Dear Friend - 01
子育ては毎分毎秒戦いだ。
「や、やっと泣き止んだ……」
「あ! よかった、すいません遅くなって」
「いいよお風呂くらいゆっくり入って。やーでも絶対オムツだと思ったのに違ったんだよね……」
「ふふ、よくあります」
面倒を見ていると、自身の食事や入浴といった日常生活もままならない。桜を入浴に送り出した直後に泣き出した愛娘――咲が、どうして泣いているかを理解するにも一苦労というのが現状だ。あれでもないこれでもないと散々試した挙句、抱き上げてあやしていると次第に泣き止んだ。泣き疲れたのかすっかりうとうとしている。母親が傍から離れたことが嫌だったのかもしれない。
日々を送っていると、仕事の方がもしかして楽なのでは、と思ってしまうようなことも多々ある。世の親たちは――そして恭や憂凛、幼馴染の夫妻も、こんな時期を乗り越えてきたのだなと思うと頭が下がる。それはもちろん、律よりも遥かに長い時間を咲と過ごしている桜に対しても。
「あら。咲、しっかり服握っちゃってますね」
「いつもながら力強いなー。全然離してくれない」
「寝ちゃいますかね、これは」
「身動き取れないやつだー……」
腕に抱かれて、うとうとするほど安心してもらえるというのは素直にうれしいが、スケジュールは全く思い通りにはいかない。分かってはいたことだが、本当に春から本格的に仕事に戻っていいのか心配だ。何より、絶対に桜が仕事ができるような状態にはならない。元通りに戻そうと思っても、数年単位で無理がある。正直、それはそれでいいかと思わなくもないが。
ややあって予想通りすやすやと眠ってしまった咲を抱いたまま、律はソファに腰を下ろす。眠っているというのに、律の服を握りしめる手の力が緩む気配はない。
愛しいな、と。そう思える日常は、幸せだ。
「あ! そうだ律様、お話ししておかなければいけないことが」
「ん? 何?」
「この間、律様がいらっしゃらないときに悠時さんと芹さんがいらっしゃいまして」
「え、芹ちゃん?」
思いがけない名前に、律は目を瞬かせた。幼馴染――白石 悠時に関しては現在、椿の直属の部下として働いていることもあり、茅嶋家にはよく出入りしている。その伴侶である白石 芹は、かつては悠時の後輩として共に働いていたものの、もう退社してからの方が長い。今現在は完全に専業主婦の彼女が、わざわざ悠時と茅嶋家を訪れる理由が分からない。椿や桜経由で、家に律がいないことは分かっていただろう。そうなると咲の顔を見に来た、というわけではなさそうだ。
「あの、芹さんから、パート感覚で自分を雇う気はないかと打診されました」
「……は?」
「私の一存では決められませんから、返答は保留したんですが……そのままお話しするタイミングがなく、お伝えするのが遅くなって申し訳ないです……」
「いや……いや、それはいいんだけど、え、芹ちゃんが? 何で?」
「御本人は、子育ても少しずつ落ち着いてきたから、とおっしゃってましたが」
あまり詳しい話は、と続ける桜に、そっか、と軽い返事しか返せない。
――椿の部下になってから、悠時が茅嶋家を訪れる回数は格段に増えている。そして椿にも桜にも、最近の律の様子はどうかと聞いていることだろう。心配性の幼馴染のことだ、律には直接聞かずとも、それくらいはしているだろうことは想像がつく。
悠時が知っていれば、当然芹との会話の話題に上がるだろう。先日恭に諌められた件を二人も把握していて、その上での提案である可能性が高い。
「……うーん。とりあえず今度ちょっと直接話聞いてみるね」
「はい、お願いします」
「ちなみにだけど、桜としては芹ちゃんと一緒に仕事するのってどう?」
「ええと……私としてはまだまだ、本格的に仕事復帰なんて難しいですし……芹さんであれば信頼できるお方ですし、それで律様の負担が少しでも軽くなるのであれば、悪いお話ではないのでは、と思います」
「だよねえ……俺もそう思う……」
一緒に仕事をするのであれば、まず、信頼に足る人物でなければならない。
芹はその条件を満たしている。実際万年人手不足の現状、願ったり叶ったりの申し出ではあるのだが、しかし。
すやすやと眠る咲の背を撫でながら、律は大きく息を吐いた。
落ち着いたと思えばまた忙しくなり、を繰り返す日々の中。芹に連絡が取れたのは、桜に話を聞いてから数日経った後のことだった。
桜から話を聞いたのだと伝えれば、近々茅嶋家に行くので詳しい話はそのときにと言われ、話ができたのはそれから更に数日後。
「やほー、茅嶋くん。ちょっとお久しぶりですね」
「年始に咲に会いに来てたときに俺もいたいた」
「あ、そうか。何か茅嶋くんってば基本おうちにいないか、いても引きこもってるから」
「ごめんねえ……」
昨年は例年に比べれば自宅に居た方ではあるのだが、それでもプライベートとして会う時間があるかと聞かれるとなかなか難しい。子供を持つ身である芹相手であれば尚更だ。
そんな話をしつつ、どうぞ、と芹を書斎に通す。仕事の話をするのであれば、桜と咲がいるリビングよりも、こちらの方が集中して話せるだろうという判断だ。ソファに腰掛けた芹は、物珍しげに部屋を見まわしている。
「あれ、芹ちゃん俺の部屋入るの初めてだっけ?」
「入る用事もないですし。茅嶋くん、このお部屋でいっつも仕事してるんですね」
「ん-、結構引きこもって仕事してること多いな。時々はリビングで桜と話しながらって感じ」
「想像つくなー。……さて、では本題ですが」
「うん。うちの仕事手伝うって話、本気で言ってる?」
「本気ですよ。冗談でそんなこと言う人間だと思います?」
「思わないです」
当然のように頷く芹に、律は苦笑する。分かっている、彼女は冗談でこんなことを言い出すような人間ではない。
人手が足りないというのは、かなり前から抱えている問題だ。報告書が書けるのは律だけであるという制限もあって、基本的に他の雑事は桜の仕事になる。しかし、全てを任せるのは明らかなオーバーワークとなってしまうので、一部は伊鶴、一部は律という形で割り振って回している状態だった。
しかしこの先、桜は前ほど仕事に時間を割くことはできない。その点において、誰が今まで桜がしていた仕事を行うのか、というのは大きな問題になる。この1年半ほどは仕事量をセーブしていたこともあり、律が片付けることができていたが、この先はさすがに抱えきれない。
だからこそ、芹の申し出は願ったり叶ったり――なのだが。
「当然ながらその意味もリスクも承知の上です。悠時さんと話はついてますし、自分の身は自分で守れます。あ、でも、茅嶋くんにちょっと信用できないなーって言われたら仕方ないかなー、諦めますね」
「いやそれはあり得ないし口が裂けても言わないし、本気でこの上なく信頼してますよ、そこは」
確かな実力を持つ『神憑り』。『此方』の世界からは基本的に距離を置いているとはいえ、一から百まで説明しなければならない相手ではない。茅嶋家の立ち位置も理解してくれている。
それでも簡単に、ならお願いします、と頼むわけにはいかない。それは相手が芹だからこそ。
「……あのー……巻き込みたくないんだけど、って言ったら、怒る……?」
「その茅嶋くんの気持ちも分かるから怒りませんよ。昔とは全然違うところに足突っ込んでますもんね」
「うん……」
「さすがに現場には出ないですし、ていうかそれはもう難しいことは分かってるので、できるのはせいぜいスケジュール管理とか書類整理とか準備とか、まあ何なりそういう事務的なこと程度なんですけど。元総務ですので、その辺りは」
「いや、それでも。うちの仕事に関わるってことは、それだけで危険が伴うってことだし」
「命狙われるぐらいのことでビビる女だと思ってます?」
「……全く思ってないです……」
それでも――それでも、だ。
普通に生きていく道を選択している芹を、こちらの世界に引き戻すのは。その苦悩を分かっていて、それでも芹は申し出てくれている。純粋に友人として、律のことを心配してくれている。言い出さなければ、律が自分から相談することがないと知っているから、こうして踏み込んでくれた。
甘えるべきなのか、突き放すべきなのか。
「ま! すぐにどうこうってわけじゃあないですし、しっかり悩んでもらって採用不採用決めてくださいな。いじわるみたいなことは言ってる自覚ありますし、それでもやっぱりって言われたところで、じゃあって縁切れるわけじゃないです。怒ったりしませんよ」
「……うん、ありがとう、芹ちゃん」
今の律には、時間を作る必要があることも確かで――あまり多くの負担ができないのは、確かで。
律の揺れる心を見透かすように、眼前の芹は穏やかに笑った。
「……何してんすか律さん」
「……寝落ちしてました……書類ばらばらじゃん最悪……タイミングいいね恭くん……」
腕が当たって床に散らばった書類の枚数を考えたくはない。そして拾い集めた後、並べ直すことも考えたくはない。次の仕事の打ち合わせのために訪れた恭が、もー、と笑いつつ拾い集めるのを手伝ってくれる。
「あ。律さんもしかして最近また寝てないっすね?」
「いやまあ育児もあるからさ……桜もあんま寝てないよ。その辺は恭くんのが詳しいでしょ」
「それはそうすけど。こんだけ書類があるってことは仕事もしてるって話っすよ」
「だって誰かがやらないと片付かないでしょうが……」
律自身が動けないとしても、様々な依頼はくる。依頼内容が偽りでないかどうかの精査や、誰に頼めば円滑に処理が進むのか。無事に終わった場合は、上がってきた報告書に処理を施したり、依頼主に合わせてまとめ直すこともある。依頼で料金が対価になっている場合は、その配分の処理まで。現場に行かないとしても、やらなければならない仕事は多いのだ。
拾い終わった書類を整えて、溜め息。時間も足りなければ、やはり人手も足りない。
「あ、そうだ。恭くんに話してなかった」
「何をっすか?」
「芹ちゃんがさ、うちの仕事手伝おうかって言ってくれてて」
「え! めっちゃありがたい話じゃないっすか!」
「……だよねえ……」
頭では分かっているのだ。これ以上ない最適な人材だ、ということは。
芹が元々総務で働いていたことも知っているし、その実力聞いて知っている。何より無条件に信頼できる相手だ。だからこそ、今このタイミングで、彼女を巻き込んでいいのかどうか。
「甘えていいと思う……?」
「え、めっちゃいいと思う。てか律さん、今この状況で元の仕事量に戻ったら、仕事のし過ぎで死ぬ方が先過ぎる」
「それはめっちゃあるんだよな実際……体が絶対保たない……」
「むずかしーこと考えたらキリなくないっすか? 芹ちゃんなら全然甘えていいと思う!」
「俺そんなに難しいこと考えてるつもりはないんだけどな」
「あー。じゃああれっす、起きてもないこと心配してもしょーがない!」
「恭くんは心配しなさすぎだけどね?」
しかし、恭の言うことも一理ある。起きていないことを心配していても仕方がないというのは本当にその通りで、何か起こってからでは遅いからと考えすぎると、何もできなくなってしまう。
律の負担も、そして桜の負担も軽減できる。四六時中ずっとというわけにはいかないが、それでも芹であれば限られた時間でも効率よく回してくれるだろう。伊鶴もいてくれるのだから、どうにかしていくことはできるはずだ。
「手伝ってもらえるなら早く決めた方がいいんじゃないすか? 芹ちゃんだっていろいろ覚えなきゃだし、どうせ教えるの律さんでは?」
「んー、俺も桜もかな。いや待てもう引き受けてもらうテイで話進んでるそれ」
「受けてもらった方が絶対いいっすよ。このままじゃ無理だってことは俺にだって分かってるし。でも俺そういうのは手伝えないから、少しでも楽になるんだったらそれが一番優先かなって」
「……ま、確かに今俺が倒れたら元も子もないんだよねえ……」
先を気にしすぎて、今をないがしろにしてはいけない。全ての前提が覆ってしまう。今現在、律がいなくなれば、茅嶋家としての立場は全て崩れてしまうから。
「芹ちゃんに頼まないならジッポ先生に相談行こっかな俺。あの人無職だし」
「やめろやめろそれは絶対駄目なやつ」
「じゃあなかみー」
「忙しい神主に副業頼もうとするんじゃないよ」
「ほらー。じゃあもう芹ちゃんで決まり!」
恭の中では決まってしまったらしい。話してよかったのだろうかと肩を落としつつも、こうして背中を押してもらいたかったのかもしれない、とも思う。
芹ともう一度話をする前に、一度悠時と話をした方がいいだろう。頭の中でスケジュールを組み立てて、ひとまず他の予定がねじ込まれないことを願ったのだった。