03:Residual Trace
輝序 06/刻 21
今日から日記をつけようと思う。少しでも思い出すきっかけになるように。
とはいえ、人に見られて困ることは書かない方がいいのかもしれない。難しいな。
今日はチサさんのお店に行った。大好きなアイスカフェラテ、何だか水みたいに感じてしまって、ちょっとショックだった。疲れているのかもしれない。今度美味しいケーキの約束をしたから、そのときにはそんなことがないといいんだけど。
都市で会った男のことは、ちょっと調べてみた方がいいのかな。解導ができるのに一般市民って、そんなことあるのかな。モカちゃんに聞いたら、何か分かるかも。明日の朝、聞いてみよう。
翌朝、身支度を整えているとノックする音が聞こえて、ネネは入り口を振り返った。はあいと返せば、失礼しますと入ってきたのは枢軸局の担当官。
艶やかな黒のストレートロングヘアに、薄いグレーの瞳を持った枢軸局の制服姿の女性、スズシロ=モカ。ネネがまだ二級ジュエルだった頃から、ネネの担当官として様々な手助けをしてくれている。年齢がそれほど離れていないこともあり、気兼ねなく話せる相手だ。
「おはようございます、ネネさん。本日のスケジュールの確認に来ました」
「はいはい。水の流れが滞ってる場所があるから、メンテナンスが必要だって話だったよね」
「そうですね。あと新しい商業施設の案が挙がってます。担当の一級ジュエルが、ネネさんの助けも必要だし意見を聞きたいとのことだったので、打ち合わせにご参加いただけますか?」
「了解」
「あと、本日はシロガネ特等の解導日ですね。とはいえ昨日は休暇でしたし、本日もスケジュール的にそれほど魔力熱は溜まらないのではと思います。明日に延期されてもいいんじゃないかと思いますが……どうなさいますか?」
「……あー……」
イオが解導のスケジュールを二日に一度にしているのは、ネネが日々術式を編んでいるから、という理由が大きい。モカの提案は単に、昨日は休暇で術式を編んでいないのだから、というものであることは分かっている。術式を編まず、日々の生活で魔力を使うだけなら、魔力熱は微々たるものだ。
――とはいえ。
昨日、カナメに解導を受けたことを思い出す。廃棄区画で発生した魔力熱は、あのとき根こそぎ排熱された。今朝はいつもより調子が良いのではないかと思ってしまうほどだ。
イオの解導を受ければ、この感覚はなくなってしまう可能性が高い。どうせならもう少し、この調子の良さを大事にしておきたかった。
「そうだね、1日延期してもらおうかな。今日は調子良さそうなの」
「あ、やっぱり。いつもより顔色が良さそうだなと思ってたんです。昨日の休暇、楽しまれたんですね」
「ああ……そう、なのかも?」
「ふふ、よかった。では、本日の解導は延期ということで。シロガネ特等には私からお伝えしておきますね。それでは」
「あ、待ってモカ」
「はい?」
立ち去ろうとしたモカを、慌てて引き留める。モカには他にも担当しているジュエルがいる、長く引き留めることはできない。だが、どうしても聞いておきたいことがあった。
「あの……さ、モカって元々デコーダー志望だったって言ってたよね」
「え、はい。それがどうかしました?」
「デコーダーじゃない一般市民が、解導を使える、って有り得る……?」
「いえ、絶対にありません」
ネネの問いに、モカは即答して首を横に振った。考えることも悩むこともなく、はっきりと。
「絶対?」
「絶対です。というか、ネネさんもある程度御存知じゃないですか? 解導の技術を学ぶ時点で、枢軸局への登録が必要です。登録したラスターにしか解導の技術は開示されません。私みたいに諦める人の方が多いですけど、それはそもそも解導が難しすぎて習得ができなかったからです」
本当に難しいんですよ、と続けたモカの言葉に、ネネは曖昧に頷いた。確かにそんな話を聞いた覚えがある。
ラスターは、ジュエルが構築した術式に魔力を流し込み、その術式を使用する。つまり魔力を流すことはできても、受け入れているわけではない。解導が特殊なのは、ジュエルに魔力を流し込むだけではなく、魔力熱を抜き取って処理するという循環が必要になるからだ。
デコーダーを志望する者は多いが、その大半が技術を習得できずに諦めているらしい。となればやはり、一般市民が解導を行えるとは考えにくい。
カナメ。名前だけ名乗って去っていったあの男は、枢軸局で解導を学んだのだろうか。学んだ上でデコーダーにはならなかったというのは、有り得る話だろうか。
ネネの急な問いに、モカはふと不安を覚えたらしい。その表情が、みるみるうちに曇っていく。
「……す、すいません、私がシロガネ特等を紹介したばかりに……もしかしてネネさん、一般市民にデコーダー候補を探しに行こうとか、そういうこと、考えていらっしゃいましたか……?」
「え? あっ、いや、そういうことではないんだけど」
「本当です……? あの、一応、この輝末にはデコーダー昇格試験もありますし、何人かフリーの一等デコーダーが来るはずですから、ひとまずそこまでお待ちいただけると……」
「うん、ありがとう。ごめんね、無理言ってて」
代わりが見つかり次第、イオとの専属デコーダーのパートナーシップは解消する。
その約束は、あの日イオが承諾した通り、モカにも伝えられている。だがそうそう空いているデコーダーなどいない。一等デコーダーともなれば尚更だ。かなりの技術が要求されるので、デコーダーになれても上に上がれない者は多い。上に上がればジュエルの数も必然的に少なくなるので、バランスとしては合っているのだが。
何となく、カナメのことをモカに話すのは憚られた。頼めばデータベースの照合はしてくれるだろうが、カナメが何者かということが説明しにくい。そもそも廃棄区画相手に色々と試した結果、魔力熱で動けなくなったなどと報告すれば、こっぴどく叱られて外出禁止を言い渡されかねない。あまつさえ謎の男にキスされて解導を受けたなど、口が裂けても言いたくはなかった。
特別処置室の術式の力も借りずに単独で、ネネの魔力熱の解導を行った。
それほどの腕を持ちながら、一体どうやって一般市民として生きているのだろうか。
「ネネさん、シロガネ特等の解導受けるようになってから、あまり元気がないので……やっぱり心配で。私、絶対早く次の専属デコーダー候補見つけますからね!」
「あはは、うん。頼もしいな、お願いします」
「いやでも本当に、私がもうシロガネ特等しかいないと御紹介したばかりに……」
「モカは私の為を思って紹介してくれたんだから、気にしないでいいの」
「はい……」
肩を落として見るからにしょんぼりとしてしまったモカに、思わず笑ってしまいながら。
――本当に、一体カナメは何者なのだろう。どうしてもそのことばかり、考えてしまうのだった。
翌日。
仕事を終え、魔力熱で重い身体を引きずりながら、ネネは特別処置室へと向かっていた。大規模術式を編む予定はなかったのだが、魔力干渉の多い区域で重力障害が発生したため、その対応に追われていたのだ。過度の混雑は術式を不安定にしてしまいやすい。先に混雑が予想される場合は事前に強化するなどの対策を取るが、どうしてもイレギュラーは発生するものだ。
気が重いな、と思いつつも特別処置室の扉をノックする。聞こえてきたどうぞ、というイオの返事は、いつもと変わらず冷たい。
「……どうも、シロガネ特等。今日もよろしく」
「思ったより魔力熱があるようですね。どうぞお掛けください」
動けないほどではないが、魔力熱はここ最近ではあまりないほどに溜まってしまったのは事実だ。イオに促されるまま、ネネは椅子に腰掛ける。
――ふと考えたのは、廃棄区画のこと。
あの場所の魔力の流れを読もうとした。残存しているかもしれない術式の痕跡を探した。短時間の出来事だったはずだが、あのとき生じた魔力熱の量は相当なものだったように思う。実際、助けてもらわなければあの場所から動くことはできなかっただろう。あのまま続けていれば確実に、結晶化を引き起こすほどのものだった。
どうしてそんなことをしようと思ったのか、ネネ自身にも分からない。ほとんど衝動的だったように思うが、廃棄区画自体にそうさせてしまう何かがあるのだろうか。やはり近づかない方がいい場所であることは、確かなのだろう。
考えているうちに、イオは特別処置室の術式を起動させていた。いつものように首筋に触れられて、びくりと体が跳ねる。
いつも通り、イオの解導が発動し。
「……?」
珍しく、イオの表情が怪訝そうなものに変わる。違和感を覚えたのは、ネネも同じだった。
魔力熱が排熱され、いつもであればそれ以外も消え失せていく感覚に囚われる。だが今回は、イオの冷たい魔力を流し込まれても、どこか上手く馴染んでいかない。そんな風に感じてしまう。
――もしかして。
思い当たったことに、ネネの思考が止まる。最近変わったことと言えば、廃棄区画の魔力に触れたこと。そして、カナメの解導を受けたこと。
カナメの蕩けるような熱い魔力は、恐らくまだネネの中に残っている。そのことが、イオの解導に影響を及ぼしている可能性は否定できない。
「――アザミ特級。前回の解導の後、誰かの解導を受けましたね?」
解導を続けながら、イオが問う。それは問いというよりも、ほぼ断定と言っていいだろう。確信を持った、問いかけ。
「……私を、解導できるデコーダーがいないの、知ってるくせに」
――イオに、カナメのことを話したくない。
その思いが先だって、咄嗟に口から出たのはそんな言葉だった。言ってしまってから、しまったと唇を結ぶ。
イオの魔力を流し込まれると、ネネの身体は一時的にその魔力に支配されて、ほとんど動けなくなる。当然、話すこともままならない。まさか話せるとは思っていなかったせいで、油断していた。
目の前のイオの赤い瞳が、すうと細められ。その手が、首筋から離れていく。
「……ならばアザミ特級。私の解導が上手くいかないのは、私の不調の可能性があるとおっしゃりたいわけですね」
「わ、分かんないけど……。でも、誰にでも調子が悪いときくらい、あるんじゃないの」
「そうですか」
ふ、とイオの口から吐き出される小さな溜め息。ネネが誰かに解導を受けたかどうかを言うつもりはない、と判断したのか、その瞳の温度が一段と下がり。
「……ッ!?」
「御冗談を。――勝手をされては困りますね。今貴女の専属デコーダーは、私です」
「ゃ……あ……っ!?」
再びイオの手が首筋に触れたと思った瞬間、全身が凍てついたのではないかと思えるほどの冷たい魔力が、ネネの身体を支配していく。何もかも、根こそぎ削り取られていくような錯覚。
それは、今までの解導とは比にならない。根底から魔力を入れ替えられているのではないかと思えるほど、徹底的な解導。魔力熱の欠片ひとつ残すことは許さないとでも言うような。
口を開こうとしても、唇が動かない。声が出ない。冷たい魔力は、ネネの声さえ凍てつかせている。
怖い。
生まれたのは確かな恐怖。その感情に呼応するかのように、意識が遠のいていく。視界が真っ白に、染まる。
「――貴女は黙って、私の解導を受けていればいいんです」
世界が白く染め上げられる直前。
怒りを滲ませたような、イオの声が聞こえた気がした。