06:Fluid Border

輝序 06/刻 38
何だろう、昨日も思ったけど、今日もいつもと少し違う感じがした。気分がいいっていうか。
調子よくて嬉しいな。シロガネ特等も何も言ってこないから、ほっとする。
それにしたって、何回考えても分からない。あの男、何だったんだろう。どういうつもり?
また会う日が、来るのかな。


「シロガネ特等の経歴、ですか?」
「うん、そう」

 朝。いつも通りスケジュールを伝えに来たモカに、忘れないうちにと問い掛ける。イオが専属デコーダーとなって、既にそれなりの時間が経っている。今更と言えば今更だ。

「この間、シロガネ特等に何でデコーダーになったのか聞いてみたら、経歴調べれば分かるからって感じで教えてもらえなくて」
「確かに、志望動機は最初に聞かれますからね……。分かりました、資料取り寄せておきますね」
「モカは何か知ってる?」
「ネネさんに紹介する前に簡易な経歴は私も見たので、少しくらいは。とはいえ、試験関連を全て首席で突破されていて、完璧すぎる経歴で、この人本当に同じラスターかな……って気持ちになりましたけど……」
「……そんなにすごいの?」

 はい、とモカが頷く。通常一等から三等までしかないデコーダーにおいて、唯一特等の資格を持つ男。ネネの解導デコードを毎日行っても疲労ひとつ見せないのだから、その特例の座を射止めるに相応しいのだろう。
 経歴を知ったからといって、イオの何が分かるわけでもない。それでも少しくらい、イオに抱いてしまう苦手意識を薄めるきっかけになれば。イオ自身が何も話すつもりがないのなら、ネネが調べる他ないのだ――モカに丸投げすることにはなるが。

「さて、今日のネネさんのスケジュールですが」
「はーい。今日は何?」
「お休みです」
「……ん?」
「今日明日と、ネネさんは休暇です。緊急時以外、一切術式構築はしないという条件で、シロガネ特等の解導デコードも不要と確認を取りました」
「……えーっと?」

 突然休暇と言われても、事態が呑み込めない。そう言えばこのところ、モカはよくネネに休暇を取った方がいいという話をしていた。それにネネが頷かないものだから、強制的に休暇を取らせることにしたのだろう。
 急に二日も休んでいいと言われても、何をすればいいのか全く分からない。戸惑うネネに、モカはわざとらしい大きな溜め息を吐き出した。

「そもそも! ネネさんは特級ジュエルコア・プロトコルになられてから働き過ぎです! 他の都市の特級ジュエルコア・プロトコルの方々はもっと休まれてますよ? 魔力熱クラックの負担は馬鹿にならないんですから」
「えと、でも」
「多少のことなら一級ジュエルエリア・デザイナーでも対応できます。だから、もうあまり気負わないでください。もし休暇と言われるのが嫌なら、他の都市の視察にでも行かれてはいかがでしょう」
「……視察……」

 モカの言葉に、ぐうの音も出ない。ネネ自身もまだ一級ジュエルエリア・デザイナーだった頃、前任の特級ジュエルコア・プロトコルの手伝いをしていたこともある。そうして様々な術式に触れた経験があることで、今のネネがあるのだ。
 ――頑張らなければ。確かにそう思い込み過ぎているきらいは、あるのかもしれない。
 特級ジュエルコア・プロトコルが違えば、都市基盤は全く違うものになる。ネネは基本的に過ごしやすく、自然と都市機能が調和した快適な街を目指して術式を組んでいるが、他の特級ジュエルコア・プロトコルの考え方は様々だろう。別の都市を見て回るのは、ネネ自身良い勉強になる。

「……じゃあ……行ってみよう……かな、視察」

 ぽつりと呟いた言葉に、ぱっとモカの表情が輝いた。


 数時間後。都市間を移動するポータルを抜けて、ネネは隣接する都市を訪れていた。

「……す、っごーい……!」

 ネネの目の前に広がっているのは、水上都市。大きな水路を中心として構築されており、そこかしこにボートが浮かんでいる。建物は基本的に石造りのようで、重厚な雰囲気を放っていた。
 水が多い都市で水辺は涼しいこともあり、気温調整なのか、日差しはネネの都市よりも少し暑い。行き交う人々は皆薄着で、どこか解放的だ。
 一泊二日の視察旅行。どこに行くかも何も決めていないが、得るものはきっと多い。
 モカが手配してくれたホテルに荷物を預け、ネネは早速都市の散策を開始した。この都市に移動用の術式は配備されておらず、移動手段は徒歩か、魔力で駆動するボートということになる。少し不自由なようにも思えたが、美しい景色をゆっくりと味わってほしいという思いの表れなのかもしれない。実際、この都市は観光都市としても有名だ。ラスター達には当たり前の日常のようで、都市柄なのか、おおらかなラスターが多いように思えた。

「お嬢さん、水路都市マリナは初めて?」
「あっ、はい。調和都市ガーテから旅行で来たんです。……あのっ、オススメの場所とかあったら教えてほしいんですけど」
「お。ここに来たからには、市場の屋台のごはんだよ。美味しいからね、絶対食べていって」
「あと外れにある滝かな。絶景だよ」
「絶景と言えば……、あったあった、これ地図ね。この湖は夕暮れの景色が最高だから、時間が合えば見に行ってほしいな」

 ――少し話してみただけで、よく分かる。
 住人である彼らにとって、この都市は自慢の都市なのだ。あそこも、ここも、と多くの場所を勧められ、もらった地図はあっという間に印ばかりになってしまった。余すところなく見てほしいのだという思いが感じられて、胸が温かくなる。
 果たして、ネネの都市もそうだろうか。住んでいるラスターたちにとって、自慢の都市だろうか。そうであればいいな、と思ってしまう。頑張りたい、と思わせてくれる。
 勧められた屋台の食事に舌鼓を打ち、近くから順に勧められたスポットを回っていく。どこも美しい景色で、ネネの都市とは違う魅力に溢れていた。

「……こういうのも、いいなあ……」

 夕暮れ。
 絶景だと教えてもらった湖のある区画。まるで湖に陽が沈んでいき、湖を紅く燃やしているかのように見える光景は、確かに一見の価値がある。この景色を実現するために、どれだけ緻密な術式が編まれているのだろうか。
 都市の利便性だけではない、ジュエルが創り出せるもの。ネネが創り出すにはそぐわないが、皆それぞれの理念を持って、日々術式の安定に尽力しているのだろう。
 このところ、都市の機能を維持することだけを考えているような気がする。もっとより良く、ラスター達が穏やかに暮らせるように。そういう改善を考えていくのも、いいのかもしれない。
 視察に来たのは正解だった。モカには感謝しなければと思いながら、大きく伸びをして。

「――あー。こーんなとこで、何してんの?」
「……へ」

 唐突に背後から声を掛けられて、振り返る。なんで、と小さく声が漏れた。悪戯っ子のような笑みを浮かべて、ひらひらとネネに手を振っていたのは――カナメ。
 どうしてここにいるのか。たまたま観光に来ていたというのは、できすぎている。

「……何でいるの? ストーカー?」
「あっは。たまたまー。運命だとか思ってくんないの?」
「あんまり思いたくないな……」
「さみしっ。オレここよく来るんだよねー、女の子口説くのに最適なスポットじゃん?」
「……あ、そうですか……」

 楽しそうに応じながら歩いてきたカナメは、当然のようにネネの隣に立った。反射的に一歩逆方向に足を動かして逃げると、あっさりと距離を詰められる。どうやら逃がしてくれるつもりはないらしい。
 ――次は逃がさないからね。
 言われた言葉が、耳の中でリフレインする。まさかこんなに早く再会するとは、思ってもいなかった。

「ネネちゃんはー、一人で旅行?」
「……少し休め、って怒られて。視察という名の休暇……?」
「まっじめー」
「……そういうあなたは、本当は何でここにいるの? 本当はこの都市の住人とか?」
「んー、この間まで世話になってた女の子にフラれちゃったから、新しいコ探しに? 水路都市マリナにいると結構解放的で情熱的なコが多くてさー」
「ああ……」

 相当遊んでいるのだろうな、というのは何となく分かる。前の時も、女の声がカナメの名を呼んでいた。文句を言いながらも女が引き下がっていたことを考えると、いつものことだったのかもしれない。
 ちらりとその顔を見上げれば、カナメはネネを見下ろしていた。思いがけず目が合って、思わずたじろいでしまう。
 ――綺麗な顔立ちの中に一際美しく光る、アイオライトの瞳。吸い込まれそうになるその色。

「で。ネネちゃんはー、解放的で情熱的になっちゃったり、しない?」
「はあ?」
「あ、だめか。ネネちゃん彼氏持ちだったね。この間の人、お迎え早かったもんなー」
「……あの人は、そういうのじゃ、なくて」
「え。マジ? じゃあもしかして、ネネちゃん彼氏いない?」
「……いなかったら、何よ」
「こんな可愛いコほったらかしてんの? 周りの男、見る目ないねー」

 楽しそうに笑って、カナメの視線が外れる。その目に映るのは、陽が暮れて少し暗くなってきた湖。先程まで燃えるような赤に輝いていた湖は、徐々に濃紺を映し、星々の輝きを煌めかせ始めている。
 日中は日差しで暖かったが、さすがに冷えてきそうだ。上着の類はホテルに置いてきてしまった。夕飯はホテルで、と考えていたので、冷えるような時間になるまで外にいるつもりはなかったのだ。

「……じゃあ、私そろそろ戻るから……」
「待って」

 踵を返そうとして、しかしそれは叶わなかった。カナメの手が、ネネの手首を掴んでいる。再びネネに向けられた表情は、もう笑ってはいない。
 真剣な表情でじっと見据えられて、どくんと心臓が跳ね上がる。

「……なに?」
「オレさー、割とマジでネネちゃんのことイイなって思ってるんだけど」
「……だから何よ」
「一回だけ、オレと遊んでみない?」
「遊んで、って……わっ」

 ぐい、と手を引かれて、気付けばカナメの腕の中。慌てて離れようとしても、その腕はびくりとも動かない。
 ふわりと香る、煙草のにおい。温かな体温に包まれて、ひどく安心してしまう。

「ネネちゃんさー、オレのこと、嫌じゃないでしょ」
「……いや、あの」
「この間も、今も、本気で抵抗しないじゃん」
「う……」

 ――反論が、できない。
 抵抗していないわけではない。今も、離れようとはした。それでももう、逃げられないと諦めている。
 この間は、魔力熱クラックが辛かったから。
 今は、カナメの腕の力が強いから。
 そう言い訳をして、逃げるのを諦めている。このまま捕まってしまうのは怖いのに、どこかでこのままでいいと思ってしまっている自分がいる。

「せっかくバカンスに来たんでしょ? オレと一緒に悪いコトしちゃおーよ」
「……悪い、ことって」
「真面目に頑張ってんだから、ちょっとくらい羽目外したってバチ当たんないっしょ」
「……いや、でも」
「ネネちゃん、今日は魔力熱クラックもなさそうだし。――純粋に楽しめると思わない? どう?」

 くすくすと、カナメが笑っている。甘い囁きに、くらりと溶けてしまいそうな熱が体に生まれる。魔力熱クラックのそれとは違い、身を任せてしまいたくなる、熱さ。
 今日のネネに、魔力熱クラックはない。それは事実だ。だから、カナメはネネに解導デコードをしない――する必要がない。
 ちらりと脳裏を過ったのは、イオのこと。この間の軽い解導デコードに、イオは気付いていないようだった。解導デコードされなければ、イオに露見することはないだろう。何よりプライベートなことに、専属デコーダーは関係がない。
 だからこれは、ネネが頷くかどうか。ただそれだけ。
 ぎゅ、とカナメの服の裾を握る。恐る恐るカナメを見上げれば、優しい笑顔と目が合って。
 もう、逃がしてはもらえない。

「……いい?」

 カナメの甘い問い掛けに頷いてしまったのはきっと、この都市の空気に感化されたからだ。