02:Invisible Heat
イオがネネの専属デコーダーとなって、気付けばひと月が経過していた。
休暇の日、久しぶりにネネは街中へと足を運んでいた。休暇とは言えども、都市に何か緊急事態が起きた場合を考えると、都市外へ遊びに行くことはできない。それでも街中を歩くのは気分転換にもなるし、今後修正が必要な術式を探したり、確認することもできる。
訪れたのは、行きつけのカフェ。からん、と涼しげなドアベルの音に、カウンターの奥に立っていた店員が振り返った。
「いらっしゃいませ、ネネちゃん。久しぶりね」
「久しぶり、チサさん」
店員――ササミヤ=チサ。彼女とは、ネネがまだジュエルになる前からの付き合いだ。子供の頃に近所に住んでいたチサは、ネネにとっては姉のような存在だった。そして、それはジュエルになった今でも変わらない。
「どうぞ、座って。アイスカフェラテでいい?」
「あ、うん! お願いします」
「最近忙しかった? あまり連絡もなかったから、少し心配してたの」
「あはは、ちょっと色々あって……」
忙しかった、と言うと語弊がある。仕事量はいつも通りだ。
それでも、ひと月前までは充実した日々を送っていたはずなのに、何故だか最近は妙に疲れてしまう。誰かと話すことも少なくなり、仕事が終われば自室で眠ってしまうことがほとんどだ。それでも何をするにも億劫で、これではいけない、と外出を決めたのが今朝のこと。
どうぞ、と差し出されるアイスカフェラテ。チサが作ってくれるまろやかで少し甘いカフェラテは、ネネの大好物だ。いただきます、と笑って口に含んで。
「――……」
「……ネネちゃん?」
「……久しぶりに飲むと美味しすぎてびっくりしちゃった……」
「ええ、本当?」
「うん。チサさんのカフェラテ、大好き」
笑いながら、アイスカフェラテを口に含む。怪訝そうな表情のチサを、誤魔化せる気はしない。
アイスカフェラテの味を、感じない。まるで真水を飲んだかのような感覚に、面食らう。思い返せばこのところ、食事の味もあまり感じていない気がする。
何より、アイスカフェラテの冷たさが気持ち悪い。まるで解導を受けているような、嫌で嫌で仕方ない不快感。それに気付いて、ネネは思わず首元を擦った。
休暇の日を除いて、二日に一度、イオの解導を受け続けている。
あの赤い瞳と同じ温度の冷たい魔力を流し込まれ、魔力熱を根こそぎ消し去られ、残したかったものさえも失っていく。回数を重ねるにつれ、それは確かにネネの心を蝕んでいた。
「……ネネちゃん、ちょっと痩せたね」
「え、そう……かなあ……?」
「うん、何だか綺麗になったなあと思ってたんだけど、ちょっと違うかも。ちゃんとごはんは食べてるの?」
チサは本当に心配そうな表情で、じっとネネを見つめている。大丈夫、と言おうとした口は、何故か開かない。
食事はきちんと食べている。魔力熱も適切に排熱されていて、常に悩まされていた特有の熱さも気怠さも感じない。思考はいつもクリアで、十全に安定した術式を編み出すことができている。
――不満など、何もないはずなのに。
黙ってしまったネネの頬に、そっとチサの手が触れる。その手はじんわりと温かく、そしてとても優しい。
「ネネちゃんが特級ジュエルとして頑張ってくれているから、こうして私たちが生活できてるって分かってるけど……、でも、お願い。無理はしないでね」
「……全然無理は、してなくて。私、本当に、特級ジュエルとして仕事できるの、嬉しいし……」
泣いてしまいそうになって、ネネはカフェの窓の外へと視線を向けた。
ネネが描いた重力術式に従って、街路樹の葉が落ちていく。その前を、楽しそうに話しながら子供たちが通っていく。空気は澄んでいて、美しい景観が当然の顔をして広がっている。
ネネが守りたいもの。ネネが守っていくもの。
――自分はずっと、この為に、術式を編んでいる。
「何だろ……最近、一緒に仕事始めた人と気が合わなくて……。それで、疲れてるのかな……」
「枢軸局勤務でもそんなことあるんだね」
「あるよそりゃあ」
笑いながら、アイスカフェラテをもう一口。やはり味は感じないが、飲めない、と思うほどではない。
今のままでは駄目だ。イオの解導と同時に消し去られてしまうもの。消し去られた後では、それが何なのか、もうネネには分からない。自分の中からは、取り戻すことができない。
「……日記とかつけてみようかなあ……」
「日記かあ。記録したいことがあるって感じ?」
「んー、そうかも。あとこういうことがしたい、とか、街出たときに感じたこととか、書き残しておけば後で役に立つかもなあ……って」
「……そっか。そう思うなら、そうしてみた方がいいんじゃないかな」
きっとチサには、ネネに聞きたいことはあるのだろう。それでも何も聞かずに、そう言って優しく笑ってくれた。チサのその優しさが、とても温かい。
忘れたくない――失くしたくない。絶対に。
「……今日、来てよかったな。ありがとう、チサさん」
「気分転換できたなら何より。あ、何か食べる?」
「ううん、今日は大丈夫。……あ、でも次のときは、とびっきり美味しいケーキ、食べたいな」
「任せなさい」
カフェを出たネネは、そのまま都市を散策することにした。
自分は果たして、どんな想いを持って術式を編んできたのだろう。ゴミと断じられて捨てられてしまったその想いを、都市を散策することで思い出せるのではないかと考えたのだ。
穏やかな日差しは、後輩の一級ジュエルが日々編んでいる術式。あちらこちらにある街路樹や花々は、二級ジュエルがこだわりを持って都市中をデザインしているもの。そこかしこに走っている術式へのアクセスのための魔力回路は、三級ジュエルが日々の暮らしの為にメンテナンスを続けているもの。
そしてそれらは全て、特級ジュエルであるネネが編んだ基盤術式の上で息づいている。
「……あ、ここか……」
歩きながら、思い出す。街路樹のデザインをやり直したいのだと、二級ジュエルに相談された日のこと。提案されたデザインは非常に美しかったが、その二級ジュエル一人でこなすには難度が高かった。実現のため、ネネは水や風の流れを整え直し、一級ジュエルの力も借りて、術式は編み上げられた。それぞれに生じた魔力熱はかなりのものになってしまったが、達成感に皆で大喜びしたのだ。
――そんな記憶は、あるのに。
嫌な寒気が背中に走る。何故そんなに喜んだのかが思い出せない。そもそも、どうしてそのデザインが美しいと感じたのかも分からない。目の前に広がる風景を実現するために、どうしてそんなに尽力しようと思ったのかが分からない。あの日編んだ術式は確かに感じ取れるのに、どうしてその術式を編もうとしたのか、全く思い出せない。
身体は軽いのに。体調は良好で、懸念すべきことは何ひとつないのに。この都市の機構は、確かに維持されているのに。どうしようもない不安に、押し潰されそうになる。
「……だから最後まで、シロガネ特等のこと、紹介しなかったんだろうな……」
枢軸局がイオの解導について何も知らないとは思えない。そしてあの解導が合うジュエルも、そうそういないだろう。イオの解導を受け続ける限り、ネネはこの都市を維持するだけの機構になってしまう。誇りも想いも祈りも、何もかも消されて蹂躙されてしまう。
腕は確かだ――それは間違いなく。だからこそ彼は唯一、特等と呼ばれている。だがそれだけの腕を持ちながら、専属デコーダーとしてジュエルに付くことはしていなかったということだ。ネネがここまでひどく魔力熱を抱えることにならなければ、デコーダーではなく次期枢軸局局長候補として、違う仕事をしていたのかもしれない。そもそも、ネネのデコーダーになる前は何をしていたのだろうか。二日に一度会っているとはいえ、イオとはほとんど会話らしい会話をしていない。事務的な会話ばかりで、彼のことは何も知らないままだ。聞いたところで、時間の無駄と切り捨てられてしまうのも目に見えている。
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていると、不意に周辺の魔力の流れが変わったのを感じて、ネネははっと顔を上げた。数メートル先に広がっていた光景に、一歩後ずさる。
「あっぶな……」
――廃棄区画。
様々な理由で都市機能が壊れ、失われ、廃棄された区画。廃棄区画と都市の間には魔力の壁が発生しており、ジュエルの術式も届かない。足を踏み入れることも難しく、何が起きるか分からないという理由でジュエルが近づくことは禁止されている。そうでなくとも魔力回路さえ失い、壊れ、狂ってしまった場所だ。ラスターであっても、中に入れば無事では済まないだろう。
当然ながら、穏やかな晴天も届いてはいない。隔絶されて薄暗いその区画は、外側からは中の様子がほとんど分からなかった。見えているのに見えない、そんな場所になっている。
ひと月前にイオと専属デコーダーのパートナーシップを締結していなければ、ネネはこんな風に、都市ごと全てを廃棄区画に変えてしまっていたかもしれない。魔力熱の暴走、或いは術式出力の乱高下、或いはネネ自身が命を落として。こうして廃棄区画を目の当たりにすると、やはり嫌でもイオと契約するしかなかったのだと思い知らされてしまう。
「……本当に修繕ってできないのかな」
ぽつり、ネネの口からこぼれた独り言。
どうしてそんなことを考えたのかは分からない。廃棄区画にジュエルの術式は届かない。一度壊れてしまった区画を元に戻すことはできない。それが常識で、そういうふうに教えられてきた。廃棄区画を増やさないように――それはジュエルとなったとき、枢軸局から最初に言われることだ。
無意識に、ネネは廃棄区画に向けて手を伸ばしていた。
都市と廃棄区画を断絶している魔力の壁。その魔力の流れを読み、介入することができれば。かつてここにも存在していたはずの術式の痕跡が見つかれば、もしかしたら。
探る。潜る。集中する。深く――深く。じく、と頭の奥に感じた熱は、負荷による魔力熱。少々のことであれば慣れたものだ、気にする必要はない。何か、どこか。真っ暗な迷路を探索するように、ネネはその魔力の壁の粗を探し。
「おねーさーん、自殺でもすんの?」
「ッ、わ……!?」
ぐい、と後ろに身体を引かれて、強制的に集中が途切れる。途端、ぐわりと体内が高温に焼けていくのを感じて、ネネは咳き込んだ。集中しすぎて危うく、廃棄区画の狂った魔力の渦に呑み込まれるところだ。
何をしているのだろうか。我に返って、ネネはその場に膝をついた。糸が途切れてしまったように動けない。しかし、体を支配している気怠さが、妙に懐かしい。
「おーい? おねーさーん?」
ひょこ、と後ろからネネの前へと移動してきた男が一人。ダークグリーンの髪にアイオライトのような不思議な紫の瞳を持つ、端正な顔立ちの男だった。きょとんとした表情でネネの様子を眺め、それから口元を緩めた。
「あっは、ここの廃棄区画の魔力にあてられちゃった? 助けてあげよっか、ジュエルのおねーさん?」
「……待って、誰……何でこんな危ないとこに……」
「え、お互い様っしょそんなん。てかそんな美味しそうな顔してたら、危ない男に襲われちゃうぞ。例えばー、オレとか」
一体この男は何の話をしているのか。
魔力熱で頭がぼおっとしていて、どうにも理解が追い付かない。その様子は、男にも分かったのだろう。ネネに視線を合わせるように膝を折って、顔を覗き込む。
美しいのに毒々しい、不思議な紫の瞳に、吸い込まれそうになる――見惚れる。
す、と男の手がネネの頬に伸びてきて。次の瞬間、視界が暗くなった。
「……んっ……!?」
唇に触れる、柔らかい感触。
口付けられたのだと気付いた頃には、覚えのある感覚が全身を支配していた。魔力熱が、体から抜けていく。解導されているのだと気付いた瞬間、頭の中で警鐘が鳴り響く。
ここは枢軸局の特別処置室ではない。生身のデコーダーが、特別処置室の術式の力も借りずにネネの魔力熱の処理をするのは、ただの自殺行為だ。
やめさせなければと思うのに、至近距離でじっとネネを見つめる瞳は揺らがない。そこに一切の苦痛の色はなく、満足そうな色が見えて。
たべられる。
「っ……ぁ、ん……ッ」
魔力熱の代わりに注ぎ込まれる熱は、体が蕩けそうに熱い。
イオの冷たい魔力とは正反対に、男の魔力は酷く熱を持っていた。それはこのひと月の間に、イオの冷たい魔力に身体が慣らされてしまったからなのか。それとも男の持つ魔力自体が、そういう性質なのか。心地よさに、腰が抜ける。抵抗が、できない。
やがて魔力熱が全て消え失せ、男の唇が離れていく。先程までとは違う熱で頭がくらくらしていて、何が起きているのか、全く理解が追い付かない。
ぺろり。赤い舌を覗かせて唇を舐めながら、端正な顔を崩して男が笑う。
「んー、おねーさんの魔力熱、すっごいな。ゴチソーサマ」
「……は? え……? あなた、何、なの……?」
「え? ただの一般市民ー」
――そんなはずはない。
そもそも解導の技術は、魔力の使用法として非常に特殊なものだ。枢軸局で資格を得なければ、デコーダーにはなれない。しかしこの男は、特別処置室の術式の力も借りず単独で、あっさりとネネの魔力熱を排熱した。蕩けるほどの熱い魔力は、ゆっくりとネネの中に浸透している。
「……一般市民が、私の魔力熱、解導できる、わけない……」
「って言われても事実だし。ま、何でもいいじゃん。おねーさんの魔力熱もいただいたし、オレはこれでっ」
「ちょ、待って……っ」
去ろうとする男の服の裾を、慌てて掴む。まだ腰が抜けていて立ち上がれそうにはない。このまま去られてしまえば、追いかけるのはまず無理だ。
きょとんとする男を見上げる。何を言えばいいのか分からない。それでも、この男のことを知らなければならない。
「……名前くらい、教えてよ。人の唇、奪ったんだから」
「え? ああ、そう? じゃあおねーさんの名前は?」
「……アザミ=ネネ」
「かわいー名前。オレはね、カナメ。んじゃまた機会があれば会おうね、ネネちゃん」
ひらひらと手を振って、ネネの手を外した男――カナメは、軽い足取りで廃棄区画とは逆方向へ立ち去っていく。
ふわ、と浮いた手が魔力回路に触れ、瞬時にその姿は消えていった。移動用術式にアクセスして、さっさと移動してしまったらしい。いつまでも徒歩で歩いて、ネネに追われるつもりはないということだ。
「……カナメ……」
呟いてみた名前。そこに篭った感情は、何だったのか。
今のネネには、分からなかった。