Tide Rises - 01
抜け落ちていた記憶を取り戻してから随分と経って、それに纏わるものは随分落ち着いた――と恭は思っている。
最初の頃は落ち着かなかった。本当に起きた出来事なのかどうかを整理して受け入れるのが想像以上に大変で、あれこれと考えていたら今度は憂凛のことを不安にさせてしまった。今度はそちらを気にしていて、落ち着いた頃には仕事が溜まっていたり律が『院』の仕事のせいで大変な目に遭ったりと様々なことが起きてしまい、すっかり忘却の彼方になってしまっていたのだが。
テーブルの上。置いたスマートフォンを眺めて、深呼吸。
「……恭ちゃん本当に大丈夫? 無理しなくてもいいと思うけど……」
「や……もう絶対今やっとかないと、まーたは次いつになっちゃうか分かんないし……」
隣で心配そうな顔をする憂凛に、首を振る。この年始は憂生の世話をしながら身重の憂凛を気遣いつつゆっくり過ごしている――ということは、律が忙しくて仕事に出ることができる状態ではないということで。いつもであれば少し様子を見に行ったりもするのだが、今回に限っては気になっていることを片付けるためにそっとしている。仕事に出るとなればまた律や桜からきちんと連絡が来る筈なので、その辺りは心配していない。
本当なら昨年のうちに全て終わらせておくべきで、それができなかったのだから年が明けて早い段階の今片付けておけば、後々の杞憂もなくなる。引き摺らなくて済む。結果がどうなるにしろ。
よし、と小さく声を出して気合を入れて、呼び出した連絡先は辺見 大樹。芸能事務所『エンブレイス』の社長である彼には、一昨年の1件以来ご無沙汰だ。数度のコール音の後、はいー、と元気な声が聞こえる。
『やっくん久しぶり! 明けたねおめでとうだね!』
「おめでとうございますタイさんー。今年もよろしくお願いします」
『うんうん、僕の方こそ! ところでどうしたの、やっくんから僕に電話って珍しいね?』
「あ、ちょっと用事があって……」
『えっとうとううちの事務所で働いてくれる気になった!?』
「それはない」
真顔で即答した恭に、隣でくすくすと憂凛が笑う。いつもと変わらない大樹のお陰で、少し肩の力も抜けた。言うべきことは決まっている――後は、口に出すだけ。
「アポ、取りたくて」
『僕に?』
「ううん。ひびちゃんに」
『……』
電話の向こうの無音。大樹は恐らく恭と響の間に何があったかはある程度把握しているだろう。律から話を聞いていてもおかしくはないし、以前の大樹であれば調べる方法は幾らでもあった。会わないように心がけていたのだから、不思議に思って響に聞いている可能性もある。
どくん。心臓が音を立てる。こんなに緊張するのは、いつぶりだろうか。
『――ってやっくんが言ってるけど、どうするひーくん?』
『……馬鹿……』
「あ」
薄く聞こえた声は、懐かしいもの。間違いなく彼――乙仲 響の声だと確信できる。現在『エンブレイス』で社長秘書を担っているのだから、今現在大樹といても何もおかしくはない。あはは、と笑っている大樹は故意だろう。着信の時点である程度予想はついていて、だからこそ響にも聞こえるようにして電話を受けている。
ぎゅう。隣にいてくれる憂凛の手を握る。ぎゅ、と優しく握り返してくれる手の温もりに、心が落ち着いていくのが分かる。
――大丈夫だ。もうあの頃の、何も知らない自分ではないから。
「ひびちゃん、俺と会ってくれる気ってないですか」
『……次会うときは殺すっつったろ』
「ひびちゃんはもう俺にそんなことする理由ないじゃん」
『……』
『ちなみに明後日の夕方からならひーくんスケジュール空いてるよー』
『大樹!』
「じゃあ明後日! 明後日事務所まで行く!」
『うんうん、じゃあひーくんのことは僕が捕まえておこうね』
「ありがとータイさん」
『サイアク……』
電話の向こうから聞こえた小さな声には、上手く笑えずに。それに気付いた憂凛が、よしよしと頭を撫でてくれる。ぐわりと込み上げた、泣きそうな何かは歯を食いしばって耐えて。
――こうして5年ぶりに、恭は響に会う約束を取り付けたのだった。
電話を切った瞬間、机越しに手が伸びてくる。力任せに掴まれた襟元、引っ張られるネクタイに従って顔を上げれば、響が憤怒の形相で大樹を見ていた。理由はよく分かっているので、大樹はにこりと響に笑みを見せる。
「ひーくん、苦しい」
「ざけんな! 何考えてんだ大樹、勝手に」
「業務命令だよ、ひーくん。やっくんと会っておいで」
「ッ……」
「……なーんてまあ、立場を傘に着るつもりはないんだよ? 僕はね。一応ね」
にこにこと笑う大樹に諦めたのか、響の手の力が緩む。それを見計らってそっと手を外すと、乱れた襟元を整えて。机の上で手を組んで、改めて響を見る――真っ直ぐに。
恭と響の間に何があったのか、大樹はかつての時点で把握している。把握した上で、響を自分の傍に置くと決めた。例え『取引先』に当たる律に背くことになっても、響に断られない限りは自分の手伝いをしてもらうなら響の他にはいないと考えたから。
それは、かつての家族だから、というわけではなく。
「僕はね、ひーくん。あの頃、ひーくんが旭先生の仇討ちをするために、何を犠牲にしてでも、誰を利用してでもやり遂げるって決めたその気持ちが、本当に全く分からなくて」
「……だろな。お前はそういうヤツだったし」
「まあ僕の場合は旭先生の裏の顔も知ってたからねえ。施設にいた頃は如何に逃げ切るかしか考えてなかったよ。逃げ切る前に旭先生が殺されるとは思わなかったけども」
「……お前が誰にもそれ言わなかったの、」
「自分のことにしか興味なかったからだね!」
「気持ちいいくらいはっきり言うなコイツ……」
他の人間がどうなろうと、どうでもよかった。自分以外に大切なものなどなかった。他の子供たちと比べれば響とはそれなりに仲の良い部類ではあったし、今でも彼のことを覚えていてこうして一緒にいるくらいの関係性はあった。それでも響に『真実』など告げるつもりはなかったし、何故かと問われればやはりどうでもよかったのだろうと思う。
大樹の世界には、自分以外という選択肢は、今の家族と出会わなければ存在しないままだった。
出会ったからこそ、知ったからこそ、今なら響の気持ちが分かる。どうしてもっと早い段階で教えてあげなかったのだろうとも思ってしまう。だから響をこうして傍に置いているのは、大樹なりの贖罪でもあった。
何もかも、終わってしまった後だったとしても――今も響は、生きているから。
「僕はね、せっかく何だかんだ無事に今を生きているひーくんに、『家族』として楽しく生きてて欲しいなあ、なんて思っちゃったりもするんだよね、今はね」
「うっそくさ……」
「ひどくない!? 何でそういうこと言うの!? しかも今!?」
「お前の日頃の行いが悪いからでは?」
「……うっ言い返せない……。いやでもね、ひーくん、この会社がっていうか今の僕に御当主様と関わりがあることを重々承知の上で、それでも来てくれたでしょ」
「……それは、まあ」
「だからね、僕はひーくんの本当の本当の、心の奥底の本当の部分では、やっくんと仲直りしたいんじゃないかなあなんて考えてしまったりもするんだけど、どうだろう? そんなことはなかったりする?」
「……」
響は答えない。ぐ、と固く結ばれた唇は、発言を拒んでいる。
しかしそれは、肯定と同義だ。何も言わないのは、言葉にしてしまったら認めざるを得なくなるから。
「あはは。まあ、いいけど。あとは僕としては、やっくんに借りがあるんだよねえ実は。だからやっくんの望みを叶えてあげたいな! なんちゃって?」
「……恭に? 前頼んだ仕事の一件?」
「あれは仕事だし。僕は正当な対価を払ってるから、そこに借りはないね」
「お前そういうとこシビアだよな」
「やっくんね、時々星乃さんとお話しに行ってくれてるんだよね」
「え」
「何だかんだ忙しいのにね、やっくんも。決まって僕がいないときに僕に内緒で! 普通なら不倫疑っちゃうよね、他の男に僕の大事な星乃さんと喋ってほしくないんだけどね! まあやっくんは自分の奥さんのことが宇宙一大好きな人だって知ってるしそういう子じゃないからギリギリ気にしないことにしたんだけど」
――アンタが気にするから内緒にしててって言われてるんだけどね。
そう言って話してくれた彼女の表情はとても穏やかで、柔らかだった。自力ではあまり動くことができない彼女は、誰かと会ったり話をしたいときに自分で――ということが難しい。当然ヘルパーや世話役は付けているが、そういった人間は仕事だからと彼女も遠慮する。そういうこととは全く関係なく、突然友達になりませんか、と恭が会いに来たのだという。最初は警戒していたものの恭のキャラクターに毒気を抜かれてしまい、何となくそのままコンスタントに付き合いが続いているらしい。あまり詳しい話は教えてくれないが、徐々に彼女の態度が柔らかくなったのは恐らく恭のお陰だと大樹は踏んでいる。
この件を律に聞いてみたとき、律も知らなかったと首を横に振っていた。だからこそそれは損得でもなく、仕事でもなく。ただ「そうしたい」から「そうしている」ということ。
それなりに付き合いは長くなってきた。直接話をする機会はそれほど多くないとはいえ、大樹は柳川 恭がそういう人間であるということを知っている。そしてそれは、響も同じはずだ。
「……だからお返しがしたいって?」
「ま、僕としてはね。そのためにひーくんを差し出すのが今一番やっくんに対するお礼になるかなって」
「お礼に俺を使うなよ……」
「ひーくんからすればどのツラ下げてって感じなんだろうけど、やっくんの方がひーくんと話したいって言ってるんだからいいじゃない。やっくんに悪いと思う気持ちがあるなら、やっくんの希望を叶えてあげたら?」
「……辞表書いて今日限りで辞めてやろうか……」
「契約違反で即刻訴訟するよ僕は、相手がひーくんでもそれはするよ」
「だから何でお前はどういうとこシビアなんだよ!?」
「経営者だから仕方ないね? 仕事を持ち出すならビジネスの話するよねえ」
あははと笑う大樹に、わざとらしく響は肩を落とす。何を言ってももう無駄だということはわかっていて、それでも足掻きたいだけなのだろう。残念ながら大樹には「顔を合わせづらい」という感覚は分からないので、響の逡巡や葛藤を理解することができない。それでもきっと、分からないなりに背中を押すことには意味があると思いたい。
「あ、明後日仕事入れたら怒るよ」
「……インフルとかになんねえかな……」
「わあ」