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34
ずっと体が震えている。永鳥の電話を聞いてから、何度も吐いた。吐き気に襲われたところで、もう胃の中は空で何も出ない。ただただ気持ち悪さが体中を支配している。
渚が死んだ。
本当に死んでいる。本当に、殺されている。それを現実として突きつけられた今でも、全く意味が分からない。梓人からも、そしてデータだという渚からも死んだと言われていた。しかしやはり、どこかで信じていなかった――信じたくなかった。
何もできなかった。
姉が死んだときとは違う。姉が死んだときの恭は、そもそも『此方』や『彼方』といったようなことを全く知らなかった。『ウィザード』としてのことで命を落としたことだけは想像がついたがしかし、あの頃の恭は何もできない、ただの無力な中学生だった。律が決着をつける頃にはそれなりに時間も経っていたからこそ、『赤い部屋』のままにしておかないことが救いだと、助けることだと、そう信じて動けていた。
今回は違う。知っていた――渚が殺されに行くことを。しかしそれに対して、自分は何もしなかった。その結果、きっと今度は自分が渚を助けるために、殺さなければいけなくなるかもしれないと、知らされていたのに。見ない振りをして、逃げ出してしまった。 何も、しなかった。
ただ震えて泣いて吐いているだけで、こんな状況になって何もできない自分が嫌になる。自分の弱さを突きつけられる、思い知らされる。この世界で生きていけるだけの強さも価値もないのだと言われているようで、頭が奥からガンガンと叩かれているような気さえする。痛い。苦しい。けれど助けてほしいなどという言葉を発する資格が、果たして自分にあるだろうか。これはきっと、逃げた自分への罰だ。
その上、思い知ってしまった。律もいつだって死ぬかもしれない覚悟を、とっくに決めているのだと。いつ死ぬか分からない世界で生きているのだと。
律は恭を置いていく。家を継ぐために、『ウィザード』として生きていくために。自分はどうだろうか。律の相棒になるために、何かをしてきただろうか。ずっと、ただいつも通り生きてきただけだ――どうすればいいのかなど、恭には分からない。
頭の中でぐるぐると渦巻く思考が多すぎて、頭がパンクしそうになる。何も考えたくない。全部シャットアウトして、逃げ出してしまいたい。脳内が、ただ恐怖に支配されていく。
「……きょーうくん」
「……あ」
「落ち着いた? 大丈夫?」
いつの間に帰ってきたのか――あれからどれくらい時間が経っていたのか。泣き疲れて、吐き疲れて、眠ってしまっていたらしい。顔を上げると、ミネラルウォーターのペットボトル片手に恭と視線を合わせる律の顔。心配そうな表情を見る限り、今の自分は相当ひどい顔をしているのだろうと思う。
「……律さん」
「はい律さんですよっと。水飲む? 気分は?」
「きもちわるい……」
「飲むだけ飲んで、無理なら吐けばいいから。倒れるよ」
「……うす……」
律から受け取ったミネラルウォーターを、少しずつ口に含む。水分を出し切ってしまっていたのか、体はからからに乾いていたのだろう。しみわたる感覚に体がひんやりとして、脱力する。
泣いてもどうにもならない。渚が帰ってくることはない。生きている渚にはもう二度と会えない。そんなことは、分かっている。
恭から離れてキッチンに向かっていく律の姿を、ぼんやりと目で追いかける。カウンターキッチン越し、冷蔵庫の中身を見て悩んでいる律は、恐らく何を作ろうか悩んでいるのだろう。そういえば永鳥の連絡を受けてから何も食べていないな、とぼんやり思う。しかし、空腹感は一切ない。何も食べられるような気がしない。今食べたところで、また吐いてしまうだけであることは目に見えている。
律の様子はいつも通りだ。普通にしていられるほど、律が強いということだろうか。しかし恭には、どうして渚の死の一報を受けて、こうして律が普通にしているのかが分からない。思考がぼんやりとしている――考えることを、放棄する。
「……なんで」
「んー?」
「律さん、って……、永鳥さんとこ、行ってきたんすよね……」
「ああ。まあ一通りの状況把握したかったしね。……遺体も見てきた」
「!」
「永鳥さんの伝手で渚くんだって分かる状態にまでどうにか復元して、それでご家族のところに帰すってことになる、かな……今のところは。死因は事故で偽装するしかないと思ってるけど……」
顔色ひとつ変えることなく、淡々と、冷蔵庫の中身を眺めたまま律は言う。何を言っているのか全く分からない。今日の献立を考えているとでも言っているような、それほど冷静な言葉。
遺体を見た。考えただけで吐き気がする。先ほど飲んだばかりの水が、胃から逆流してきそうな気分になる。きもちがわるい。
意味が、分からない。
「……律さん、何でそんないつも通りにできるんすか」
「何でって」
「松崎先輩が死んだのにっ、何でそんなふっつーに、何も感じてないみたいにできるんすか……」
「……」
返事は返ってはこなかった。律が黙ったのが分かる。ぱたん、と静かに冷蔵庫が閉まって、続いて聞こえたのは深い溜め息。
そのまま恭を振り返った律に、息を飲む。ひどく悲しそうな色を湛えたその瞳に、頭が冷える。
自分は今、誰に、何を言ったのか。
「……恭くんがショック受けてるのは分かってる、しんどいのも辛いのも分かってる、俺は恭くんが渚くんと何を話したのか分からないから、俺が思っているよりショックを受けることがあるのかもしれないと思ってる。だからまあ、しっかりしろとは言ったけど、整理する時間は絶対に必要だし、しばらくはしんどいだろうなって分かってるつもり。けど、それと俺に対してそういうこと言うのって話が別じゃないの」
「律さん、」
「やっぱ俺、恭くんのこと本当に相棒にはしない方が良さそうだよね。このまま白紙撤回した方が恭くんにもいいと思う。猶予期間の話はなかったことにしといて。待つのも辞めるから」
「ちょ、っと待って、」
「俺は家継ぐって決めてこの2、3年、馬鹿みたいに死体見てきてるから悲しいかな多少は慣れてる。嫌でも慣れるしかないんだよ、俺は人が死ぬのが当たり前で、人が死んでるのが当たり前の場所で生きてるんだから。……恭くんには無理だ、この世界向いてないよ、優し過ぎて」
ゆっくりと。いつも通りのトーンで、しかし恭に背を向けて喋る律が、遠い。何か言わなければと思うのに、謝らなければいけないと思うのに、喉に声が引っ掛かって出てこない。このままじゃ取り返しがつかなくなる――もう既に、取り返しがつかないのだろうか。
理解が追いつかない。今、自分が間違いなく、感情任せに、止まった思考で、律のことを傷つけたことだけは分かる。一番やってはいけないこと。今の一言で、たった一言で、全てを崩してしまった。
もう一度静かに吐き出される、溜め息。びく、と身体が震えた。少しだけ律の表情が変わったのが見えた。そこにあるのは間違いなく、怒りだ。
「俺が本当に渚くんが死んで何も感じてないと思ってんの」
「……ちが、」
「恭くんの中で俺はそんなに冷たい人間だった訳だ」
「ちがう、」
「いつまでもそうやってぐずぐず言ってろよクソガキ。――ごめん、悪いけどちょっと付き合ってられない」
疲れ切ったようなその一言に、心臓がばくんと音を立てた。
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玄関の扉が閉まる音を、まるでテレビの中の出来事のように聞いていた。怒ってるのに恭の食事を作って、冷蔵庫に入れてから出て行って、余計に心臓に突き刺さる。
言っていいことと悪いことがあることは、知っている筈なのに。そもそも律が、渚が死んだことについて何も感じていないわけがないのだ。恭がこんな状態になってしまっているから、律は気を使ってくれていただけで。
一言も謝れなかった。声が出なかった。ごめんなさいという言葉では済まされない。
「……どうしよう」
『……恭……』
「どうしよう……」
前にもこうして律を怒らせたことがあった。普段怒られるときとは全く違う怒られ方。あのときは律の言うことを聞かずに殺されかけて、ぎりぎりで助けられた。そのときの律は、怒鳴られた方がまだマシだと思ってしまうくらいに静かに怒っていた。
そのときよりも、もっとひどい。律のことを、傷つけてしまった。
心臓がどくどくと音を立てていて、潰れそうなくらいに痛い。カタカタと身体が震えて、瞬間的に駄目だ、という感覚に支配される。落ち着かなければ。このままでいると、本当に律に対して最低で最悪な、一生許されないことをしてしまう気がする。
身体が動かない、律を追いかけることはできない、どうしたらいいのか分からない。何かを考えると、引き摺り落されそうな感覚に陥ってしまう。
あれだけ泣いたというのに、またぼろぼろと涙が溢れ出してくる。這うようにして部屋のベッドに顔を押し付ける。涙はシーツに吸い込まれていくだけで、止まる気配もなく。
――恐らくまた、知らぬ間にそこで意識が遠のいた。遠くでインターホンの音が聞こえた気がして、意識がふと浮上する。時刻を確認しようと傍らに放置していたスマートフォンを手に取ると、そこに表示されていたのはかなりの数の不在着信とSNSの通知。
誰にも会いたくない。律に言ったようなひどいことを、また言ってしまうかもしれない。
そう思っているのに、インターホンの音は続く。近所迷惑ではないだろうかと思いはしたものの、体を動かせない。体を起こして、そこで動きが止まってしまう。行きたくない。誰の顔も見たくはない。そうこう思っているうちに、インターホンの音が止まる。ほっとする間もなく、今度はがちゃりと鍵が開く音がして体が強張った。――律が帰ってきたのだろうか。
荒々しい足音、ぐいと肩を掴まれて強制的に体の向きを変えられて、視界に入った人物は律ではなく。
「歯食いしばれ」
「へ、……いっ……!?」
何が起きたのか分からなかった。強烈な熱さ、続けて痛み。強かに背中を打って、茫然と見上げた先にいたのは――白石 悠時。
明らかに怒っているのがよく分かる表情で恭を見下ろしている悠時は、そのまま左手を伸ばして恭の襟首を掴む。続けざまに振り上げられた右手に、殴られるのか、と理解した瞬間には既に思い切り殴られていた。先ほど背中を打ったのも、同じようにされたせいなのだろう。
ぐ、と緩んだ拳が再度握りしめられたのが見えて、もう一発、今度は本気で殴られるのだろうか、と考える頭はどこか他人事のように今の状況を捉えていて。しかし、その拳で恭が殴られることはなかった。振り上げた腕を下ろした悠時は、そのまま恭の襟首からも手を放して。代わりに、その目からぼろりと涙が落ちた。
「……ゆーじ、さん」
「抵抗ぐらいしたらどうなんだ、馬鹿……説教しにきたんだよこっちは……」
「え、っと……」
「……くっそ。大馬鹿野郎。んな顔されると、毒気抜かれるわ……」
そう言って、弱く笑った悠時の手が恭の右頬を撫でる。急にその部位がかっと熱を持って痛んで、本気で殴られたということに思い至る。口の中に広がる血の味。頭がくらくらしているのは、殴られた反動だろうか。
「言っとくけどりっちゃんに頼まれて来たんじゃねーからな。我慢できなくてりっちゃんが寝た隙に鍵パクって俺が勝手に来ただけだから」
「……律さん、悠時さんとこ行ったんすね」
「どうせ馬鹿みたいに色んなこと抱えてんだろ。変に知り合い頼って根掘り葉掘り聞かれるの避けたんだろ。りっちゃん、未だに仕事のことで誰か巻き込むの苦手だろうしな」
――ああ、どうしてそんなことを、言われるまで気付かなかったのだろうか。
律がそういう人間だと、知っている筈なのに。人に頼ることがひどく苦手で、ようやっとこのところ改善されてきたような気がする、というだけのことなのに。そんなことさえ、頭の中から抜けていた。
はあ、と呆れた溜め息を吐いて、悠時は椅子に腰かける。床に座り込んだままの恭は、自然と悠時を見上げる形になった。
「……そもそも。何かあったならちゃんとりっちゃんに相談しろよ、おめーは。りっちゃんすげえ心配してたぞ、大丈夫かなって」
「……だって」
「だってもクソもねえわ。おめーがアイツ頼らなかった上に感情爆発させてどうすんだよ」
「……う……いや、あの、俺、律さんにひどいこと言ったの、分かってるっすよ……」
「あー? あー……それもそうだけど、俺はそこは怒ってねえよ」
「……へ?」
なら、どうして悠時は怒りに来たのだろうか。律を頼らなかった結果、こんなふうになってしまっているから。頭の中がぐちゃぐちゃになって、上手く対応できなくなっているから。他には。怒られる心当たりしかないような気がしてしまう。
「……りっちゃんが、恭の言うひどいこと? 言われて、キレたのはわざとだよ」
「わざと……?」
「あれ、全然怒ってねえっつーかすっげえしょげてる。恭にひどいこと言ったの大丈夫かなってすげえ心配して気にしてる。ああいうとこ甘いからなー、りっちゃんは。恭が本気で傷ついてぐちゃぐちゃになってるの見て、りっちゃんはもう恭のことをこれ以上巻き込まないって決めた。そういう話」
「……あ……」
相棒にするのを、白紙にする。もう待つことはしない。そう律が宣言したのは、怒っているからではなく。
怒ったように見せて、恭を見限った振りをして、恭を自身から引き離すために。どうしてそんなことを、などと問うつもりはない。心底恭が傷ついていると、律が判断したからだ。その優しさで、律は選んでしまった。
「……自分が何したか自覚したか? 恭」
「……あのひと、自分一人で、全部背負うつもりで……」
「りっちゃん、ほんっとその辺馬鹿だからな。……分かってんだろ、恭。何があってもおめーの一番の味方はりっちゃんだよ。りっちゃんはいつだって恭のことを傷つけたくねえし、酷い目に遭ったりしてほしくねえし、本当は一番恭を相棒にするの悩んでんの、りっちゃんだよ」
「……俺は」
「りっちゃん、感情表現を言葉ですんのド下手くそなんだよ。笑ったり怒ったりはよくするけど、悲しいとか苦しいとかそういうこと、自分の内側に押し込めがちだからな。……つーか忘れたのかよ、そのせいで一回えらい目に遭ってんだろおめー」
そう――知っていた。恭はそのことを、きちんと知っていたはずなのに。
律が、渚が死んだことを何とも思っていないわけがない。きっと本当は泣きたい、苦しい、もっとできることがあったのではないかと考えてしまっている。しかし律は泣かない――泣けない。自分の立場や、周りのことを考えてしまうから。当然のように人が死んでしまう環境に生きていて、泣いたところでどうにもならないから、泣くという時間を切り捨てて。そしてきっと、犯人を捕まえるためにどうするかを考えている。
一人で溜め込んで、一人で傷ついて。律がそういう人間だったから、恭は律の隣で戦いたいと思った。支えられる人間になりたくて、相棒になりたいと思った。放っておけないから。そう思った、はずなのに。
「よーく聞け」
「……うす」
「恭だけは、何があってもりっちゃんの味方じゃなきゃダメだろ。恭がりっちゃんのこと責めてどうすんだ。自分のこと全部棚に上げて、自分を一番信じてくれてる人間を傷つけるな。あの馬鹿が何背負って生きてんのか、いい加減ちゃんと分かってんだろ、大馬鹿野郎」
「……はい……」
「ま、りっちゃんも大概言葉が足りねえんだよな。そこはりっちゃんが悪いんだけど」
まったく、とわざとらしい溜め息を吐いて、悠時は肩をすくめた。俯いてしまっていた恭の頭を、よしよしと撫でてくれる手つきは優しい。
「あ。そうだ恭。りっちゃんはおめーに一人で頑張らせるために、相棒にすんの白紙にするっつってんじゃねえぞ」
「へ?」
「芹がおめーに修行先紹介してる時点で気づけよ。後のこと全部、おめーの周りの知り合いに頼んでんぞ、りっちゃん。なのに恭が一人で頑張ろうとしてっから駄目なんだよ。そういうとこがほんっと馬鹿やってる。……つかりっちゃんとしては別に、恭がりっちゃん頼ってもいいと思ってたよ。ま、りっちゃんから仕事の話振ることはねえだろうけど」
「……で、も」
「俺には未だに、おめーらの住む世界のことは分かんねえ。でも、りっちゃんは恭に自分がいる世界がどういうものかっつーことは、教えようとしてっから。だから言い方もきつくなるし、怖いことも言うし、怒ったりもするんだろ。でもその根底にあるのは全部、恭のことが心配で心配で仕方がねえっていう優しさだよ。りっちゃんは不器用だからなー、そういうことを上手くやんのは下手」
律がいる世界。恭がまだ、片足を突っ込んでいるだけの世界。
それは恭が思っているよりも遥かに残酷で、ハードで、本当に生きるか死ぬかの世界。そういう場所に、律は生きている。普通に生きていくよりも遥かにしんどいであろう世界で、しかし律はその世界で生きていくしかない。世界的に有名な『ウィザード』の跡取りとして、その世界で生きていく。
しかし、恭は違う。本当に普通の一般人で、たまたま『ヒーロー』の力を持っていて、『ウィザード』の姉がいた。しかし玲は、恭がこの世界に足を踏み入れることを良しとしていなかった。だからこそまだ子供だった恭に、『ヒーロー』の力を使うなと言っていた。それでも一応程度にこの世界のことを教えてくれたのは、恭がいずれ足を踏み入れる可能性があることを配慮した結果だったのだろう。
前から、律は恭が仕事に首を突っ込むとよく怒っていた。絶対に恭を仕事に巻き込みたがらなかった。それは本当に、恭がこの世界のことを何も知らなかったからだ。普通に生きていくことができる立ち位置にいたからこそ、こんな世界のことは知らなくていい、と引き離そうとしていた。それでもしがみついたのは、恭の方だ。
――そう、しがみついたのだ。
「……ゆーじさん」
「ん?」
「……もっぱつ、殴って」
見上げれば、驚いた表情の悠時と目が合って。ややあってふう、と息を吐いた悠時が、真剣な表情になる。ぐ、と握られる右手の拳、振り上げられた瞬間に痛みを覚悟して――しかし、その痛みはいつまでも来ない。
代わりに、軽く額を小突く、デコピン。
「……いてえ」
「目が覚めたならそれでいい」
「……ごめんなさい」
「許さねえよ?」
「え」
「恭がちゃんと、りっちゃんの相棒は恭しかいねえんだって認めさせたら、許してやってもいい」
笑う悠時は、少し楽しそうで。そしてそれは、律の唯一の幼馴染からの、恭への信頼だ。
なれるかどうかは分からない、けれどならなければならない。渚のことは心に重くのしかかる。しかし、それは律も同じだ。泣いて腑抜けている場合ではない、立ち向かわなくてはならない。一滴も涙をこぼさずに前を向いている律のようにはなれないが、いつまでもこうしていても渚は帰ってこない。付き合っていられない、という言葉は、言われて当然の言葉だ。
何もしなかった。何もできなかった。無力だった。それは事実だ。
しかしそれなら、このままでいいのだろうか。このままで、終わらせてしまうのか。
渚と約束をした。憂凛のことを頼まれた。渚が一番大切にしてきたであろうことを、託された。だからこそ、ここで立ち止まってはいられないのだ。どうしてそんなことまで一緒に忘れてしまっていたのだろうか。自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。
「……一応言っとくけどな恭、俺りっちゃんにはめちゃくちゃ過保護の自覚あるからな。アイツ泣かせたら殺すぞ」
「……こわい……」