Daybreak Prospects - 閑話01

珈琲の話

「っあー……終わったぁ……」

 思い切り伸びをした瞬間にごきりと関節が音を立てて、溜息。欠伸をしつつ眉間を揉んで、律は肩の力を抜いた。年末の仕事が正月三が日を過ぎてようやく片付くというのも考えものだ――とはいえ、無理矢理自宅に帰ってきたからではあるが。とにかく年が明けるまでに家に戻っていたかったし、恭を帰らせておきたかった。その分書類仕事が増えたのは些事と思うしかない。
 一先ず終わる見通しが立って気が緩んだのだろう、急激に睡魔が押し寄せてくる。まだ書き終わっただけでやらなければならないことは残っている。珈琲でも飲もう、と律は席を立って書斎を出た。
 時刻は既に深夜。桜に連れ出されて夕飯を食べてからずっと書斎にこもっていたので、彼是6、7時間は飲まず食わずだったということになる。昔から集中すると他のことを疎かにしてしまうのは律の悪癖で、改善しなければと思ってはいるが性分はなかなか変わらない。
 年が明けてから初詣にも行けていない。顔を出せていないので下手に心配させていると悪いなと思いつつも、仕事が終わる見通しが立っていなかったのでこればかりは仕方がない。明日――日付的には今日だが――には一旦全て片付くだろうから、明後日には顔を出せるだろうか。何も言っていないのでそろそろ恭もこちらに顔を出しそうだ。
 キッチンでインスタントの珈琲に湯を注いで、そのままリビングのソファに腰を下ろす。口をつけるには珈琲はまだ熱い。テーブルの上にマグカップを置いて、この先の予定のことを考える。もう少しすればまた日本を発って、いつもの通り憂凛の誕生日辺りを目途に帰ってくることになるだろう。その後は国内の仕事に絞って、月末の桜の誕生日にはようやっと結婚式を挙げることになっている。籍を入れてからずっと結婚式をしないのかと言われてはいたが、仕事の量や世情を鑑みて保留していた。とはいえ律は現在この状況なので、結婚式の準備は桜に任せきりだ。申し訳ないなと思ってはいるのだが、結婚式の日に影響を及ぼさないようにするのが律にとっては最優先事項になってしまうので。
 大仰なものではない身内と友人を呼ぶ程度の結婚式ではあるのだが、それでも準備は大変だろうことは想像に難くない。2月に日本に帰ってきた後の仕事のスケジュールをもう少し調整したいところだ。最後までほぼ全て桜任せにするわけにもいかない――これは『二人』の結婚式なのだから。
 
「……りつさま、律様?」
「……、ん」

 不意に自分を呼ぶ桜の声がして、ふっと意識が戻る。考え込んでいる間にいつの間にかうとうとと眠り込んでしまっていたらしい。心配そうに律を覗き込んでいる桜はパジャマにショール一枚という出で立ちで、リビングに電気が点いていることに気が付いてこちらに顔を出したのだろうことが見て取れる。テーブルの上の珈琲はすっかり冷めてしまったようで、湯気も出ていない。
 
「……うわめっちゃねてた……」
「暖房もつけずにこんなところで……。駄目ですよ、風邪引いちゃいます」
「ほんとに……ありがと、桜。でもこんな時間にどうしたの」
「今日はこの時間までに律様が寝室に来なかったら寝かしつける用のアラームを設定してましたので」
「……そんなことしてたの?」
「律様が家にいらっしゃる間は体調管理も私の務めです」

 そう言って笑う桜に、思わず苦笑を返す。流石にこの状況ではまず自分の体調を気にしてくれとは言い返せない。実際年末から睡眠も仮眠程度しかしていない状況が続いているので、心配させてしまっているのは分かっている。
 ぴ、と暖房のスイッチを入れて、桜はテーブルの上の冷めた珈琲に手を伸ばす。片付けてくれようとしているのか、それとも淹れ直してくれようとしているのか。ぼんやりとそれを眺めながら桜、と無意識に名前を呼んでいた。きょとんとした瞳がこちらを向く。ぽんぽんと自分の隣を叩くと、珈琲を手に取るのは止めてそのまま隣に腰を下ろしてくれたので。
 
「りつさまっ!?」
「……10分でいいからこのまま甘えさせて……」
「ちょ!? えっ!?」

 膝の上に頭を置く形で横になって、律は目を閉じる。疲れきっている自覚はあるので、この程度は許してほしい。次の仕事に入る前に1日程度はリフレッシュ休暇も取るべきだろうな、とは思う。そもそもこんな状態でそのまま仕事に行けば、意外と面倒見のいい口うるさい相棒に怒られる。
 しばらく固まっていた桜はしかし、少しして力は抜けたらしい。じっと律の顔を眺めている気配がする。
 
「……律様、クマがすごいです」
「まじかー……そういや鏡見てないな……」
「お仕事終わりそうですか?」
「うん……あと見直しと……細かいことやったらひと段落かな……」
「じゃあそれが終わったらちゃんと休んでくださいます?」
「24時間くらい寝る……」
「そうしてください、本当に」
「……初詣行かなきゃね」
「三が日を過ぎても大体7日までに行けばよいとお伺いしました。お仕事終わって、一休みしたら一緒に行きましょう」
「……うん……」
「……律様、このまま寝てしまうのはやめてくださいね……?」
「がんばってる」
「もう……」

 くすくす。仕方なさそうに笑う桜の声は柔らかくて安心する。うとうとと押し寄せてくる睡魔に逆らえなくなりそうで、律はゆっくりと息を吐き出した。
 あまりこのまま長居して桜に風邪を引かせようものなら、過保護な兄に怒られることは目に見えているので。ほどほどにしないとな、と思いつつも、この幸福な時間は手放し難い。
 ――まだ桜の『兄』でいた頃。桜の気持ちを知っていた恭が、どうしても律と引っ付けようとしていた頃はどうしてそんなに、と思っていたけれど。こうなると、分かる――この安らぎは、律には必要なものだ。
 
「……さくら、」
「はい?」
「ありがとね」

 目を開いて。そっとその頬に手を伸ばせば、驚いたように目を丸くして――そのまま真っ赤になる桜に笑って。
 体を起こすついで、その唇に軽く口づければ、へにゃりと桜の体から力が抜けてしまって。いつもと変わらない桜の反応にまた笑ってしまいながら、立ち上がって手を差し伸べた。