Moonlight Shadow - 02

 緋雁には会わず、朱緋は月ヶ瀬の家を出た。
 このまま自宅に戻ることも可能だが、頭に叩き込んだ内容を考えると、自宅よりはこちらにいた方が都合もいい。適当に目についたカプセルホテルに転がり込んで、朱緋は荷物のキャリーケースを開く。
 中に入っているのは、朱緋の仕事道具――大きな外套と、刺繡糸。

「……さて、どないしよかな」

 おおよそやることは決まっているので、後は必要なものを考えるだけだ。
 朱緋が『ウィザード』としての力を振るう場合、基本的にはノータイムで魔術を使えるように入念な準備が必要となる。かつて同業者に重装備と称されたそれは、朱緋が普段着ている自作の服に必ず仕込んでいるもの。
 糸とその紋様で創り出す術式――それが、朱緋のやり方だ。
 その方法故、準備にはかなりの時間が掛かってしまう。加えて不測の事態にも対応できるよう、様々な術式を組み込んでおく必要もある。それもあって、本家の仕事をするときは、最も術式を多く仕込んでいる外套を着るようにしている。朱緋にとっては制服のようなものだ。
 その場で対応できるように、というのは朱緋にとっては難易度の高い技術だ。仕事仲間の『ウィザード』にはその場の状況に合わせて術式を組み立てて対応する者も何人かいるが、個人的には真似のできる芸当ではない。どうしてもその場で組んで対応する、という方法を取ることができなかったからだ。いかに事前準備に時間をかけるかで、勝負は決まる。大抵の『ウィザード』は、何かしらの準備も仕込んではいるだろう。『彼岸』――『カミ』の力を借りることを前提とすれば、話は別だが。
 そして、朱緋はなるべく自身の『カミ』の力を振るいたくはない。
 それはあまりにも恐ろしく、あまりにも悍ましい。『神犯』の名に相応しいその力。羨む者もいるのだろうが、朱緋にとっては酷く重い枷でしかない。使わずに済むのであれば、それに越したことはないのだ。
 頭の中に叩き込んだ情報を元に、入念に術式をくみ上げ、編み込んでいく。呼応して、服は武器へと、或いは堅牢な鎧へと化していく。
 ――何の為に?

「……だって、僕は生きんとね」

 呟いてしまった言葉の宛先は、とうにない。
 死ぬ覚悟などとうにできている。既に自分がいつ死んでもおかしくない場所に踏み込んでいることも理解している。それでも生きることが罪滅ぼしだと――或いは自身に課せられた懲役のようなものだと。
 だから手を打ってしまう。生き永らえるために、少しでも苦しむ時間を引き延ばすために。
 許されない為だけに。
 指先に纏う魔力を取り込んだ糸が、布地へと吸い込まれていく。繊維一本のずれも許されない。正確に、どこまでも正確に。生き抜くために必要なすべを、その術式を縫い込んでいく。自身が好きなものを、こうして魔術に転用して、そうすることで壊して、生きていく。
 これまでも、これからも。

「……侑宏、怒るやろうなあ」

 ふとそんなことを考えて、朱緋は手を止めた。
 彼は『貴水』の姓を得た幼少時のその日から、朱緋の為だけに生きてくれている。きっと彼は、それを疑ったことさえ一度もない。
 ――月の魔力に中てられてるだけやで。
 一度、そんなことを冗談めかして侑宏に言ったことがある。数秒黙った侑宏は、しかし真顔で別にそれでもいいと言い放った。魔力に中てられてどこかがおかしくなってしまった結果だとしても、自分は月ヶ瀬のためではなく、朱緋個人の為に生きていきたいのだと。
 そう答えてしまう男だから、朱緋は本家の仕事を引き受けるとき、侑宏を近くに置いておけないのだ。それを侑宏は分かっているのかどうか。
 緩く首を振って、意識を糸へと戻す。余計なことを考えてはならない。早くやるべきことを終わらせ、そうして日常の牢獄へと戻ることが、朱緋が今やるべきことなのだから。


 夜が更ける。
 天気は曇天。厚い雲の向こうに煌めく冷徹な光を感じながら、外套を羽織った朱緋は目的地へと足を向けた。
 この世界には、『どうすることもできない者』というのは存在する。それでも一般の生活に一定程度影響を及ぼすことがないと判断されている場合は、然るべき処置と監視の下で生きていくことはできる。通常、朱緋が行っている仕事のほとんどはそれだ。彼らという存在を認め続けてもよいのかどうかを見極め、見守り、必要に応じて介入する。そうすることでバランスは保たれている。
 では、存在を認められないと断じられた場合は。

「こんばんは。生憎のお天気ですね」
「――!」

 標的に声を掛ける。瞬間放たれた何らかの攻撃は、朱緋に届く前に霧散した。目を見開いている目前の男は、連続猟奇殺人を繰り返した『魔人』。『使い魔』の力を借りてありとあらゆる追跡から逃れ、長年にわたってかなりの数の犯行を行っている。数度捕縛されているが、その度逃げ出しては同様の事件を繰り返していることは確認済み。その殺害の内容がとても表沙汰にできないような内容であるため、これ以上の犯行を重ねないよう『処理』を――というのが、この標的に対する仕事内容だ。

「ひどいな。初対面でそれはないんちゃいます?」
「どこから湧いて出た……、『ウィザード』だな」
「僕は普通に歩いてきましたよ。『使い魔』が感知できんかったからって、虫みたいに言わんでほしいな」

 話している間にも、状況は変化する。男の姿が獣のようなものに変化し、その周囲に浮かび上がるは5つの銃口。事前に知らされた情報と相違ない。間違いでなければ、銃口から放たれるのは銃弾ではなく、大剣の刃の筈だ。
 獣が駆ける。その動きに合わせるように、銃口も動いている。逃げるのではなく殺すつもりだ、と判断し――しかし朱緋は動かない。まだ、その必要はない。
 がきん。
 大きな音が響く。同時、獣の動きが止まった。銃口から噴き出そうとしていた刃も、半分ほどその姿を顕したのみで、動きが止まっている。

「ああ……ちょうどええし、僕を次の獲物にしたらええかと思ったよね」

 入念な準備は、確かに効果を発揮している。朱緋は無表情に獣を眺め、おもむろに外套に刺繍されている糸の一本をぷちりと切った。
 その瞬間、獣の姿が一瞬にして男のそれへと戻る。声もなくその場に倒れた男は、苦しみもがきながら、己の首の辺りをがりがりと搔き毟っていた。その傍に座り込んで、朱緋は男を眺める。
 音もなく、その魔力は男を拘束していた。

「……もうちょい考えたらええのにね、殺さんようにってしてくれてるからみんな優しいんやで。まあ、僕には関係ないけど」

 バランスを崩す者は、排除しなければならない。それが秩序というもので、今現在の正義の上に成り立っている。
 非公式な正式ルートでの、殺害依頼。それを担っているのが月ヶ瀬である。他にも幾つか似たような立場の存在を知ってはいるが、それは互いに不干渉。表沙汰にはできない仕事の、深い闇の中。褒められた仕事ではないからこそ、秘匿され続ける存在。
 苦しむ男の体が強張って、そして力が抜けていく。確かに意識が途切れていることを確認してから、朱緋はもう一本糸を切り。
 その瞬間に、そこから男の姿は消え失せていた。まるで最初から、そこには何も存在しなかったように。
 手を合わせてから、朱緋は立ち上がる。術式に不備がないことは確認できた。この程度の小物であれば何の心配もないが、他の標的はそうもいかないだろう。怪我の一つや二つは覚悟しなければならない。

「……さ、早よ終わらせよ」


「なーんでサプラーイズ! って帰ってきたら怪我してはるんかな朱緋さん? 俺に対するサプライズ? そういうのいらんで?」
「あっくん顔怖いわあ」
「そら怒ってるからね俺!?」

 拳を振り上げるふりをする侑宏に、怖い怖いとわざとらしく怯えてみせる。返ってきたのは特大の溜め息だ。
 最初の読み通り、全ての仕事を片付けるのに1か月弱。最後の標的に思いのほか手こずって怪我を負ってしまったものの、治療は後でいいかとそのまま自宅に戻ってきたところ、侑宏に出くわした次第だ。

「だって仕事来ちゃったからね、しゃあないでしょ。ていうかあっくん帰ってくるんやったら連絡入れてよ」
「急に時間空いたんですもん。ちょっと戻って驚かしたろと思っただけやのにひどいわ朱緋さん……」
「数十分の滞在のために数時間かけて往復する侑宏の方がひどいしちょっと怖いで?」
「朱緋さんの顔が見たくて」
「うわ……」
「マジで引くのやめて!?」

 あっくん泣いちゃう、と泣き真似をする侑宏に笑う。彼らしいといえば彼らしい行動だ。
 報告を促せば、密偵は思いのほか首尾よく進んでいるらしい。あまりにも首尾がよすぎるので、罠の可能性を疑いながら慎重にいく、という侑宏の言葉に頷く。その辺りの匙加減を間違えるような男ではないことは、よく知っている。
 この密偵の結果次第では、一度朱緋も東京行きを考えなければいけない案件だ。何事もなく、という結果が出てくれることが一番望ましいのだが、恐らく期待はできない。
 あまりこの土地を離れたくないな、と考えてしまうのは、朱緋の術式の組み方にも起因する。不便ではあるが、そのお陰で助かっていることも多い。

「ところであっくん、せっかく東京おるのに北原くんには会うてへんの?」
「メシ誘いましたよ、忙しいの一言でフラれたんすよー。返事くれただけマシですけど。ホンマつれへんわ北原……そんなとこも好きやけど……」
「……ドMやん……」
「ドン引き顔するのやめてもらえます!? 冗談やん!? てか朱緋さん、結構北原のこと気にしはりますね」
「うーん、それはまあ」

 かの存在に関しては、そしてその周囲についても、要注意の評価が外れることはない。今は安定しているので、下手に刺激することなく見守るのみ、という判断になっているだけだ。朱緋としては、この先もその評価のままで、ややこしいことにならず平穏無事に過ごしてくれることを、心の底から願っている。
 ――正直、万が一が起きたとき、相手にはしたくないな、という気持ちが強いので。
 何より、侑宏の旧知だったということも大きい。珍しく侑宏もずっと気にしているな、というのは分かっているので、彼が悲しむようなことにならなければいいな、と思ってしまうのが本音でもある。そもそも月ヶ瀬が動く仕事など、ない方が良いのだから。
 幾つもの命を屠りながら、一方でそんなことを考えてしまう自分の矛盾には、目を伏せて。

「ほんで朱緋さん何で怪我してんの」
「話してもええけど、あっくんもうそろそろ出な新幹線間に合わんよ」
「え? ……あ!? うわホンマや最悪! もー!」
「ふふ、行ってらっしゃい。またええ報告待ってるね」
「……もう! 体には重々気を付けてくださいよ、朱緋さん」
「分かってるよ、ありがとう」

 もう太陽に顔向けはできず、月明かりの下闇の中を歩き続けるだけの人間でも。
 ――それでも、誰かの幸福を願うことだけは許されていたいだなんて、贅沢な。