Daybreak Prospects - 05
ずる、ずる、ずる。
ふっと意識が戻る。体が引き摺られている、ということに気付くまで数秒。視界がぼやけている気がして瞬くと、ぽたりと流れ落ちてくるもの。頭から流血しているな、ということに気付くと今度はずきずきと痛みが襲ってくる。こういうものは知覚するものではないなと思いながら、一つ深呼吸。
ずる、ずる、ずる。
周囲は真っ暗で全容が掴めない。体に当たる感触からして平坦な道ではなく、坂を上っているようにも感じる。どこかの山の中だろうか。いや、既に『領域』の中の可能性の方が高い。
「狛達小納通麻那蛇」
声。何を言っているのかがよく分からない。音を聞き取れてはいるが、ただその音だけだ。理解しようとするのは一旦諦めて、目を閉じる。意識を集中。
「絽ノ壇羅等菱砺鵜破猛蔦妲余威謂鼓隊」
やるべきことは決まっている。手順は既に頭の中にある。ひとつ、ふたつ、みっつ。指先の些細な動きだけで術式を展開していく――さて、この引き摺っている相手は気づいているのかいないのか。恐らく何も気づいていないか特に興味がないのだろうと思えるのは、その歩みが止まらないこと、ぶつぶつと何か声らしき音を発し続けていること、そしてこちらを気にしていないこと。
どさ。
引き摺られる感覚が止まって、体の設置面積が大きくなったことを感じる。その辺りに放り出されたと考えて間違いないだろう。気配は去らない。
「課葦真塀江間射場手俛」
ひゅ、と何かが振り上げられ、振り下ろされる音。しかしそれは体に当たる前にばちんと弾かれる。一度、二度、三度。何度繰り返しても当たる気配はない。
「経淦拿人馴駄」
「……気が散る……」
溜め息一つ。青く染まった目を開いて、律は体を動かした。ずきりとした痛みが頭に走るが、今は気にしていられない。目の前の悪食らしき『彼岸』の形は獣のようだが、視界の悪さのせいかそれとも他の要因なのか、うまく視認できない。何とか座る形を保って、律はその『彼岸』を見上げる。
「盾應志手豆堕禰唐湊忌諱」
「……ええと、どうも初めまして……? 何言ってるかわかんないけど、こっちの言葉は通じるのかな……」
「土無小楠度達已下似鵜遠滑」
「あー……何となく分かるような……分かんないような……? 俺今人違いで殺されかけてますよね……?」
「抖蓮台䡎御詩乃轍経砺況卯弖丹木寺霜吐」
「俺のことを食べるのは無理ですよ……、ちょっと先約入ってるんで……」
幸か不幸かと言うべきか、最初からその可能性に気づいてはいた。
律は巧都という『彼岸』とかなりの代償を払って契約することを選んでいる。その契約の内容に外から手を出すのは非常に難しい。故に悪食の目的が「食べる」ことなのであれば、恐らく不可能だろうと律は踏んでいた。その読みは間違っていないらしい。
さて、問題は――悪食を前に、ここからどうするかだ。
どうにも話はできそうにない。意思疎通はできる可能性があるが、向こうが何を話しているのかが分からない。表情や声のトーンから推測を立てるのも難しそうだとなれば、律には相手が分かってくれると信じて話し続けるか、実力行使に出る他方法がない。
考えたいのに、頭の痛みが邪魔をする。頭部に一撃食らわせるというのはこの『彼岸』のスタンダードなのだろうか。
「弖吐埴埜紗依榲鋳婁江刺迂歙嬬却否汐斧阿戸迩摩滓祈衒」
「……、やば」
それは苛立ちか。ぶわりと膨れ上がった気配に律は指先を滑らせる。虚空に音もなく現れた鍵盤が音を鳴らして、強固な防御壁を構築。ばきんとひび割れる音が走ったものの攻撃自体は防げているのだろう、律に何かしらのダメージが与えられることはない。
とはいえこのままでは拮抗状態が続くだけ。そしてこのままこの悪食らしき『彼岸』が去るのを待つことはできない。それでは遭遇した意味がない。
「乖烹羅圧篠壬生武盧怪摸智乃都祖奈弖自雁亥滑開輝曇名礼逸劣区墓于」
「何かすごい怒られてるのは分かるんだけど、俺も知り合い殺される訳にはいかないんですよ……今は手を引いてもらえるとめちゃくちゃありがたいんですけど、できれば向こう数十年くらい……?」
「這堵窯下迂堰螺俛杢弟似子御宵担徊飼手啼謂徴」
「……、音としては聞き取れてるような気もするけど、駄目だな……」
意識が若干揺らいでいるのは頭の出血のせいだろうか。見た目ほどダメージはないだろうと踏んでいるのだが、巧都の力を借りて凌いでいる現状では解いたときが怖いな、と内心苦笑する。このまま多少実力行使をして引き下がってもらう他ないだろう。
指先を動かせば、呼応するように現れる鍵盤。いついかなる状況でも、指先ひとつで思い通りの魔術が行使できる形になるのは巧都の力を借りることによる恩恵だ。それに伴う代償もあるが、今回の場合は悪食が食らうことができないという点で有利に働いてくれている。必要な犠牲だと言えばきっと怒られるのだろうが、今はそんなことを言っている場合ではない。
膨れ上がるその質量は、恐らく防御壁ごと律を喰らおうとしている。
「乙打啼卦履名打御露醒儺攅亂筬己斐礪宛」
「――多分それ、聞けなきゃいけない気がするけど。でも、ごめんなさい」
命を奪うという手段でしか悪食が対応できないのであれば、こちらはそれ相応の対応をするしかないのだ。倒すことができるようなものではなくても、何とか共存していくために。或いは、ヒトが生きていくために。
鍵盤から奏でられた音が魔術を構成する。雷の鎖となったそれは悪食を取り巻くが、それ以上の攻撃が発動しない。恐らくそれ以上の魔術の発動を『認めない』ことができるのだろうという推測を立てて、律は眉を寄せた。それはつまり、傷をつける手段がないということになる。
このまま膠着状態に陥るか、若しくは鎖が破られるか。さてどうするかと思った瞬間、ばきん、と遠くで何かがひび割れる音がした。
「律さん!? います!?」
「……さすがアリスちゃん……」
「減赦唾諭嶌仭綯玵瀑叶」
「あー! いる! 月ヶ瀬さん! ビンゴ!」
奪取まではできなくとも、穴を開けたということだろう。響いて耳に届いた恭の声に脱力する。いつもながらタイミングはいい――それもまた、彼が『セイバー』たる所以なのだろうか。
自身の『領域』がこじ開けられたことに反応したのか、それとも恭と共にいる朱緋の気配に反応したのか。一瞬律から気が逸れたのが見て取れたその瞬間、律は魔術の出力を無理やり上げる。やはりダメージが通っているような感覚はないが、それでも拘束が強くなった感覚はある。
「――貴方の狙いはやっぱり僕なんでしょう? 上着ひとつで間違えるなんてひどいなあ」
普段と変わらない柔らかな声。――ああ、やはり選択は間違えていなかった。
律が囮となり、朱緋が対処する。それが最も解決できる方法だろうと踏んだ。恭の手前律はそれを口に出さなかったが、朱緋はきちんと汲み取ってくれていたらしい。その為に『領域』をどうにかできる『アリス』のいる恭を今回は朱緋の方につけたのだから、伝わっていなければ意味がない。
ぎちぎちと雷鎖が揺らぐ感覚。この悪食はやはり、朱緋を狙っている。喰らおうとしている。『獲物』を見つけた途端に『それ以外』のことなどどうでもよくなっているのだろう――どちらにしろ律には膨れ上がったものを押さえつけることしかできない。
「……律さんあとでお説教」
「お断りします。……頼みますよ月ヶ瀬さん、こっちはそれなりにやらかしてるんだから」
「ありがとうございます。……うん、やっぱり頼ったの、茅嶋さんでよかった」
「対価はもらうんで」
「あはは。……【闇夜に微睡みし者、その瞳を開け。我ら契約の名の下に汝の力を借り受けて月夜に踊ろう。汝の真名は『月読命』、闇夜に隠れし月の者】」
ゆるりと笑んだ朱緋を視認する。その白銀の右目が細められて――瞬きの刹那、琥珀へと変化した。
それなりに長い付き合いではあるが、恐らくそれは朱緋が初めて律の前で明かす手の内。人前に晒さずにいたもの。
「――夜は『僕ら』の時間なんですよ、悪食。ごめんなさいね」
月ヶ瀬は『陰』の家。決して表に出ることなく、影で支える役目を担った者たち。その性質上、滅多にその力を振るう瞬間に立ち会うことはない。
――故にその場で起きたことは、非常に『貴重な経験』であり。律にとっては危険を冒した甲斐のあるものが見れたので充分な対価――ではあったのだが。
「……この歳になってまさか恭くんに腹パン喰らうと思わないじゃん……」
「グーで殴ったら律さん死んじゃうからパーにした! ていうかまじで反省して!?」
「ごめんって昨日からずっと謝ってるでしょ」
「絶対反省してないの目に見えてるからいつまでも俺に怒られてるのでは?」
「……恭くん怒ると割と冷静に正論突っ込んでくるとこ夫婦揃ってそっくりになってまあ……」
「え?」
翌日、律と恭の宿泊先のホテルにて。
話をするために部屋を訪れてくれた朱緋の、二人のやり取りにあははと笑う姿はいつもと変わらない。あのときに見せた片鱗は既に影も形もなく、まるで夢を見ていたかのように消え失せている。
夜を照らす月明かり、夜を統べる者。戦闘にさえなることなく、昨夜の出来事は終わった。最初からその手が打てなかったのは、襲撃が不意であったことと襲われた時間帯が夜ではなかったことが大きい。いつ現れるか分からない、どこにいるのか分からずに対処できない。その状況では、朱緋にできることは全くなかったのだ。
顕れるだけでその場を制圧する程のその力を、その場で示したことによる降伏勧告。月明かりに照らされ本質を曝け出された悪食は、少しの間朱緋と睨み合った後敵意と殺意を完全に喪って何処かへ消えてしまった。恐らく次に現れるのは、本来の周期に本来の役割を果たすためということになるだろう。今回のイレギュラーは、本当に朱緋ただ一人を狙ったものだったのだ。
「つーか一晩経っても俺にはさっぱりなんすけど。何で月ヶ瀬さん狙われてたんすか」
「うーん、僕が『月ヶ瀬』だからでしょうね……」
「?」
「……悪食、結構何か俺に訴えようとしてましたけど。どうにもいまいち聞けなかったな。心当たりは?」
「何となく、茅嶋さんも気付かれてるんかと思いますけど」
「……まあ」
大きすぎる力はヒトにとっても『彼岸』にとっても禍を呼ぶ。そうなってしまう前に刈り取らなければならない。『不死』の加護が切れた朱緋という存在は、悪食にとっては『そういうもの』だった。
悪食という名で呼ばれているせいでどうにも『悪いもの』と考えてしまいそうになるが、恐らく正確な役割としてはそうではない筈だ。この一帯のバランサーを担っているシステムのようなものである、と考えた方が話は早い。
「割と直近で『あれ』使って今回悪食に感知されることになった、ってところですよね」
「多分そうですね。基本的に僕は『あれ』、余程のことがない限りは使わないんで……ごっそり持っていかれる感覚あるし……」
「何をっすか?」
「んん、何て言うたらええんかな。僕が僕じゃなくなる、って感覚なんですよ。僕という存在が書き換えられていく、浸蝕される……みたいな」
「だから『神犯』」
「ですね。自虐的でしょう?」
――『審判』転じて。それ自体も嘘ではないが、彼らにとっては『神に犯される者』という意味合いがあまりにも強いのだろう。縷々とした、この先も変わらない彼らの在り方。そういうふうにしか在れないもの。
「……二人で分かった顔してー。俺には! 全然! 分かんない!」
「あはは」
「まあ、当面これで月ヶ瀬さんが悪食に狙われることもないでしょう。……これからどうするんですか?」
「ん? 僕は変わりませんよ。この場所で自分がやるべきことをやるだけです。そのうち実家に戻る日も来るでしょうけど、今はまだまだ父が現役ですし」
「なるほど。……じゃ、俺はちょっと昨日の怪我もまだ治ってなくて療養の身なので、あとは恭くん連れてってもらって」
「え?」
「そうですね、お借りします。お願いしますね、柳川さん」
律の言葉に当然のように頷いた朱緋に、目を丸くしたのは恭だ。悪食の件が片付いたのであれば、この件はそれで終わり――と考えていたのだろう。律が療養しなければいけない理由は分かるが、それで朱緋の手伝いをする理由が分からないというところだろうか。
「え!? 待って何!? 終わりじゃないの!?」
「嫌やなあ、僕が自分が狙われてるだけの理由で茅嶋さんにヘルプ求めるわけないじゃないですか。他にもちょっと色々あるんで手伝って欲しかったんですよ、助かります」
「言ったでしょ、だから今回アリスちゃんは連れてってーって」
「あっ『領域』破りのためとかそういう理由じゃなくて!? ていうか月ヶ瀬さんあんな強いなら俺別にいらないんじゃ」
「駄目ですよ、僕普段は戦闘向きじゃないってご存じでしょう? そもそも夜以外は十全に魔術使うの大変なんです、僕らは夜の住人やから」
嘯くように、軽やかに。いつもの調子で朱緋は笑った。
「――それに、月はお天道様におってもらってこそ、ですからね」