Phenomenon Breaks - 03
仕事を何とか片付けて「旅行に行く前に1日くらいちゃんと体休めなきゃ駄目です!」という桜の要望に応じて1日だらだらと休日を過ごした翌日。
「新幹線……!」
「……いや本当に桜が新幹線乗ったことないの盲点だった」
律と桜は一路西方面へと向かっていた。
修学旅行で飛行機に乗ったことはあるが、新幹線には乗ったことがなかったという桜は、窓の外の景色をきらきらとした目で眺めている。律にとっては見慣れた光景だが、桜には何もかもが新鮮だろう。桜の様子を見ているとどうしても口元が緩んでしまう。缶コーヒーを開けて、ふわりと香るコーヒーの匂いに息を吐いた。
後のことは恭に任せてある――とはいえ不安だったので、残っている仕事の情報の共有は何人かに分散して説明しておいた。伊鶴が全て把握してくれているので、何かあれば伊鶴に話がいけば問題ないだろう。
旅行の日程は2泊3日。1日目は桜の希望である「普段会えない仕事関係の人」に会い、2日目3日目はしっかり遊んで帰る、というスケジュールだ。いつもの癖で律の手持ちの荷物はほとんどないが、代わりに桜の荷物が入ったスーツケース。桜からは自分が持つと言われたが、さすがに隣にいる自分が手ぶらの状態なのに、桜に荷物を持たせるわけにはいかない。昨日の時点で既にお土産をどうしようか、誰に買うべきかと真剣に悩んでいたので、そちらは宅配で家に送ることになりそうだ。
「律様富士山って」
「もうちょっとしたら見えると思うよ、今日は天気いいし」
「楽しみです……!」
「ふふ。まあ帰りは飛行機だから、ゆっくり楽しんで」
「……す、すいません子供みたいにはしゃいで……」
「え、何で。初めてなんだからテンション上がって当たり前じゃない? 桜が喜んでくれるの嬉しい」
「な、ならいいんですけど……」
急に恥ずかしくなったのだろう、口ごもる桜はそれでもちらちらと窓の外を気にしている。トンネルに入ってしまったので今は何も見えないが、次の風景が気になるところではあるのだろう。そういえば恭も昔は同じようにはしゃいでいたな、とぼんやりと思い出す。そちらの方は恥ずかしいからいい加減にしろとよく言ったものだが、いつの間にか落ち着いてしまった今では少し寂しいなと感じるところもある。別にはしゃがれたいわけではないが。
「そういえば私、伊鶴さんにも旅行の行き先は内緒ですって言われたんですけど」
「うん、俺が内緒にしててって言ったから。言ったら桜行く前からすっごい調べるでしょ」
「う……」
「そういうの抜きでのんびり楽しめたらいいなと思って。調べて計画立てて行くのも楽しいけど、ノープランでふらふらするのも悪くないからさ。途中で気になるものがあれば行き先変えたっていいわけだし」
「……でもどこに行くかは気になります」
「あはは。でもとりあえず行き先だけは分かってるでしょ」
財布の中、仕舞いこんでいた新幹線の切符を取り出して。ここ数年は滅多に使っていなかった切符をわざわざ買ったのは、桜に旅行気分を味わってほしかったからだ。
そこに印字されている文字は、新神戸。律の言葉に、こくんと桜は頷いた。
「月ヶ瀬さんにご挨拶、ですね」
「うん。月ヶ瀬さん、桜に似合いそうな服作っとくって言ってたよ」
「えっ!?」
ひとまずの目的地である月ヶ瀬 朱緋が経営しているアパレルショップは駅からそれほど遠くない。それを加味してホテルもその近くだったので、先に荷物を預けてから手土産を持って店へと向かう。
独特の雰囲気のある高架下。学生や朱緋自身が作った一点物の服が並ぶその店は、平日であることもあってか今日は店内に朱緋しかいなかった。こちらが声を掛けるよりも先にこんにちは、と笑った朱緋に、律と桜は揃って礼をする。
「お久しぶりです、月ヶ瀬さん」
「去年の夏以来ですっけ。お隣は噂の奥さんですね? 初めまして」
「茅嶋 桜と申します! 初めまして、と言ってもお電話では幾度かお話しさせていただいてますが……。いつもお世話になっております」
「月ヶ瀬 朱緋です。こちらこそいつも世話になってます。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします」
接客業をしていることもあるのだろう、朱緋の人当たりは柔らかい。律とそれほど歳も変わらないのでそこまで桜が余計な緊張をしなくて済むだろう、という配慮もあって朱緋のところに連れてくることにしたのだが、どうやらそれは正解だったようだ。手土産を渡して和やかな雰囲気で話している間に桜の緊張が解けていくのが分かる。
「そうそう、桜さんに着て欲しい服が」
「あっ、えっ、でも」
「サイズ一応聞いたんですけど、もしアレやったら詰めたりするから一回着て頂けると」
「い、いいんですか……?」
「勿論」
困ったように律に視線を向ける桜に、律は笑って頷く。朱緋に桜の服のサイズを教えたのは自分だ。アポを取るときに楽しそうな声で聞かれたので、たまたま朱緋がレディースの服を作りたいタイミングだったのかもしれない。
これと、これと、と服を渡す朱緋にあわあわしながらも、じゃあ、と桜は試着室に入っていく。それをにこやかに見送った朱緋が、そのまま律を振り返って。
「先日はえらい大変やったみたいですね」
「……どこ情報ですそれ? 妻には話してないのでご内密に……?」
「ふふ、分かってます。お身体は大事にしてください、僕も人のこと言えるタイプやないけど」
店内に流れるBGMで消える程度の小声でこそこそと言いつつ、朱緋はすっと律に紙を差し出した。緩く眉を寄せながら受け取ったものの、その紙には一見何も書かれていない。紙から魔術的なものを感じ取って、溜め息ひとつ。律にとって見慣れたそのやり方を取ったのは故意だろう。
「こんなときに申し訳ないんですけどお耳に入れておきたいことがあったんで、序でに。休暇終わってからの確認でお願いしますね、お休みの邪魔したら奥さんに僕が怒られてまう」
「電話じゃアレってことですか。月ヶ瀬さんは最近いかがですか? 近辺」
「良くも悪くもって感じですね。やばいんはおらんけど、そこそこやばいんはうろうろしてるんで。茅嶋さんの手を借りたいときが来たら、またご相談させてください」
「早めでお願いします」
「承知しました」
受け取った紙を仕舞い込んでいると、そろりと試着室の扉が開く。朱緋が作った服は普段ワンピースを着ていることが多い桜にはあまりイメージがない、ふんわりとしたシルエットの白のカットソーにリボンでサイドを編み上げた七分丈のモスグリーンのパンツを合わせた、涼しげで動きやすそうな服だった。
「ど、どうでしょう……?」
「うん、やっぱりイメージ通り。どうです?茅嶋さん」
「よく似合ってる、こういうのもいいね。可愛い」
「かわっ……」
「直しも必要なさそうだし、うん。よかったら着てあげてください」
「本当にいいんですか……?」
「僕の趣味なんで、全然。喜んで貰えたら嬉しいです」
「月ヶ瀬さん俺には服作ってくれないのに」
「だって茅嶋さん来られたらいっつも1枚買ってってくれるでしょ」
にこやかに笑ってあっさりと言う朱緋に、律は肩を竦める。――こういうところは商売人だから、侮れない。
行く先を決めていないという話をしたところ、朱緋から「いいデートスポットありますよ」という紹介を受けて訪れたのは、小さな水族館。
「わあ……」
元々水族館に行くと水槽の前から微動だにしなくなる上、自分の世界に入り込んでしまうほどに水族館が好きな桜をそんな場所に連れて行けば、どうなるかは明白だった。それでも途中までは色々と見て回っていたのだが、和風コンセプトのフロアに来てからかれこれ一時間。金魚の入った鉢の前をうろうろと巡り、始まるプロジェクションマッピングに目を奪われ、悠々と泳ぐ鯉たちを眺め――をくるくると繰り返している。
こうなると律は暇なので、隣をついて回ったり、設置されている椅子に腰掛けて桜を眺める他することがない。朱緋にプレゼントされた服をそのまま着ているので、屈むときもスカートを気にしなくて良いのは悪くなさそうだな、などと考えつつ。この合間に朱緋に渡された紙の内容を確かめようかと一瞬考えて、やめる。この旅行中は仕事のことは忘れるべきだ。だから朱緋もわざわざすぐに確認できないよう細工をしてくれているのだから。手が空くと仕事のことを考えてしまうのは悪癖だなと思いながら、代わりにスマートフォンで桜の写真を撮っておく。後で椿に送れば喜ぶだろう。彼は双子の妹を本当に溺愛しているので。
「すいません律様っ、私ばっかり楽しんでませんかこれ!?」
「いいよいいよ、桜こういうの好きなの知ってるし。桜が楽しんでくれると俺は嬉しい」
「うううでもさすがに……すいません次のフロアに……」
「ん、移動しよっか」
――これまた移動した先のフロアにあった水槽に、桜が張り付いて離れなくなってしまったのだが。
紆余曲折ありつつも屋外のフロアに出て、カワウソを眺めながらひと休み。ちょろちょろとすばしっこく動き回るカワウソに目を輝かせている様子を見るに、今日のお気に入りは金魚とカワウソだろうか。土産物屋でぬいぐるみでも買おうかと思いつつ、近くにあったカフェで買ったソフトクリームに口をつけると苺の味がして、残暑の中ひんやりと体が冷えていく感覚が心地よい。
こうしてぼおっとしているのも本当に久しぶりだな、と思う。兄妹から恋人に変わった頃に何度かデートに水族館には訪れているが、ここ数年はそんなこともできていなかった。自分が楽しいかどうかよりも、こうして桜が楽しんでくれているのが嬉しいのは本当だ。普段本当によく頑張って仕事のサポートをしてくれているし、恭と同じく桜なしで仕事をするのは既に考えられない。よく助けてくれているからといって、それに甘え過ぎているかもしれない。自分の休みが取れないのはともかく、それに桜を付き合わせているのはやはり良くない。
「……何か、こうやって旅行で来てこうやってのんびりしてるの、変な感じ」
「ふふ。律様いつもお仕事ばっかりしてらっしゃるから。合間に恭さんと観光とかされないんですか?」
「いやー……男二人で観光してもな……」
「でも恭さんだったら何処に行っても楽しそうですけど」
「楽しいってか、絶対うるさい」
大騒ぎする恭の姿がすぐに想像出来てしまって、律は思わず眉を寄せた。そんな律の表情にくすくすと笑って、桜は飲んでいたゼリーの入ったスカッシュを口に運ぶ。ころんと転がったゼリーがきらきらと輝いているように見えて、律は目を細めた。
――ああ。こういう日常を、ちゃんと守っていかなければ。
そのためにはやはりもう少し自分を大事にしないとな――と反省しつつ、律は溶けかけたソフトクリームを食んだ。
土産物屋で少し大きめのカワウソのぬいぐるみと、小さな金魚のキーホルダーを買って。嬉しそうにぬいぐるみを抱く桜はどう見てもご満悦で、こちらも表情が綻んでしまう。彼女にとっていい気分転換になったのなら何よりだ。大きな水族館に行くのとはまた違う味わいのある場所でもあって、色々とコンセプトがあるのもいいものだなと感心してしまう。
ホテルのビュッフェスタイルのレストランで夕食を取った後は、そのまま部屋へ。それなりの距離を移動したことやテンションが高かった分の疲労もあるのだろう、律がシャワーを浴びて出てくる頃には桜は布団の上で丸くなって眠っていた。風邪を引かせるわけにはいかないので、あとで一度起こして布団に入れないとな、と考えながらも、そのまま窓際にある椅子に腰掛けようとして。
――瞬間襲ってきた強烈な吐き気に、律は洗面所に駆け込んだ。
「ッ……ぅ、ぐ、」
心配を掛けてはいけないと多少無理をして夕食を食べた弊害だなと眉を寄せつつも、衝動に逆らうことなく吐けるだけ吐き出す。元々寝食を忘れがちで朝食を食べることは苦手な律ではあるが、かといって別段小食なわけではない。魔術を使用するという行為はそれなりにエネルギーを使うので、恭ほどではないが食べられるときはしっかりと食べるように心掛けている。
体に異常がないことは分かっている。何度も確認した。そもそもアレクの腕で何かを残すようなミスをすることがないことも分かっている。これは本当にただ単純に、律のメンタル面の問題だ。常に食べると吐くという状態になってしまっている訳ではなく、ふとした瞬間に思い出してしまうのが原因だ。
ずっと、体の中を何かがずっと這い摺り回っているような感覚が取れない。
恐らくは『院』であの包帯を巻かれてから宿泊先に戻るまでの時間を耐え続けたのがよくなかったのだろう。仕事の報告書を読むことで気を紛らわせてはいたものの、数時間防御魔術を展開しながら耐えていたことになる。体の中を動く、這う、ぐるぐるぐるぐると律の体の中に根を下ろして塒を巻いていくように。体感幻覚だということは分かっているのに、どうしようもない気持ち悪さが体から抜けていかないまま今日に至ってしまっている。
「……まじで、最悪……」
絶対やり返してやるからな、とパトリックの顔を思い出して舌打ちしながら、吐き出したものを流して口を漱ぐ。道中で念のため、多めに買っておいた栄養補給用のゼリー飲料は、やはり役に立つことになりそうだ。桜に対しては朝食用だと言って誤魔化したが――律が朝食を食べないことは、桜も分かってはいるので。
否が応でも、もしあのとき侵蝕から自身を守りきれていなかったら、ということは考えてしまう。内側から食い潰されて死んでいたのだろうか、それとも。気を失って次に目を覚ましたときには綺麗に片付けられた後だったので、実際あの寄生型魔術が何だったのか律にはよく分かっていない。想像をすることはできても、それが正解なのかどうかは分からない。
うぞうぞと動く、黒い何かの姿は朧気に覚えている。或いはあれは、体の中に『彼岸』を仕込まれたようなものだったのだろうか。
はあ、と深い溜め息を吐き出して洗面所を出る。ホテル備え付けの冷蔵庫に入れたスポーツドリンクをひとつ手に取って、先ほど座ろうとした椅子ではなく桜が寝ている隣のベッドの縁に腰掛けた。ペットボトルの蓋を開けはしたもののすぐに飲む気にはならずに、律はぼんやりと桜の寝顔を眺める。余程嬉しかったのかカワウソのぬいぐるみを抱きしめたまま寝ている桜の穏やかな寝顔に、ささくれた気持ちが少しだけ落ち着いていく。
――桜は聡い。恭の忠告もあったのだ、律の体調が普段と違うことなどとっくに気付いている。その証拠に、ここ最近家で食事を取るときは基本的に消化に良さそうなメニューが多かった。何も聞かないまま、それでも律を支えてくれる。
桜に何が起きたかを教えることはない。彼女が知る必要は無い――恭が知っていればいいという考えは変わらない。離れている時間が長くなる分、はっきりとした形の心配事を増やしてしまいたくないと思う。なら漠然と心配させているのはいいのかと言われてしまうのだろうか。
深く息を吐き出して、律はペットボトルに口をつけた。ひんやりとしたドリンクが流れ込んでいく感覚を鮮明に感じる。せっかくの旅行だ、こういうときは早く休んでしまった方がいい。
寝る前に桜を起こして、布団を被るように言わなければ。掛けてあげられるならそれが一番だが、布団の上で寝てしまっているのでこの場合はどうにもできない。そう思いつつペットボトルのキャップを閉めてサイドテーブルに置くと、ん、と桜が身じろいて。
「……あ、起きた」
「……、ッ……!?」
「おはよ」
「すっ、すいません、寝てました……!?」
「はしゃいだから疲れてたでしょ。寝顔いっぱい眺めて俺は満足」
「もう……」
跳ね起きた桜が土下座しそうな勢いだったので、先に笑っておく。申し訳なさそうな表情が困った表情に変わり、へにゃりと表情が崩れて苦笑いに変わる。
抱きしめられていたカワウソのぬいぐるみは、枕の横へ。くたりと転んでしまうそれを何度か直してから、桜もベッドの端に腰掛ける形で律と向き合う。ん、と首を傾げると、同じように首を傾げられて。
「……律様、今日、楽しかったですか?」
「ん? うん。久しぶりにのんびりしてるなって感じする」
「疲れてませんか?」
「うろうろしたから疲れてはいるよ。今日は早めに寝て明日に備えないとだね」
「……、あの」
「うん」
「旅行、一緒に行く相手、本当に私でよかったですか……?」
思いがけない質問に一瞬言葉に詰まったが、桜の表情は真剣そのものだ。元より休養を取る、というところから恭の後押しもあって二人で行くことにした旅行だったので、律の中に他の誰かと旅行に行くという選択肢はなかったのだが、桜にとってはそうではないのだろう。
「恭さんとか……ご友人と行かれた方が楽しかったんじゃないかなって……今日も私ばかり楽しんでしまって……」
「それは気にしないでって言ったでしょ。俺は桜が楽しそうだと嬉しいよ?」
「……本当ですか?」
「本当に。俺はなんていうか、こういう旅行を楽しむって感覚は、どうしても薄くなっちゃってるから。だから桜みたいに、楽しい! って楽しんでくれると、俺も引きずられてテンション上がる」
「……それなら、いいんですけど」
国内も海外もあちこちに行っては仕事仕事の生活をしていると、どうにもどこに行っても楽しむ、という感覚がなくなってしまいがちで。桜が楽しんでくれていれば、今はのんびりしていていいのだ、と思える。恐らく今の自分には「それ」が必要だ。仕事のことを忘れるために、楽しむこと。
「あと恭くんとどこか行くってなるとさすがに何か仕事っぽくない?」
「そうですか?恭さんのことだから仕事のことはきれいさっぱり忘れて遊んでそうですけど……」
「……それもそうか……」
「でもっ、今日の私は本当に私だけ楽しんでしまったので……!明日は律様と一緒に!楽しみます!」
「いや、だから……まあいっか」
何故か気合を入れている桜に、思わず笑ってしまいながら。ふあ、と漏れる欠伸ひとつ。吐いたせいで張りつめてしまった気が抜けてきたのだろうなと思いながら、よいしょ、とベッドの上に乗って。
――久しぶりに、朝までゆっくり眠れるかもしれない。何となくそんな考えが頭を過って、律は瞬く。
「明日もしっかり楽しむために、今日はもう寝るとしますか」
「はいっ。……おやすみなさい、律様」
「おやすみ、桜」