Shin-Kisaragi sta. - 02
高架を越えれば、そこに広がっていた風景は。
「わあ」
「……『怪異』の『領域』です! って感じですね」
眉を寄せる陵に、律も頷いて同意する。ノイズの走った風景など、現実に見ることはない。
何となく建物があることは分かるし、何かしら看板があることも分かる。しかしその風景はグリッチノイズに覆われていて、これ以上足を踏み入れるべきではない、と本能が警鐘を鳴らしている。
――そんな場所ではあるのに、『怪異』の気配はしない。街を歩いているかのような、数多い様々な人影は見えるが、それだけだ。
「茅嶋さん、何か見えてます?」
「んー……、あんま入りたくないな」
「やめといた方がいいですか?」
「そだね」
最終的に何もなければここに入ることも考えなければいけないかもしれないが、現状考えなくても問題はないだろう。特段何も聞くことなく陵が歩き出したので、律もそれに倣う。
隣の区画は雑居ビルが乱立しているようで、様々な店があるのであろうことは分かる。こちらも何なのかは読めないが、先ほどのようにノイズには覆われていない。しかし人影が歩いているのは変わらず同じだ。更に先に進めば、不意に電車の音が遠くから聞こえた。近づいてくる気配は特に感じないが、低い音がずっと聞こえ続けている。
「ホームに行ったら電車来るんですかね」
「どうだろ。どう思う? 上里くん」
「いや、ホーム行くと帰ることになるかもなので……あの、きさらぎくんがですね……」
「帰っちゃだめ?」
「まだ何も解決してないので」
確かに今のところ陵が少し怪我をしただけという状態ではあるので、反論はできなかった。
どうしたものかな、と周囲を見回す。いつの間にか雑居ビルは過ぎて、景色は住宅街に変わっていた。やはり特に変わりはないな、と律は首を傾げる。それとも疲労が蓄積してきて、見づらくなっているのだろうか。
そう思った矢先。
「……ッ!?」
「なかみー?」
「……すいません、気分が、」
「何、なんか見えた?」
「中御門さん?」
陵の様子がおかしい。家の中を凝視した後、ふらついた陵を支えようと手を伸ばしかけて。しかしその目がやけにぎらぎらと光っているのを見て、思わず動きが止まった。
手ひどいショック状態に陥っているのか。半分正気を失っているとしか思えない。
「……急に、何だかすごく、おなかが、すいて、」
「え」
「あの辺の……人影とか、食べれますかね……」
「は!?」
「えっ中御門さんしっかりしてください!?」
「冗談じゃない馬鹿じゃないの!? ここで物食べるなって最初に言ったし人影? 食べようとしないで!?」
陵の口調は明らかに冗談ではない。土産物に興味を示したりしていたせいだろうか、変な方向にショックの影響が出ているようだった。慌てて防御壁を展開、陵を守るためではなく行動を阻むためにそれを使う。変わらずぎらぎらとした瞳をしたままの陵は、信司の方へと視線を向けて。
「……美味しそうですよね……」
「ひえ」
「ええ……マジか……」
呑気に陵の付き添いだからと考えている場合ではないらしい。信司に手を伸ばした陵はしかし、目に見えない壁にその手を阻まれて首を傾げている。陵をこのままにしておくわけにはいかないが、陵がこんな状態になるようなものをそのまま置いておくわけにもいかない。
「……駄目ださっさと次行って片付けようそうしようそうじゃないと上里くんがなかみーに食われるとかいう訳わかんないショーが繰り広げられる」
「嫌すぎるんですが!?」
何事もなく――何かを見かける度に、あるいは視界に上里が入る度に食べられるかどうか聞いてくる陵を何事もない、に換算すればだが――高架下を抜けて、3人はオフィスビルの前へと辿り着いていた。
見上げたビルは5階建て。色々な会社が入っている、という形になっているのか、相変わらず会社名は読めないが案内の表札は出ている。陵なら読めるのかもしれないが、この状態の陵に聞く気分にはなれない。
中に入ると、どこにでもあるような受付が正面にあった。カウンターになっているその中を覗き込むと、白い電話機がひとつ。
「内線あるな。上里くんかけてもらってもいい?」
「僕ですか」
「ちょっと『怪異』関係の電話にいい思い出がないので、俺は」
「全部力技でねじ伏せてそうですけど……?」
否定はできない。
おなかがすいた、と呻いて蹲っている陵のことも放置はしておけないし、防御壁を檻の代わりとして展開させている分、今の律はとっさの対応がどうしても遅くなってしまう。何か起きる可能性があることは、ひとまず任せるのが安全策だ。
順番に電話をかけているらしい信司の後ろ姿を眺める。どこかに繋がって会話は成立しているらしい、何やら話しているのが分かる。そのうちどんどん語気が荒くなっている――というよりは信司が怒っている様子を察知して、律は肩を竦めた。どうやら当たりを引いたようだ。
しばらく待っていたものの、どうやら押し問答になっているらしい。出てこいと言う信司に対して拒絶が返ってきているのだろうな、ということは想像がつく。このまま待ったところで時間を無駄にするだけだ。
「上里くんそれ長引く?」
思わず声を掛けると、ぐるりと信司が振り返った。その表情は険しい。
「……3階です」
「分かった」
そのまま上がろうとして、ふと思いとどまったのは陵に視線を向けたからだ。このまま上がる場合、陵をこの場に置いていくことになる。防御壁を外せば手当たり次第に食べられるものを探しかねない今の状況では、放置はできない。かといって防御壁を外さずにこのままにしておくと、律が自分の身を守れなくなる可能性も高い。何か別のもので動きを止める必要があるだろう。
何か方法はないか、と思考を巡らせる。動きを止めるのであれば縛れるものが望ましい。
「……なかみー縛るロープとかどっかにあると思う?」
「あー……隣の駅ビルに服とか売ってましたよね。布とか使えるかも……?」
「それだ」
言われてみればこのオフィスビルの隣は最初に訪れた駅ビルだった。何もかも朽ちていたり腐っている、と陵は言っていたが、それでも数があれば何かしら使えるものはあるだろう。
ちょっと見てて、と陵を信司に任せて、律は駅ビルへと走る。2階で手当たり次第に使えそうな服やチェーンのあるアクセサリーなどを引っ掴み、すぐに戻れば陵が至近距離で信司を眺めていた。信司の表情はかなり強張っている。
「うわ上里くん大丈夫!?」
「茅嶋さん、新鮮で美味しそうなお肉が」
「ちょっと! りっちゃんさん! どうにかしてくださいこの人!?」
「やめて!? ごはんはもうちょっと我慢してね! 上里くん食べても美味しくないからね!?」
「ええ……」
陵はひどく残念そうだが、構っていられない。正気に戻ったときに絶対からかってやると心に決めながら、とにかく陵の手にぐるぐると持ってきたものを巻いていく。律の目には普通の服に見えているものの、どれだけぼろぼろになっているか分からない。念には念を入れて重ねてしっかりと巻いておく。文句を言いながら陵は手を動かそうとするが、全く動かないようなのでひとまずは大丈夫だろう。外れたときのことは考えなければならないかもしれないが、今は気にしていられない。
「上里くん、うっかりなかみーが噛みつくかもしれないから近づかないように」
「ひえ……何なんですかまじで……」
「俺が聞きたいよ……」
どっと疲労感に襲われるが、本番はこれからだ。どうにか気持ちを立て直して、陵のことも引き摺って3階へと上がる。果たしてそこにいたのは、サラリーマン風の男が一人。にこやかな表情はしかし、あまり歓迎されているようには見えない。
「――クソ行灯とお客様方、出会って早々申し訳ありませんが、死ね!」
「いっ……!?」
出会い頭で一撃、視界に入ったのはノイズ。その向こうに拳があるのだと理解できた瞬間には、それは既に陵に襲い掛かっていた。今から防御壁を展開したところで助けられない、と思った瞬間に陵の懐から『式神』が飛び出した。ぎりぎりでノイズのかかった拳を受け止めて消失する。
「おとなしくしろ!」
「うるせえ!」
慌てた様子で信司が男に向かっていくが、同様にノイズの走った蹴りが信司に襲い掛かり、なすすべもなく吹き飛ばされていく。展開が早い、というよりは向こうは容赦する気が全くないということだろう。陵のことも信司のことも気にしながら戦わなければ、と余計なことを考えたせいか、指がうまく動かない。いつもなら何も考えずとも勝手に動くはずの指の動きは鈍く、そのせいか魔術がうまく発動しない。普段ならしないミスに、余計に気が急く。
「ええもうマジか……!?」
「おら死ね!」
嬉々とした様子で殴りかかってくる男を、避けるすべがない。思い切り吹き飛ばされて、頭を強かに打ちつける。げほ、と咳き込んだ喉からは血の味。ぐらりと視界が揺れて、落ちる、と思った瞬間に何かに引き上げられる感覚。ふらついている視界を上げれば、信司がふらふらしながら律に触れていた。どうにか意識を保っていられるように『ヒーラー』としての能力を使ったのだと気が付くまで、数秒。やはり上手く思考が動いていない。
「ごめ……、ありがと……」
「いえ……大丈夫ですか……」
「……何とか……」
切り抜けるすべはある。だが、しかし――この場でその方法を使うわけにはいかない。律は信司が『何』なのかを知っている。手の内を全て晒すわけにはいかない、だがしかしこのままでは。考えている間に視界の端にノイズを捉えて、今度は条件反射で指が動いた。轟音と共に雷撃が落ちて、男が後退ったのが見える。
その隙をつくように、というのが正しいのか。ぶわり、と一瞬信司の方から青い炎が立ち上るのを幻視して。
「何をしでかしてやがるんですがこの馬鹿は!?」
「ぎゃー先輩やめて死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!?」
「……ルキくん、先になかみー龍神様のとこ連れてってまじでやばい……」
「おなかがすきました……」
「は? え? 何があったんですか!?」
「死にそうだから説明後でいい……?」
「あ!?」
その後。
完全に満身創痍で神社へと戻った3人を、鳥居の下で待ち構えていた先輩こと、この神社の禰宜である百々目鬼 ルキが出迎えた。説明したいのは山々なのだが、もう体が限界だ。
あっという間に信司のことは絞め落として、ルキは陵を担いで本殿の方へと走っていった。律は何とか辿り着いた社務所の奥で倒れ込む。ぱたぱたと寄ってきた蛙姿の『カミ』が、ぺたぺたと律に触れている。どうやら治療をしてくれているらしい、と判断して、律は重い瞼を落として息を吐いた。
結局、律の動揺は最後まで取れなかった。信司の助けがなければ死んでいただろうし、あからさまに動揺してしまった自分にも腹が立つ。場を収拾したのは『青行灯』と呼ばれる『カミ』である。『青行灯』がぎゃあぎゃあと男――『きさらぎ駅』と喧嘩をしながら、何とか倒すことができた、というのが実情だ。
あまり役には立たなかったな、とぼんやり考える。仕事ではないと言い聞かせて思考を止めていたこともあるが、陵の身に起きたアクシデントに上手く対応ができなかった。仕事ではないとしてももう少しできることがあったはずで、あまりよくない傾向のようにも感じる。
「つかれた……」
口から漏れたのは唯一、その一言。
考えるのは身体が全快してからでいい。そう決めて、そのまま律はぺたぺたとした感触を感じながら、意識を落としたのだった。