やかに、そしてそこにほんの少しの安堵を滲ませて。
一時期、律と共に戦っていたこともあるのだという彼女が、律に対して何を思っていたかは分からない。しかし、共に戦っていたからこそ、分かることもあるのだろう。桜の知らない律を、彼女はきっと知っている。
だから、喜んでくれる。桜が、そして咲が、律と共にいることを。
「まああの男ほんっと色々アレだろうけど、頑張るんだよ桜ちゃん」
「あ、アレ……? とは……?」
「部屋なこと言ったら茅嶋くんに怒られちゃうからー、ナイショ?」
「気になりますっ」
「ふふ。まあ今度気が向いたら教えてあげよう」
そう言って笑う芹に、もう、と肩を竦めて。
――何故だか、律が彼女を信頼をしている理由を垣間見た、そんな気がした。