Moonlight Shadow - 01

 月ヶ瀬は影の存在、『神犯』を名乗るもの。
 決して表舞台には立たない彼らは、一子相伝に近い形でもってその家系を存続させ続けている。故に分家というものも存在しない。代わりに、彼らは己の手足となるべき人間を選び、育てている。
 貴水 侑宏もその一人であり、彼にとって月ヶ瀬 朱緋という人間は『主人』だ。
 朱緋の為だけに生きることを義務付けられたがしかし、それに不満や疑問を抱いたことは一度もない。彼の為に生きることは、侑宏にとってすれば生きる意味だ。冗談でも何でもなく、本気で彼の為であれば死んでもいいと思っている。
 だから、朱緋が月ヶ瀬の家から『家出』したときも、離れるつもりなど毛頭なかった。戻ってくるまで関わらなくていいという当主の命令を、何度無視して彼のところに顔を出したか分からない。本当にこのまま朱緋が月ヶ瀬の人間でなくなっても、自分は絶対に傍に居続ける。生涯ただ一人の、侑宏の『主人』であるからこそ。
 それは今でも変わらない。そんなことは朱緋も分かっている、筈なのだが。

「あっくん、ちょっと相談なんやけど」
「何すか」
「またしばらく東京で仕事してきてくれへん?」
「……はい?」

 突然の朱緋の言葉に、思わず目が点になった。
 大学生として2年間東京で過ごし、戻ってきて早1年。時折数日出張することはあるものの、基本的に朱緋の傍は離れないことにしている。彼が持つ特性――呪いのひとつが既に喪われているからそこ、彼の身には何が起きてもおかしくはない。傍にいたところで、一般人であり何の力も持っていない侑宏ができることは、そう多くないことも分かっている。それでも――それでも。

「えー……それ俺絶対行かなあかんやつです……?」
「あからさまに嫌そうやん。東京やったら喜ぶかなと思ったのに」
「喜ぶわけないでしょ。大体また誰が朱緋さんの面倒見るんすか」
「えー。僕はあっくんおらんでも生きていけるけどな、別に……」
「つれへんなー。で、何の仕事やらせるつもりで? 東京なんやったらそれこそ茅嶋さんに依頼するーでええんちゃいますの」
「茅嶋さん、この春からめっちゃ忙しい言うてたからね。手を煩わせるわけにはいかへんの」
「もー……」

 仕事に行くのが嫌だというわけではない。ただ、侑宏が朱緋を心配しているだけだ。
 今は月ヶ瀬に戻った身とはいえ、長年『家出』していた朱緋は、現在侑宏以外の『手足』となる存在を持たない。候補は幾人もいたはずだが、朱緋自身が信頼関係を築いていく時間が全くなかったからだ。何より彼は、基本的に自分で動く方を好んでいる節もある。
 戦闘には向いていない。穏やかに笑ってそんなことを言いながら、死地に赴くことを厭わない朱緋のことが、侑宏には怖い。

「あっくんが東京でお仕事してきてくれたら、僕めっちゃ助かるのになあ」
「その言い方はだいぶずるくないですぅ……?」
「ふふ。前みたいに年単位とは言わんよ。長くても半年くらいかなあと踏んでるんやけど」
「半年って言うたらそれ年単位やんって言いたくなるな……」
「だって密偵お願いしたいんやもん。頼んでええ?」

 ごねたところで、断れない。それが仕事だと言われてしまえば尚更だ。
 朱緋は、侑宏にしかできないと踏んでいるからこそ言っている。そう、知っているから。

「……どこで何してこいと……」

 諦めきった侑宏の声に、おかしそうに朱緋が笑った。


 そんなことを侑宏が考えているだろうということは、おおよそ朱緋には分かっている。心配されているのも承知の上で、だからこそしばらく侑宏を傍に置くわけにはいかなくなった。今、侑宏を失うわけにはいかない。

「あれ? 朱緋くん、またお店お休み?」
「そうなんですよー。1か月ぐらい実家帰らなあかんようになっちゃって」
「え! どうしたん、親御さん?」
「ですです、母が転んであんまり動けんくなっちゃって。しばらく家政夫」
「それは大変やなあ」

 近くの店の店主と話しながら、迷いなく嘘をつく自分の口に嫌気が差す。実際、実家に帰るということ自体は嘘ではない。母親の怪我というのは大嘘だ。朱緋の生みの親は既に他界しているし、現在の戸籍上の母は数年前に精神を病み、今は隔離されている。
 あまり頻繁に店を休むのは避けたいが、月ヶ瀬の人間として仕事ができるのは現在、当主である父と朱緋の2人だけだ。数か月に一度はどうしても仕事をしなければならなくなる。本来であれば専従すべきところを、少し離れた土地でこうして好きなことで店が持てているだけ、ありがたい話ではあるのだろう。
 愛犬を知り合いに預け、その日のうちに朱緋は実家へと戻っていた。月ヶ瀬本家はそれほど大きな屋敷というわけではない。周囲の景色に程よく溶け込んでいる、少し大きい和風の庭付き一軒家。

「ただいまー……」

 敷地に一歩足を踏み入れる。庭の鹿威しがかこんと鳴いて、次いでばたばたと2階を走る足音。後ろから危ない、と大きな声が追いかけてきて、朱緋は苦笑う。

「あけちゃ!」
「危ないよ、緋雁ひかり。走ったらあかん」
「おかり!」
「はい、ただいま」

 2階から手を振って、嬉しそうに満面の笑みで朱緋を出迎えたのは幼い男の子――月ヶ瀬つきがせ 緋雁ひかり。このままでは下りようとしてしまうな、と2階に上がろうとすると、緋雁の背後から手が伸びてきた。小さな体を抱き上げた妙齢の女性――貴水たかみ 桔梗ききょう。血のつながりはないが、侑宏と兄妹同然に育った、月ヶ瀬の『手足』となるべく育ってきた人間の一人だ。

「ただいま、桔梗」
「お帰りなさい、朱緋さん。すいません、緋雁さんが」
「気にせんで。御当主は?」
「お部屋にいらっしゃいますよ」
「そか。緋雁、あけちゃんじいじに会ってくるから、後でね」
「えー!?」
「こら、朱緋さん困らせたらあかん」

 やだやだ、と桔梗の腕の中で暴れている緋雁に、いつまでも構っていることはできなさそうだ。ひらりと手を振って階段から離れ、1階の奥にある部屋へと向かう。からりと引き戸を引けば、その部屋の奥に朱緋を呼び出した人物が座っていた。
 月ヶ瀬の現当主――月ヶ瀬つきがせ 緋璃あかり

「ただいま戻りました」
「おかえり、朱緋。まあ座り。……侑宏は置いてきたんやな」
「別の仕事頼んでますし、僕はまだ本家の仕事に侑宏を関わらせる気ないんで」

 言いながら扉を閉めて、緋璃の正面に腰を下ろす。
 ――この家は、嫌いだ。いるだけでずきりと頭が痛む、息が詰まって苦しくなる。将来、本当に当主を継ぐ日が来ても、朱緋はこの家に住むことはできないだろう。住んでしまえば、自分を見失ってしまうことは目に見えている。
 ふう、とひとつ深呼吸。緋璃から差し出されたのは、一枚の紙だ。受け取って、眺めて――そしてその紙は、朱緋の手の中で灰と化して消えた。

「覚えたか」
「問題なく。……今回はこれだけですか」
「不満そうやな」
「まさか。思ったより早く帰れそうで何より」
「そうか。……朱緋」
「じゃあこれで失礼します」
「朱緋」

 僅かに強くなった声に、立ち上がろうとした動きを止める。表情なく視線を返せば、大きな溜め息。渋々、もう一度腰を下ろす。
 月ヶ瀬の呪いからは逃れられない。だから諦めた。いずれ当主を継ぐということは認めた。だが、それ以外は。

「緋雁と朱澄すずみのことやけどな」
「何回も言ってるでしょう? 僕は父親やとは言いませんよ」
「それはもう分かってる。でも杏朱の子でもあるんや、面倒見る気にはなれんか?」
「何でそんな気になると思ってるんか教えてほしいくらいやけど。――僕には無理です」

 月ヶ瀬 緋雁。そして今は月ヶ瀬の家を離れ、別の場所で育てられているもう一人、月ヶ瀬つきがせ 朱澄すずみ
 考えるだけで思い出してしまう。思い出したくもない夜のこと。琥珀色の満月が、全てを蹂躙して壊していったあの日のことを。
 解放されたのは何だったのか。喪失してしまったものは、どうしてだったのか。今でも朱緋には分からない。

「……アンタみたいにはなれんよ、僕は」

 兄妹仲良く。どうしてこの家で、この男はその道を選んだのか。全てを知っていながら、逃れられないと知りながら、黙っていられたのか。義母に、何も告げなかったのか。
 非情に徹した結果なのか、或いは臆病が呼んだ罪だったのか。

「――失礼します」