Shin-Kisaragi sta. - 閑話02

悩みの話

 何となく、律の様子がおかしい気がする。
 憂生と遊んでくれている桜を穏やかな表情で眺めている律を見ながら、恭は首を傾げる。どことなく感じる違和感は、ただの「勘」の域を出ない。何がおかしいのかと問われたとしても、返答はできそうにない。だがこうした恭の直感めいたものは大抵の場合当たっている。動物的な野生の勘かと揶揄されるそれが馬鹿にできないことを、経験上恭はよく知っている。
 さてどう切り出すべきか。桜がいる今この状況で何かしら聞かない方がいいかもしれない。かといって恭がちょっと、と律を連れ出すのも、桜に憂生を連れて別室に行ってもらうのも、何かあると言っているようで違う。話すタイミングを間違えると、律に煙に巻かれて誤魔化されてしまうことは目に見えていることだ。
 
「そいや律さん、次の仕事のスケジュールってどうなってるんすか?」
「ん? 次は恭くんの誕生日過ぎてからかなと思って調整してるとこ。お呼び出しされない限り当面海外はなしの予定」
「……最近『院』静かっすね、そういや?」
「この間行ったときにちょっと釘刺してきたからね」

 ひどいときには月に2、3回は『院』の仕事が振られるが、年明けに律が一度行ってからは音沙汰がない。恐らくは、しばらく『院』の仕事が受けられないという話をしたのだろうと予想はできる。であれば律の様子がおかしい気がする原因は『院』絡みではなさそうだ。
 他に何かあっただろうか、とぼんやり考えていると、あら、と桜の声がして。視線を向けると、桜の腕の中でうとうととしている愛娘の姿。
 
「ありゃ。ういういおねむになっちゃった?」
「ふふ、たくさん遊びましたから。私ブランケット取ってきますね」
「ありがとー」

 よいしょ、と憂生を抱き上げれば、ぐずりながら胸元に寄りかかってくる。よしよしとあやしつつソファに戻れば、律の視線が恭に向いた。
 
「……恭くんがお父さんしてるの見るのやっぱ変」
「もう2年やってるのに!?」
「とはいえ仕事で一緒にいるときの方が長いしさあ」
「それはそうすね」

 恭の中では何か意識して切り替えているわけではないが、律が普段見る姿ではないから、というのもあるのだろう。思わず苦笑いながら、ちらりと桜が去っていった方向を見る。――尋ねておくなら今しかない。
 
「律さん今なんか悩みごとある感じっすか?」
「急に」
「何か様子変だなーって」
「そう?」
「うん。カンだけど」
「勘かー」

 そっかー、と呟く律の表情はいつもと変わりないようには見えるが、律は恭の勘がよく当たることを知っている。恐らく何か考えているな、と思いながら憂生の頭をよしよしと撫でていると、ブランケット片手に桜が戻ってきた。下手に動かして泣かせてしまうのも困るので、抱っこしたまま桜にブランケットを掛けてもらう。動かすなら寝入ってしまってからだ。
 ぽやぽやと今にも寝そうな憂生の表情を、優しい表情で眺めている桜は本当に憂生の面倒をよく見てくれる。律が先日桜に子供が欲しいかという話をしたのも、こういうことがあってなのだろうということは分かる。
 
「――恭くん、今日憂凛ちゃん帰ってこないんだっけ」
「へ? うん。れおれおと狐さんの実家行ってるっすね」
「じゃあうちでごはん食べてく?」
「え、いいんすか」
「ぜひ。おふたりの夕飯頑張って作りますよ」
「って桜も言ってくれてるし。ちょっと仕事の打ち合わせもさせて」

 いつもと変わらない調子で――けれどその誘いの意味は、さすがに分かる。はあい、と返事をしながら、さて今度は何を抱えているのやらと恭は内心で溜息を吐いた。
 

「んで? 何悩んでるんすか」
「悩んでる……って言うとちょっと違う気がする……」

 食後。桜に憂生を見ていてもらって、仕事の打ち合わせという名目で律と恭は二人で律の私室へと場所を移動していた。部屋に入って開口一番尋ねた恭に、完全に困惑した表情で首を傾げながら、律は書斎机のチェアへと腰を下ろす。
 
「断ったんだけどさ」
「何をすか? 仕事?」
「引っ越し」
「引っ越し!?」

 思いがけない言葉に、素っ頓狂な声が出る。うるさい、と苦笑いする律に思わず口元を押さえつつ。
 いつから茅嶋家がここにあるのかは知らないが、少なくとも律は子供の頃からこの場所に住んでいるだろうことは何となく分かる。その前――律の祖父が存命だった頃の茅嶋家は、今はかの鴉が根城としている洋館に住んでいたのだろうか、とは思っているが、その辺りを詳しく聞いたことはない。
 
「ど、どこに……?」
「直接誘われたのはイタリア」
「よーろっぱ!? 『院』絡み……?」
「いや、『院』は関係ないよ。年末ごちゃごちゃ仕事してるときに、家族も連れてこっちに引っ越してくればいいんだよって誘われて。俺一人で決めることじゃないし、そもそも日本が好きだからって断ったんだけどね」
「あー……海外暮らししてほしいなっていうお誘い……?」
「そうそう」

 律にも恭にも、家族がいる。家族のことを日本に置いているから日本を拠点にしているなら、家族ごと引っ越せばいいじゃないか、というお誘いだったのだろう。恭が本格的に律と共に仕事をするようになってから、時勢の問題もあったが仕事の主軸は基本的に日本だ。海外を飛び回ることはあっても、一月以上の長期滞在をすることはほとんどないと言っていいだろう。海外の仕事に関してはアレクを始め、仕事で付き合いがあり尚且つ信頼が置ける相手に振り分けて、直接出向かずに片付けていることも多い。律が直接足を運ばなければならない仕事を中心に、その前後で片付けられる仕事はまとめて引き受けるようなスケジュールが基本だ。恭と憂凛に子供ができたから――という理由もあるが、恐らく律は主軸を海外に置かないように気をつけているのだろう。
 それを見越しての、海外への引っ越しのお誘い。律の言い方は軽いものだが、悩むほどということはかなり真面目な話だったのかもしれない。
 
「その方が仕事やりやすいのかもなー、とか考えちゃったんすね?」
「まあそういうことですね……」
「なーるほど」
「いや、本気で全然引っ越す気はないんだけどさ。圧が」
「圧」
「もっとこっちで仕事してほしいなって圧が、最近、すごい」
「今年ほとんど海外行く気ないから余計では」
「多分ね……でもその辺黙らせようと思うともうちょっと仕事した方がいいのかなとか色々考えてた、最近」
「死ぬ気か?」

 思わず真顔でツッコミを入れてしまった。あはは、と律は笑うが、恭からすれば笑いごとではない。これ以上仕事を増やすというのであれば、真剣に律が一人でしている仕事――主に恭では全く手伝えない報告書等の書類仕事――を分担して手伝える人材が必要になる。それができないのであれば恭としては全く賛同はできないし、恐らく桜も同じことを言うだろう。
 
「比べられるんだよ、やっぱり。『雪乃なら』って。お母様は完全にベースをヨーロッパに置いてたからさ」
「あー……」
「ま、俺は俺だし、そこは何言われても海外ベースにする気はないんだけどね。椿から桜を距離的に引き離すと本気で怒られそうだし、憂凛ちゃんのこと考えると日本の方がいいし、あとちょっと日本も界隈きなくさいところ結構多いんだよな最近……」
「あっこのひとまた俺の知らないとこで仕事してるな?」
「気のせい気のせい。情報収集しかしてない」
「もう! 仕事増やすつもりならもっと割り振り考えるの前提っす、何でも一人でやりすぎっすよ」
「まあさすがに俺も体が保たないなと思うこと増えてきたし……どうするかなあ……」

 くるくる。チェアを半回転で往復するように揺らしながら溜め息を吐く律に、つられるように恭も溜め息をひとつ。
 ――人手不足。目を背けていた問題が、ここに来て本格的な問題になろうとしていた。