Tide Rises - 02
そして約束の日の夕方、恭は『エンブレイス』のあるビルの前へと足を運んでいた。
基本的に、恭が『エンブレイス』に足を踏み入れることはない。大樹が来るまでは何度かばたばたと諸手続きをするのに送迎等で付き合ったことはあるが、大樹が来て落ち着いてからはそういうこともなくなった。元より『エンブレイス』には律の弟子が在籍しているということもあるし、そして大樹が響を社長秘書として迎えてからは近寄らないように心掛けていた。そして律もそこは分かってくれていたので、送迎を頼まれるということもなかったのだ。万が一であったとしても、出会うことのないように。
そういうわけで、恭が『エンブレイス』に来るのは数年ぶりだ。全く勝手が分からない上、久しぶりに緊張している。
「はー……」
『大丈夫か? 恭』
「たぶんー……ねえぶんちゃん、とりあえず受付行ったらいいと思う?」
『せやなあ。とりあえず入口のガードマンに乙仲さんと約束してる柳川なんですけどって言ってみ』
「オトナカサントヤクソクシテルヤナガワナンデスケド」
『自分の名前覚えてるか? ホンマに大丈夫かお前?』
耳に届く『分体』の心配そうな声にうう、と項垂れながらも、恭は目の前のビルの中へと向かうべく足を動かす。前は一部だけだったのだが、面倒がった大樹がビルごと買い取って丸ごと『エンブレイス』の事務所になっているらしい。ずっと立っている恭を不審に思っているのか、警備員の視線が痛い。こんなことなら律に相談して一緒に来てもらった方がよかったかもしれない、と一瞬だけ考えて首を振る。こんなことに律の手を煩わせるわけにはいかない。
よし、と気合いを入れ直して一歩を踏み出した瞬間。き、と後ろで車が停まる音がして、反射的に振り返る。開いた後部座席のドア、出てきたのはキャップを目深に被った男が一人。
「あ」
「やっぱ恭だった、やっほ。あ、あけましておめでと」
「みおみお!」
「でかい声で名前呼ばないで……」
そこにいたのはアイドルグループ『Lovit』不動のセンター、Mioこと菱川 澪生。ぱちり、と目を瞬かせる彼が恭には救世主に見える。こんなに心強い相手はいない。
運転席から続いて出てきたスーツ姿の男が驚いた顔で走ってくるのを、澪生は片手で静止した。大丈夫だから、と話している内容からすると、恐らくマネージャーなのだろう。
「あけおめ! たすけて!」
「えっどしたの? 仕事? 先生のお使い?」
「仕事じゃなくて、あの、俺ひびちゃんに会いに来たんだけど事務所入ったことなくて分かんないし心臓痛い!」
「ひびちゃん? 誰? あ、ひーさんか? えっ恭って知り合い?」
「ちょ、ちょっといろいろあるともだち……元友達……? 俺にとっては友達……」
「あー、ワケありか」
「ちょっと……」
しょんぼりと項垂れる恭に、澪生は肩を揺らしてくつくつ笑う。笑わなくても、とは思うものの、詳しく説明するのは難しい。察して詳しく聞こうとはしない澪生は、その辺りを心得ている。
「意外、恭ってこういうのがんがん行くイメージだった」
「普段なら割と行くんだけど……今回はちょっと……」
「そか。俺今から社長と打ち合わせでさ。一緒に行く?」
「めっちゃありがたい……ありがとー……」
「ん、待ってろ」
頷いて、澪生は車へと戻ってマネージャーらしき人物と何か話して。すぐに戻ってくるとそのまま恭の腕を取って、に、と笑って。
「手繋いであげよっか?」
「……馬鹿にされたことは分かった」
ビルを丸ごと買い取っているとはいえ、『エンブレイス』はそれほど大きな事務所ではないし、業界的には弱小の類に入る。抱えている所属タレントの数もそれほど多くはない、スタッフの数は言わずもがな。故に自社ビルになったといっても、ビル自体がそれほど大きくはないので。
「はい、ここ」
「あう」
最上階は6階。あっという間に辿り着いた社長室の前、どうしても引き気味の恭におかしそうに澪生は笑いながら扉をノックする。あ、と思った瞬間にはどうぞ、と声がして扉が開いていた。
ぎゅう、と心臓が痛い。こんなに緊張するのはいつ振りだろうか。
「おはようみーくん! 正面から入ってきたでしょう、SNSに目撃情報上げられてたよ」
「おはよ。事務所に入るとこパパラッチされてもな……てかそんな情報収集しなくていいんだよ暇か……?」
「やっくん連れてきてくれたんでしょう、ありがとうね! で、何でやっくん入ってこないの」
「あれ?」
「ドーモ……オジャマシマス……」
そろり、先に入っていった澪生の後ろから顔を出して部屋へと足を踏み入れれば、奥の席に腰かけてひらひらと手を振る大樹の姿。その斜め後ろに、苦虫を嚙み潰したような表情をしたスーツ姿の男が一人――響。一瞬目が合って、すぐにその視線は逸らされる。
ばくんと音を立てる心臓は、やはり緊張のせいだろうか。気持ちを落ち着かせようとゆっくりと息を吐き出し、と覚悟を決めて。
「……ひびちゃんが普通に男の格好してスーツ着てる……」
「そこかよ!?」
「えっ昔どんな格好してたのひーくん」
「うるさい深堀りすんな」
「恭とひーさん知り合いだったんだなー、意外」
「……ただの同級生だよ」
「あ、そうか恭って俺より年上だった」
「そうだよ!? 今!?」
わいわいと賑やかになる室内に、少しだけ安堵する。急に二人でいるよりは、こうして大樹と澪生がいてくれるのはやはり心強い。澪生の方は恐らく気を遣ってくれてもいるのだろう。
響は視線を逸らしたままだ、できればこのままやり過ごしたい気持ちもあるのだろうことは想像に難くない。しかし、それでは意味がないのだ。恭が話したいのは大樹でも澪生でもなく、響なのだから。
「ひびちゃんあのえっと」
「……何」
「飲みに! 行きませんか!」
「は?」
「お、いいね! 僕も行きたい」
「社長は今から俺と打ち合わせだろ何言ってんだ馬鹿か?」
「みーくん僕の扱いがひどいよね!? いいよいいよひーくんのことはどうぞ連れてってもらって、ひーくんこの後仕事ないから」
「大樹」
「大丈夫だよ、今日はみーくんもいるから。ひーくんは行かせるよって僕言ったよね?」
にこ。いつもと変わらない大樹の笑みに、響が肩を落として大きな溜め息を吐き出す。心底嫌なのだろうなということはよく分かるが、ここで引く訳にはいかない。今日を逃してしまったら、次にこうして響と会えるのはいつになるか分からない。
「どこに飲みに行くの? 予約取ろうか? 何ならタクシー呼ぶよ?」
「あっ予約は大丈夫タイさんが紹介してくれる店めっちゃ高そうこわい」
「やっくん結構稼いでるのでは……?」
「俺、お金の管理は奥さん任せだから……。でもタクシーは呼んでくれるとめっちゃうれしい」
「うんうん、帰りも連絡くれたら迎え出すよ! 何なら僕が迎えに行くね!」
「それ途中からでも社長が参加したいだけだろ……」
目をきらきら輝かせている大樹に呆れ顔の澪生に笑いながら、恭は響に視線を向ける。とんとん拍子に進んでいく話に困惑しているのか、もう既に諦めているのか。頭を抱えた響の表情は見えないが、乗り気でないことくらいは分かっている。
それでも、何もなく二人で向かい合って話すよりは、アルコールの力でも借りた方が話もしやすいのではないかとアドバイスしてくれたのは憂凛だった。確かにその方がいいかもしれないと思ったのは、律が気の置けない友人たちとの飲み会の後は、二日酔いながらも毒が抜けている様子を見てきているからだ。
「……俺の記憶が確かなら恭ってザルじゃなかった?」
「……どうしようひびちゃんがそういうこと覚えてくれてるのめっちゃうれしい……」
「きもい」
「ひどい」