Cryptic Entity - 01

 その日の朝、中御門 陵はいつものように、水乃登神社の境内を掃き清めていた。
 天気も悪くはなく、いつも通りの日常――の筈だったのだが、それが崩れたのは鳥居の外に妙な気配を感じたからだ。不意に感じた気配にそちらに視線を向ければ、いるはずのない人物がそこにいた。
 高校生くらいの男子高校生――楠 明神。その姿に見覚えはある。だがしかし、彼が「男子高校生」であったのは、もう随分と昔のことだ。
 神社の境内は神域であり、鳥居の中に悪しきものが入ることは滅多にない。その『明神』も鳥居の中には入れないのだろう、陵が視線を向けたことに気付いて、降参とでも言いたげに両手を上げている。
 覚えのある気配だ、と思ったのは、つい最近立て続けに起こった事件のことを思い出したから。『明神』の妹、楠 万寿にまつわる事件で、同じ気配を感じた。――彼女と共にいる『カミ』、『鏡像』のものと同一の気配。
 恐らく鳥居の外からは、『明神』の声も陵には届かないのだろう。ぱくぱくと口を開いて何かを言っているのは分かるが、しかしそれだけだ。一体何の用だというのか。そもそも鳥居まで上がってくる前に、境外社が2つあるはずなのだが、一体その社の主たちは何をしているのか。暫し悩んだ後、陵は境内のはずれにある池の水を、手近にあった霧吹きに汲んでから鳥居の外へと向かう。水乃登神社の主である龍神に清められた水は、それだけで『カミ』を追い払うだけの効果を持つためだ。
 
「……用件は何でしょうか」
「えーと……それを下ろしていただけると……」
「用件は」

 霧吹きを突きつければ、その中身は『明神』も分かっているのだろう。両手を上げたまま、少し後退る。陵としてはそれを下げるつもりはない。暫し困惑した表情を見せた『明神』はしかし、仕方がないと判断したのだろう。引きつった表情のまま口を開く。
 
「……妹を、助けてもらえませんか」

 妹というのは、万寿のことだろう。『良くない』ものを抱えた彼女のことを思い出す。陵の記憶が正しければ、彼女の案件を『仕事』として麻宮家当主である麻葉 知江から引き受けた茅嶋 律が、その身柄については麻宮家に預けた筈だ。その後色々と起きてしまったせいで、その後の報告はまだ聞いていないという話をこの間していた記憶がある。
 
「……彼女を助けたところで何のメリットがあると?」
「ええと……人助けができるっていうのは人道的なメリットになりませんか?」
「その人は人と呼べる状態でしょうか」
「え、いや、万寿は人間で」
「あれが?」
「いや……いや、人間ですよ……?」

 楠 万寿という人間をどう評価すればいいのか、陵には分からない。
 兄に対して尋常ではない異様な執着を持つ彼女は、その感情が『呪い』となってしまっている。その結果がもたらしているものを知っている身としては、それを彼女が『ウィザード』だから、という言葉で片付けていいのかどうかが分からない。
 
「……いや、もう、助けてくれる人があなたとあの魔術師の人しか思い浮かばなくて」
「そうですか。どうしてこちらに? 茅嶋さんのところに行く選択肢もあったということでしょう?」
「あの……かの家、結界があまりにも攻撃的で……」
「ああ……」

 水乃登神社は飽く迄『神域』として、中にいる者を守ることを主体とした結界のようなものだ。しかし律の家は本人曰く「1回破られてるから、今は入れるものなら入ってみろってくらい強化した」という話だったので、並大抵の存在では近づくだけで消し飛ぶ可能性が高いのだろう。あり得るな、と納得してしまう。
 
「それで、ここに。万寿をこのままにしておくと、万寿が死んで、世界が滅ぶかもしれなくて」
「世界が滅ぶ? ……人間一人の死で世界が滅ぶって本当に人間ですか?」
「ええと、いや、あの……万寿が死ぬっていうのは、良くないものがこの世界に受肉するっていうことで……それで世界が崩壊する可能性があるんです」

 ――前に起きた事件のとき、律が麻宮の家でその辺りの文献を読んでいた気がする。
 となれば、これは陵一人が聞いてどうにかなる話ではないだろう。霧吹きを突きつける手はそのままに、陵は懐からスマートフォンを取り出した。


「んでこんな時間から俺が呼ばれたわけ? 麻宮に関わると本当にろくなことない、それ階段から落としていい?」
「勘弁してください……」

 神社に駆け付けた律は、陵から話を聞いて深々と溜め息を吐いた。このところは規則正しい生活をしているとはいえ、律が朝に弱いことを陵はよく知っている。だからこそこんな時間から連絡をしてくるなど、滅多にないことだ。何事かと思えばまたこれか、と言いたくもなる。陵が『明神』に小動もせず霧吹きを突きつけている絵面はシュールではあるのだが。
 
「……世界が滅ぶっていうのはあまりにも抽象的だし、俺にも万寿ちゃん助けるメリットが分からないな。そもそも、俺に依頼通すなら対価は必要になるよ」
「メリット……対価……何か渡せるもの、ですか……」
「対価って何かわかりますか?」
「あの……ええと、他の人からお金取ってきて、とかはもちろん駄目ですよね……?」
「それはそうだし何ならお金の問題じゃないんだよな……」

 たとえ依頼主が誰であっても、それ相応の対価はもらわなければならない。そういう形を取ることで、茅嶋家としては依頼が殺到してしまうのを避けている部分もある。知り合いに関することだからと安請け合いするわけにはいかない。
 対価と聞いた『明神』は随分と悩んでいるようだった。何より『カミ』である者が助けを求めているのだ。これが普通の人間相手であればできることもあるが、『此方』の人間として生きている律や陵に対してできることは思い浮かばないのだろう。
 世界が滅ぶほどのものを相手にしろと言われて、さて何なら対価が見合うのか。暫しの静寂、ひとつ見合うものが頭に浮かんで、律は息を吐いた。
 
「……これどっちに転ぶか分かんないからアレではあるんだけど」
「何か対価になるもの思いついたんです?」
「んー……なかみー的にもアリだと思うんだよね。万寿ちゃんに、兄のことをまるっと忘れてもらう、っていう方向でどう?」
「ああー……」

 ――楠 明神という人間に掛けられた厄介な呪いは、解かなければならない。
 それは、律と陵にとっては共通の認識だ。先の事件で、楠家が炎に包まれたことは記憶に新しい。このまま放置しておけば、今度はもっとひどい形で『決着』がつけられてしまうことになるだろう。それを防ぐためにできる一番の方法は、万寿から彼の存在を消してしまうことだ。
 彼女に兄はいなかった。そうしてしまえば、望みがある。
 
「それはつまり、」
「楠 明神といた人間がいたことを、一切合切忘れる。勿論、今後一切、一生、末代まで関わらない。それを俺と『約束』できるなら、引き受けてもいい」
「っ……」

 一瞬『明神』が躊躇したのは、律が言外に何を言っているかを理解したからだろう。
 それは『契約』だ。そして律は『ウィザード』であり、『契約』を以て『カミ』を従わせることを可能とする人間であることを、『明神』は分かっている。正直なところ『世界』とただ一人の人間の平穏を天秤にかけるのは間違っているのかもしれないが、しかし律は――そして陵も、その平穏を願っている人間ではあるので。実現が可能なのであれば、それは天秤に釣り合うものだと考えて差し支えない。
 
「……記憶を消した上で、常に万寿の傍にいて、思い出しそうになったり、何かしそうになったら止める、ということは可能だと思うんですけど」
「正直消したところで思い出しそうだなっていう不安もあってさ。関わらせたくないんだよ。まーた何やらかすか分かんないし」

 それは万寿に対しても、今は海外に戻っているであろう彼に対しても。
 言い淀んでいるのは、自分の力だけでそれが達成できるかどうか分からないということだろう。実際、万寿の兄に対する感情はあまりにも強い。そしてあまりにも強い感情は、何を引き起こすか分からない。破ってしまえばどうなるか分からない、という状況で、軽々しくそれを誓うことはできないというのが透けて見える。
 
「ま、これ万寿ちゃんとも同じ『約束』するけどね」
「彼女がするとは思えないんですけどそれ」
「ほらどうせまだ意識ないだろうから。その辺は適当に何とかするよ。……それで対価として見合うと思う。どう?」

 どちらにしろ、『明神』に選択肢がないことは分かっている。どちらかといえばこれは、律がそこまですれば、『明神』も『約束』ができるだろうという助け舟だ。逡巡しつつも、やがて意を決したように『明神』は頷いた。
 
「……分かりました。万が一万寿が抵抗しようとすれば止めますし、少なくともこの件であなたたちを攻撃しろと命じられても、俺は絶対に攻撃しません」
「ん-。俺たちだけじゃなくて、誰にも攻撃しないでいてくれるとありがたいけどね。それだけのことをしろって言ってる自覚はあるでしょう」
「……そうですね。約束します」
「ん」

 今はその言葉だけで充分だ。後は自分たちが、『明神』の依頼に対応して完遂するのみだ。