05:Bitter Echo
身体が怠い。
少し前までは、それが普通だった。ネネの魔力熱全てに対処できるデコーダーがいなかったから。それでも歴代の専属デコーダーたちは皆、自分の体調を崩してでもネネの魔力熱を取り除くために尽力してくれていた。だから怠くても、日々は満たされていたのだ。
――なのに。どうして今は、この体の怠さが空虚に思えるのだろう。
「……ん……」
いつの間に眠っていたのか、それとも気を失っていたのか。ぱちぱちと瞬いて目を開くと、視界に飛び込んできたのは見知らぬ光景。整ってはいるがどこか雑然としたものを感じる室内にあるベッドに、ネネは寝かされていたらしかった。妙にふわふわとしたマットレスの感触が心地よい。
身体は何とか動かせそうだ。ゆっくりと体を起こして、注意深く周囲を見回し。
「あ、オハヨー、ネネちゃん」
「……カナメ……?」
「ちゅーしたらぶっ倒れちゃったから、びっくりしたじゃーん。とりあえず休めるとこー、と思ってホテル連れてきちゃった」
部屋の一角。大きめのソファの上でふんぞり返るようにして、カナメが座っていた。ひらひらと振られた手、指先には煙草が挟まっている。
どうやら、倒れたネネをここまで運んできて、寝かせてくれていたらしい。
「……いや何でいきなりキスするのよ……前もだけど……」
「えー? ネネちゃんかわいーんだもん。オレ結構タイプよ」
「馬鹿?」
「あははっ。でも、気持ちよかったでしょ?」
「……気持ちいいっていうか、あれは」
――解導だ。
一般市民にできるわけがないことを、この男は涼しい顔でやってのけていた。一体何故そんなことができるのか、全く分からない。身体は怠いが多少動けるようになっているということは、やはり解導されたのだろう。
カナメの手が動いて、煙草が灰皿の上で乱雑に消される。立ち上がったカナメは、そのままネネがいるベッドの上へと膝を乗せる。
「じゃ、続きしよっか」
「つ……続きって」
「中途半端でまだしんどいっしょー? ――そのついでに一回抱かせてよ。ネネちゃん見つけて女の子フッちゃったから、予定狂っちゃってさ?」
「だ、抱かせ……?」
「解導できもちよくなって、ついでにもっときもちよくなろーよ、ってお誘い。だめ?」
アイオライトの瞳が、妖しく笑う。
カナメの指先が、そっとネネの髪に触れた。緩いウェーブのかかったミルクティーブラウンの髪の流れに沿って、その指先が動く。反射的にびくりと体を強張らせたネネに、くすくすと笑うカナメは楽しそうだ。至近距離にある美しい顔立ちに、その中で光る瞳に、魅入られる。遊ばれているのだろうと理解はできても、体が動かない。
「……嫌に、決まってるでしょ、そんな……」
「あー、ネネちゃん彼氏持ちだもんね」
「そうじゃ、なくて」
「ん? あ、もしかして遊んだことない? オカタイ感じ? かわいーのに勿体ないな」
「……さわんないでよ」
「えー、やだ」
そっと首筋に触れられて、腰が引ける。その一瞬でぐい、とカナメが更に距離を縮めて、思わずネネは目を閉じた。
目を合わせていたら、逆らえなくなる。離れてほしいのに、もっと触れてほしくなる。
――カナメの指先の温度が、心地よくて。
「オレに任せてくれたらきもちよーくしたげるよ?」
「……やだ……」
「ほんとに?」
「……おねがい、だから、はなれてよ……」
「ふーん」
「ひゃっ……!?」
ふっと耳元に吐息を感じて、体が跳ねる。驚いて目を開けば、にやりと笑うカナメの顔が、更に近くにあった。ばくん、と心臓が爆発しそうな音を立てる。
「ネーネちゃん?」
「……も、本当に」
「だめ?」
「……だめ……」
「じゃあちゃんと抵抗しなきゃ。よく知らない男の前でぶっ倒れて、こうしてベッドの上で大人しく触られてるなんて、食べてくださいって言ってるようなもんじゃん?」
するり。カナメの指が首筋から離れて。代わりに、ネネの手の上に重ねられる。指先が触れ合って、熱い。
じっと見つめられると、目が離せない。それでも後退ろうとすれば、ぐ、と手を握られて。
――こん、こん。
場を切り裂いたのは、ノックの音。はっとしたネネに笑いながら、カナメは大きく両手を上げた。
「ざーんねん、時間切れかー」
「……ッ」
ネネの頬に一瞬触れるだけのキスを落としてから、カナメはベッドを降りた。はいはーい、と軽い調子の返事を返しながら、部屋の入口へと歩いていく。
途端、爆音でネネの心臓が鼓動を刻む。完全に場の空気に呑まれてしまっていた。あのまま続けられていたら、自分はカナメを拒めただろうか。――正直、自信がない。
部屋の入り口で、カナメは誰かと話しているようだった。誰が来たのだろうか。ふと気になって、ネネはそっとベッドを降りた。怠さも熱さもあるが、歩けないほどではなさそうだ。足元がふらつかないよう注意しつつ、部屋の入り口を覗き込んだ。
カナメの背中越しに見えた顔に、息を呑む。
「……シロガネ、特等……」
「――ああ。お身体は大丈夫ですか、アザミ特級」
思わず口から漏れた名。それは来客――イオの耳にも届いたらしい。すっと動かされた視線が、ネネを捉える。同時に振り返ったカナメがネネの姿を認めて、イオを通すようにどうぞ、と体を動かした。ぺこりと頭を下げたイオが、部屋の中に入ってくる。
急に現実に引き戻される。先程までのやり取りが、嘘のように。
「調子が悪そうなジュエルを保護したと御連絡をいただいて足を運んだのですが、やはり貴女でしたか」
「そう……あの、術式の修復で、現地対応に出たから……」
「担当官からお伺いしました。現地対応前に私に連絡をいただかなければ困ります。重度の魔力熱が発生することは分かっていたでしょう」
「……ごめんなさい」
確かに、イオと現場に向かっていれば、すぐに魔力熱には対応できた。術式の修復が完了するまではイオも時間停止の影響を受けただろうが、修復後に術式が正常化するまで、それほどラグは生じていなかった。イオはネネの専属デコーダーだ、何を差し置いてでもネネの身の安全を守る責務がある。
解導を受けたくない。イオに対する苦手意識が、対応を後手に回し、今回の事態を招いている。
「歩けますか」
「……だいじょうぶ。枢軸局に帰るくらいなら、何とか」
「承知しました。では戻り次第急ぎ対処しましょう」
ネネの様子に、嘘ではないと判断したのだろう。頷いたイオは、再度カナメの方へと歩いていく。ネネとイオのやり取りを眺めていたらしいカナメが、にこりと笑う。ネネに向けるような笑顔ではなく、どこか貼り付けたような笑い方に見えた。
「保護の御連絡をいただき、ありがとうございました」
「んー? いえいえ。市民としては当然デショ」
「後日御礼をさせていただきたいのですが、御名前と御連絡先を教えていただけますか」
「いーよ、そんなの。そんなことより、早く連れて帰ってあげないの? しんどそーじゃん」
――名乗る気がないのだと、すぐに分かった。
何故か一般市民として生活しているらしい、デコーダー。イオの現在の態度から考えても、カナメは枢軸局に登録されているデコーダーではないのだろう。自分がデコーダーだということを知られたくない可能性は、高い。
カナメの返答に、イオは特に疑問を抱かなかったらしい。そうですか、と頷いて、ネネを振り返る。
「手を貸しますか」
「……いい、歩けるから。……あの、ありがとう」
イオの問いには首を振り、カナメに視線を向けて礼を口にする。一体どういうつもりかは分からないが、枢軸局に連絡してくれたのは間違いない。
――どうにも、カナメという男はよく分からない。
ネネを助けた理由も、ホテルに連れ込んだ理由も、そして先程までの行動も。一見矛盾しているようにも思えるが、一体何を考えているのだろうか。
ホテルの部屋を出る。扉が閉まる直前、不意にカナメの声が聞こえた。
「――次は逃がさないからね」
枢軸局に戻り、すぐに特別処置室へと入る。使用するため準備を始めるイオを横目に、ネネは椅子に腰を下ろした。歩けないほどではないとはいえ、魔力熱がつらいのは事実だ。このところは毎日綺麗に排熱されていたからか、どうにも魔力熱に対する耐性が弱くなっているのではないかと思ってしまう。
「……ねえ、シロガネ特等」
「何でしょう」
「あなたって……何でデコーダーになろうと思ったの?」
「その質問に答えることに、何か意味はありますか」
「……意味は、ないかもだけど」
ただ、聞いてみたいと思っただけだ。
イオの解導を受けるのは怖い。魔力熱を排熱してもらう代わりにあの冷たい魔力を受け取り、根こそぎ奪っていかれるような感覚に囚われるのは億劫で、できるかぎり受けたくないというのがネネの本音だ。
それでも、少しでもイオのことを知れたら。もう少し信頼関係を築くことができたなら。少しはイオに対する恐怖心が、その解導に対する抵抗感が、薄れることはあるかもしれない。
「枢軸局の担当官に聞けば、私の経歴などすぐに調べがつくでしょう」
「あーっと……そういうのじゃなくて……」
「デコーダーの志望理由も、調べれば分かることです。わざわざ今私に聞く必要がありますか」
「……だってそれって、嘘かもしれないでしょ。あなたに直接聞いた方がいいかなって……、あんまり話したくないことだったりする?」
「いえ、別に。しかし、貴女に話す必要性を感じません」
「……そっか」
本人が調べればいいと言うなら、調べてもらう方が早そうだ。知れば少しはイオのことが理解できるだろうか。
それ以上話はないと判断したのだろう、イオが術式を起動させるのが見えて、自然と体が強張った。
――カナメは間違いなく、僅かながらネネに解導を行っている。
そうでなければ、歩ける程度にまで回復しているのはおかしい。モカを呼んで回収してもらうしかないと考えるだけの変調はあった。何の解導もなしに動けたとは思えない。
となれば、イオが解導を行えば、きっとそれは露見する。以前のように。
「触れますよ」
「ちょ……ちょっと待って」
「何故です」
「あの……」
どう言えばいいのか分からない。そもそも、信じてもらえるだろうか。保護の連絡をした男は一般市民だが、しかし解導の技術を持っているなど。
言い淀むネネに、待つのは時間の無駄と判断されたのだろう。小さな溜め息と共に、イオがネネの首筋に触れた。魔力熱が少しずつ排熱されていき、冷たい魔力がネネを満たしていく。
身体の自由は利きそうにないことから考えても、前のようにイオの魔力が馴染まないということはなさそうだ。いつもと変わらない感覚に耐えながら、ネネはそっとイオの顔色を窺う。見えたイオの表情は、先程までと変わらず冷ややかだ。これならバレていないのではないかと思いながらも、溶けるように消えていってしまう『何か』に唇を噛みしめて。
「――終了です。お疲れさまでした」
「……ありがとう」
「不調はありますか」
「ない……、と思う」
「結構です。それでは、今日はこのまま休んでください。また明日」
「……う、うん」
思いのほかあっさりしているイオに、拍子抜けしてしまう。ネネから離れ、部屋の片付けを始めるイオの様子はいつもと変わらない。
妙な違和感を覚えはしたものの、問う理由も言葉も見つからず、ネネはそのまま部屋を後にし。
――扉が閉まった後に響いたのは、部屋の壁を殴る音。
「……あの男か……」
イオの瞳に宿った感情を、ネネは知らない。