Daybreak Prospects - 02

 駆けつけてくれた『ヒーラー』の話によれば、朱緋の怪我は見た目ほどは酷くはないようだった。頭部と右顔面にかなり傷を負ってはいるが後遺症や痕が残るようなことにもならず、綺麗に治癒できたという。ただ出血が多く危険な状態だったことは確かで、本人の衰弱が大きいため意識が戻っても数日はあまり動かずゆっくりさせた方がいいだろうとの所見だった。
 ひとまず朱緋のことはベッドに寝かせておいて、血痕を片付けていく。朱緋がいたのは仕事部屋だったようで、あちらこちらに布や大きな紙が置かれていた。よくよく見れば結構な量の生地に血が飛んでしまっているが、この処理は下手に触るよりも朱緋に任せた方がいいだろう。片付けている間に恭には朱緋と、朱緋から全く離れようとしないチワワを見ていてもらいつつ、『分体』を通じた情報収集を行ってもらう。ここ数日の朱緋の足取りに変わったことがないかどうか。街中の監視カメラの情報からでも、何か追えるものがあるかもしれないという判断だ。

「……よし。恭くん月ヶ瀬さんどう?」
「顔色めっちゃ悪い」
「出血すごかったし頭狙われてたしねえ……」
「でも落ち着いて寝てるから多分大丈夫っす」
「そっか、よかった。……もしかしたら右目かなあ……」
「右目?」
「うん。目は怪我してなかったって言ってたから、逆に目を庇ってたのかもと思ってさ」

 額や頬といった目の周りに傷はあったものの、目自体は特に怪我をしている様子はないとの話だった。朱緋の右目は色素が薄い白銀色をしている。対外的にはカラーコンタクトだと話しているそうで、説明が面倒な場面では黒のカラーコンタクトを入れるようにはしていると聞いたことがある。それは月ヶ瀬の人間が生まれつき持つ特徴だという話は知っているが、詳細は分からない。彼らが『ウィザード』として使用する魔術の核がそこにある可能性は高いが、流石に目をじっくり見せてくれとは言い難い。そもそもそんなものを他者に開示する程馬鹿でもないだろうというのが正直なところだ。

「……お前もご主人様心配だなあ、わんこ」

 朱緋にぴったりと寄り添っているチワワに声を掛けながら、恭がその頭をやんわりと撫でる。一瞬ぴく、と動いたものの、警戒する様子はない。こちらに敵意がないことはこのチワワにも伝わっているということだろう。
 片づけを終えた律が恭の隣に座ると、床に置かれていた恭のスマートフォンから白いもやもやが飛び出してきた。

『茅嶋、カメラで月ヶ瀬の行動追ってみたけどここ一週間で変わったことはなさそうやで。店と家とあとスーパー寄ってるのと、その犬連れて近所散歩してる姿だけや』
「そっか。この家に入った人は?」
『上手いことカメラがないから分からんな、そこまでは追えん』
「分かった、ありがとう」
「マンションとかなら入り口にカメラあったかもしんないっすけどねえ」
「アパートだからねえ……」

 建物としてもそれほど新しいものではないので、そこまでは期待できない。ひとまず変わった行動がないのであれば、何かを自身で調べていたというわけではないことは分かる。どこかの情報筋から逐次情報を仕入れつつ、何かに備えていた可能性はある。

「取りあえず一休みしとくしかないっすよねえ。律さん何か食べます? 来る途中にコンビニあったし何か買ってくるっすよ」
「そだね、さすがにお腹空いたな……。サンドイッチとかでいいや……、あと水」
「はあい」
「あ、一人で」
「だいじょぶ!」

 スマートフォンを手に取った恭が頷く。ちゃらりと音を立てるチェシャ猫のキーホルダー、言わずとも分かっているというそれに安心しつつ、律はひらりと手を振った。がちゃんとドアが開いて、閉まる。ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。それを聞き届けてから、律は朱緋に視線を戻した。
 律と恭がここに辿り着いたときにあの状態だったということは、タイミングはよかったのだろうか――それとも少し遅かったのだろうか。もう少し遅ければ確実に駄目だったことは目に見えているので、間に合ったのだろうとは思いたい。
 しばらくそうしているとぴく、と朱緋の瞼が揺れたのを見て取れた。あ、と思わず漏れた声と同時、朱緋の目が開く。反応したチワワが起き上がってぺろぺろとその口を舐めに行く光景に、少し口元が緩んでしまったのは不可抗力だ。

「……しぇり……こそばい……」
「おはようございます、月ヶ瀬さん。お加減いかがですか」
「……かやしまさん、……ッ」
「無理に起きなくて大丈夫ですよ、安静にしててください」
「……すいません」

 慌てて起き上がろうとした朱緋に静止をかける。ふらついて怪我でもさせるわけにはいかない。申し訳なさそうな顔をしつつ、朱緋はチワワを自分の胸元まで下ろしてその頭を撫でる。

「犬飼ってらしたんですね。その子ずっと心配そうにしてましたよ」
「あはは……まさか家でこんなんなると思ってなくて……。ごめんなシェリ、びっくりしたな……」
「今恭くんがごはん買いに行ってくれてるんですけど、食事はさすがにあれかな。何か飲めそうですか?」
「……少しくらいは。重ね重ねすいません……」
「いえ。……よかった、最悪の事態にならなくて」

 律の言葉に、朱緋は曖昧に笑う。あのまま放っておけばどうなっていたかは明白だ。そうですね、と小さく呟いて、そのまま朱緋は口を閉じた。その表情から逡巡が見て取れて、律は言葉を探すのをやめた。しんとした沈黙が部屋を支配していく。
 ――と、そこに軽快に階段を上がってくる足音が聞こえて。

「ただいまー、律さんサンドイッチどれがいいか分かんな……あ、月ヶ瀬さん起きてる!」
「ご心配お掛けしました、柳川さん……すいません」
「全然! よかったなあわんこ!」
「シェリって名前なんです」
「シェリちゃん? かわいー名前だ!」

 わいわいといつも通りのテンションの恭が戻ってきて。変化してくれた空気に、律は内心ほっと溜め息を吐いた。


 恭が「何がいいか分かんなかったし!」という言い訳と一緒に大量のサンドイッチを買い込んできたので、それを食べながら他愛のない話をする。チワワ――シェリは朱緋が起き上がってもべったり引っついたままだったので、自然と話題の中心になった。いつから飼っているのか、どういう出会いだったのか。そんな話で空気が和んだところで、律は朱緋の様子を確認する。顔色はあまりよくないままだが、様子は随分と落ち着いた。

「……でも、よかったですね。シェリちゃんに怪我がなくて」

 律が口にした言葉に、すぐに朱緋はその本意を読み取ったのだろう。そうですね、と応じながらも次の言葉を探しているのが分かる。一瞬の緊張に気づいているのかいないのか、恭が同意を示すようにうんうんと頷いて。

「つかまじびっくりしたんすよ! 月ヶ瀬さん生きててよかったほんと。間に合わなかったのかなってぞっとした」
「すいません、ご迷惑を」
「何であんなことになってたんすか? つか誰にやられたんすかあれ?」
「どストレート……」
「え、だって聞かないと話進まないし」

 きょとんとする恭に、ふふ、と朱緋が笑う。思わず呆れた溜め息を吐くものの、はっきりと聞いた方が朱緋も話しやすかったかもしれない。どうにも状況が状況だっただけに無駄に考え込んでしまっているな、と律は肩を竦めた。
 自宅で血まみれになっていたということは、自宅で襲撃を受けているということ。しかしシェリに怪我をした様子はない。そしてシェリは朱緋に引っ付いて離れない程懐いている。朱緋が守っていた可能性もあるが、この場合考えられるのは。

「……『領域』に引きずり込まれてた、とかですか?」
「そうですね。いきなり引っ張り込まれた、が正しいと思います」
「メモにあった狩りっていうやつ? 『彼岸』すか?」
「うーん……何て言うたらええんかな……。……この辺って数十年に1回、悪食が出るんですよ」
「アクジキ?」
「『此方』も『彼方』も関係なく食らう『彼岸』の一つがいるんです。僕の推測ではあと数年は出てこんと思ってたんですけど、予想が外れて。助けてもらえるかどうか分からんけど、とりあえず茅嶋さんちょうどこっち来られるんやったらヘルプ出しとこうと思ってメモ渡しました」
「……やばいのいないって言ってませんでした? このメモくれるとき」
「だってそう言うとかんと、茅嶋さんすぐメモ見ちゃうでしょ」

 困った顔をする朱緋に、言葉に詰まる。実際すぐに見ようとしてしまったことは黙っておいた方がよさそうだ。
 悪食の『彼岸』はそれほど珍しいことではない。そういうふうに在るように生まれた『彼岸』もいれば、力尽きることを恐れて食らい続ける『彼岸』もいる。或いは手に入れた力に味を占めるような形で食らい続けるような『彼岸』もいる。朱緋の言葉をそのまま受け取るならば、これは数十年に一度起こる『事象』のような『彼岸』だろう、という想像はつく。
 微睡み、目覚め、食らい、微睡む。そういうもので、ただそれだけのもの。

「何でそれに月ヶ瀬さんが狙われたんすか?」
「え」
「だって家にいたのに急に引き摺りこまれるって、月ヶ瀬さんが狙われたってことじゃない? あれ?」
「……あー……、いや、自分が狙われるって考えてなかったなって。そうか、僕狙われたんかな……」
「心当たりが?」
「……、あります、ね」

 言いよどみながらも、しかしはっきりと朱緋は頷いた。内容を尋ねようと口を開きかけた恭を静止する。見て取れる逡巡は、朱緋が律と恭にどこまで話していいかを考えているせいだ。
 他人に気軽に話せないことなど山のようにある。普通に生きていてもあり得るそれは、この世界においては更に自身の命を握るような事情であることも多い。こと『ウィザード』においてはその能力上秘密主義になりがちでもあるため、人に話す、ということはなかなかにハードルが高いことは律自身よく理解している。

「……茅嶋さん、柳川さん。これから話すことは他言無用にしていただけますか」
「勿論」
「うす」