07:Aquatic Mirage
身体の奥まで、どろどろに溶かされてしまったような気がする。
冷静になると、やってしまったという気持ちが先立つが、あまり後悔はない。カナメはその軽薄さとは裏腹に、終始丁寧で優しかった。こうして他の女の子も口説いては己の虜にしてきたのだろうなと思うと、複雑な気持ちにはなったが。
どろどろになるまで甘やかされて――まるで、夢のような。
「ネネちゃん?」
「……あ」
「なーに、ぼーっとしちゃって。どっか痛い?」
シャワーから出てきたカナメが、ベッドの端に腰掛けてぼんやりしていたネネに首を傾げる。乱雑に髪を拭く姿も絵になるな、などと考えて、ネネは慌ててその考えを振り払った。
「大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
「ふーん? なーんだ、まだ物足りないかと思ったのにー」
「……あ。ねえ、痕つけたでしょ」
「うん。だめ?」
「……今更駄目って言っても付けた後だし……」
「あは。そだね、ごめん」
笑いながら、カナメはネネの唇に軽く口づけを落としてから、バスルームの方へと戻っていく。
――抱かれた後、シャワーを浴びながら眺めた鏡の中の自分は、とても幸せそうで。鎖骨の辺りに残された赤い痕が、先程までの出来事を現実だと教えてくれた。服を着ればぎりぎり見えない位置なのが、何ともカナメらしく感じてしまう。
それでも、ネネはカナメのことをほとんど知らないことに変わりはない。
解導の技術を持つ一般市民。恐らく、相当遊んでいる男。カナメという名前。ネネを気に入っているらしいこと。ネネに分かるのは、それだけだ。
もっと知りたいという思いと、これ以上はもう関わらない方がいいという思いが、どちらも交錯してせめぎ合う。
身なりを整えたカナメが再びバスルームから戻ってきて、ネネの隣に腰を下ろす。そのまま当たり前のように腰を抱かれて引き寄せられ、ネネは思わずカナメを見上げた。
「……もうしないからね?」
「えー、だめ?」
「だーめ」
「ザンネン。やっぱ一緒にシャワー浴びるべきだったかー」
ネネの柔らかな拒絶に、カナメはわざとらしくしょんぼりとした顔をして。それでも名残惜しそうに、再び口づけが落ちてくる。心地よい温もりを甘んじて受け入れながら、胸の奥がざわざわとする感覚。
「……ホテル取ってるでしょ? ネネちゃん。送ってくよ」
ゆっくりと唇を離し、代わりにこつんと額を合わせて、カナメが呟く。――随分と遅くはなってしまったが、荷物を置いただけでずっとホテルを留守にしているわけにはいかない。着替えや必要なものは、全て置いてきてしまっている。
この都市の熱に浮かされて、ここまで来てしまったけれど。
「……送ってくれるんだ、紳士だね?」
「あっは。そのまままた食べちゃうかもしんないけどねー?」
「ばか」
「名残惜しいけど、仕方ないっしょ?」
笑ったカナメの顔が、離れていく。腰からも手は離れていき、隣の温もりが遠ざかっていく。
立ち上がったカナメは、そのままネネに手を差し出した。その手を取って、ネネも立ち上がる。
「……ねえ、カナメ。あなた、明日も水路都市にいる?」
「ん-? ま、気分次第だけど。何で?」
「あの……私、明日の夕方まではこっちにいる予定で。その……」
何を言い出しているのだろうと思いながら、言葉が止められない。
離れがたい。ろくに素性が分からない相手に、そう思ってしまう。触れた体温が、ずっと、心地が良くて。
遊ばれているだけで。ただ、遊び相手として口説かれただけで。――それでも。
「……私に水路都市の案内、してくれない?」
「ん? オレでいいの、それ?」
「だってあなた、水路都市の女の子に詳しそうだったから。なら、都市にも詳しいかなって」
「まあ、確かに? 女の子が好きそうな場所とかー、口説くのにいいとこは知ってるけど?」
答えるカナメは、にやにやと笑っている。言い訳をしてみたところで、ネネが今カナメと離れたくないと思っているのは明白だ。
気恥ずかしくなって、ネネは目を逸らす。それに声を上げて笑ったカナメは、緩くネネの手を握りしめた。
「んじゃ、明日一日ネネちゃんはオレの恋人ね」
「……えっ」
「ネネちゃんはー、都市をオレに案内してもらえる。オレはー、ネネちゃんを一日恋人にできる。ウィンウィン! と」
「……えっと、それはつまり?」
「デートしよってこと。オレ、デートスポットしか分かんないしー。てか名目なんて、何でもよくない?一日恋人になってくれるなら、オレは明日もネネちゃんのもの」
いいでしょ、と続いた言葉は、甘い誘惑。
「……私が断らないの、分かってて、ずるい」
苦し紛れに呟いたネネの言葉に、カナメはまた、笑った。
翌朝。
荷物はホテルから送ってもらうよう手配し、チェックアウトして外に出ると、既にカナメが待っていた。おはよー、とひらひらと手を振っているカナメは、少し眠たげだ。
「おはよ。寝不足?」
「ん-。昨日ネネちゃんが可愛かったせい」
「ばかじゃないの……」
「ははっ。んじゃ、夕方まで水路都市デートと洒落込みましょうか?」
当然のように差し出された手を握れば、頬に軽いキスを落とされ。一日恋人ということは、一日中こんな感じになるのだろうなとそわそわしてしまう。
迎えに来る前にレンタルしてきたのだというボートに乗り、二人で水路に出る。心地良い風が吹き抜ける中、広がる石造りで統一された街中の景色は、やはり美しい。そこかしこで活気のある声が聞こえて、やはり違う都市なのだなと実感する。賑やかで活気がある都市も、美しくて楽しい。
「さーて、どこ行こっかなー」
「水路都市ならでは、ってところが見たいな」
「ん、おっけー」
「……ていうか、ボートの運転慣れてるのね」
動力源になっている術式に魔力を注ぐことで、ボートは駆動している。水の上を滑るように走るボートに、不快感はない。ネネの言葉に、カナメはにやりと笑う。
「あ、惚れちゃう?」
「あのねえ……」
「ま、女の子口説くのにボート、便利だからねー。こうして二人っきりだし?」
「動機が不純」
「ヤキモチ?」
笑顔のまま、カナメの手がネネへと伸びる。ボートの縁に掛けていた手をそっと外され、骨ばった指がするり、と絡められる。
一瞬どきりとしてしまったのは、昨夜のことを思い出したせいだ。熱い指先が体に触れた感覚を、鮮明に思い出してしまう。目の前を流れていく風景の美しさよりも、カナメのことで頭がいっぱいになってしまいそうで、ネネはゆっくりと息を吐いた。
――これは、一日だけの恋人デート。だから、勘違いをしてはいけない。
「このままネネちゃん攫っちゃおうかなー」
「ふざけてるでしょ」
「あっは。でも今日のネネちゃん、ホントに連れ去りたいくらいかわいーよ?」
「……もう」
それが例え、本心でなくても。可愛いと言われると、やはり悪い気はしない。遊ばれているなと思いながらも風景に視線を戻すと、ひょいとカナメがネネとの距離を詰めた。ぐらりとボートが揺れる。
肩が触れる距離で、じっとカナメが自分を見下ろしているのが嫌でも分かってしまう。いちいちどきどきしてしまって、心臓が持たない。
「ネネちゃん」
「……な、何よ」
「今日のオレ、ネネちゃんの彼氏。ねー、彼氏の顔見てほしいなー?」
ふざけたような口調ながら甘く優しい声につられて、ネネは恐る恐る顔を上げる。柔らかく笑んだカナメと目が合って、あ、と思った瞬間には口づけられていた。啄むようなキスの温度は、やはり暖かくて心地が良い。まるで、体の奥まで染み渡っていくかのような。
「……すぐキスしてくる……」
「えー? 嫌じゃないくせに」
「……嫌では、ないけど」
「へへ、素直でよろしい。……っと、目的地に着きましたよ、お姫様」
にい、と笑ったカナメが、そのままボートを停める。着いた先は、ネネが昨日一人で訪れたものよりも規模が大きい市場のようだった。大勢の人が、わいわいと行き交っているのが見える。
先にボートを降りたカナメの手を借りて、ネネも市場へと足を踏み入れる。かつん、とかかとが石畳を叩いて、涼やかな音が鳴った。
「いらっしゃいませ、水路都市の中央市場へー。ここ、美味しいレストランがあんだよね」
「……す、っごい……」
壮観、という他ない。所狭しと様々な食料品や置物、衣服や装飾品といったものが置いてある露店が乱立していた。色とりどりの世界が、奥まで続いている。
当然のように手を繋いで、カナメは歩き出す。その隣に並びながらも、どうしても露店に目移りしてしまう。
「ん。ネネちゃん、何か欲しーものある?」
「あ、そういうのじゃないけど……。でも、後でお土産とかは買いたいかも」
「旅行だもんねえ。あ、そいやネネちゃんにオススメのお店あるよ」
「……女の子が喜ぶお店?」
「ビンゴ。オレのこと、ちょっと分かってきたじゃーん」
「嬉しくなーい……」
むっとするネネに笑いながら、カナメが繋ぐ手手に力を込める。そのままこっち、と手を引かれ、向かった先はこじんまりとしたアクセサリーショップ。鮮やかな色彩の石と、シルバーやゴールドの細かな意匠が施された品々は、息を呑むほど美しい。
「綺麗……」
「でしょー。お土産もいいけど、旅の思い出に自分のもんも買いなよー?」
「あ……そっか」
モカや普段助けてくれるジュエルたちにお土産を、とは思っていたが、自分の物を買うことは考えていなかった。次にいつ水路都市に来ることができるかは分からない。そう考えると、自分に思い出の品を買うのは、確かに悪くない。
しかし、どれもこれも綺麗で、どうにも目移りしてしまう。困惑してカナメを見上げれば、小さく笑ったカナメがすっとひとつの髪飾りを手に取った。
ネネの瞳と同じアプリコットの色をした石が使われた髪飾り。それをネネの髪に当てて、うん、とカナメは頷き。
「すいませーん、コレもらっていいですかー」
「え、ちょっと」
「オレからプレゼント。絶対ネネちゃんにはこれが似合う」
「で、でも……」
「彼氏からのプレゼントって考えたら、変じゃないっしょ?」
「……う……ありがとう……」
実際、カナメが手に取った髪飾りは、見ていた中で気になったもののひとつでもあった。断る理由もなく、礼を言えば嬉しそうにカナメが笑う。眩しい笑顔に、それ以上の言葉が言えなくなってしまう。
店員とやり取りをしたカナメが、小さな袋を受け取って。それをはい、とネネに差し出してくれた。
「つけてくー?」
「……失くしたら、やだし。大事にする」
「あは。せっかく買ったんだしさー、ま、そのうち使って?」
「うん」
「じゃ、ごはん行こっか」
髪飾りの入った袋を、大事に仕舞い込む。それを見てから、カナメは再びネネの手を取った。当然のように絡まる指に、ぎゅっと力がこもる。
連れられた先は、テラスからの景色が美しいレストラン。振る舞われた料理は魚を中心としたもので、どれも絶品だった。屋台やホテルで食べた食事とはまた違う味わいに驚いていると、カナメが水路都市独特の料理なのだと教えてくれる。
食事の後は、市場で気になった店をひとつずつ散策していく。あちこちでお土産を買っていると、あっという間に荷物が多くなってしまった。カナメは荷物のほとんどを嫌な顔ひとつせずに持ってくれて、手慣れているなと感心してしまう。
そうしているうちに陽は落ちていき、タイムリミットは近づいてくる。再びボートに戻り、カナメは都市間移動のポータルへとボートを走らせる。繋がれた手が離れていくことを考えると、寂しさが募る。
「……ねえ、カナメ」
「ん?」
「……また、会えるかな」
ぽつりと漏らした言葉に、カナメは驚いたように目を瞬かせ。その表情をふにゃりと柔らかな笑顔に変えて、頷いた。
「会えるよ――運命の相手ならね」
都市間移動のポータルの向こう側に消えていくネネの姿を、笑顔で見送る。
そうしてその背中が見えなくなった瞬間、その表情は音もなく剥がれ落ちた。
「……つっかれた……」
踵を返して歩き去る足音が、冷たく石畳を叩き――先程までの甘い空気は、どこにも残っていなかった。