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そもそもどうして『分体』が人質に取られているのだろうか。
一応は『分体』も『彼岸』であり、切り離されたとはいえ『カミ』の『ケンゾク』に当たる存在だ。戦う力を持っているような『彼岸』ではないが、しかし簡単にどうこうできるような存在だとも思えない。ただの関西弁の音声案内サービスというわけではないのだから。
女の子の道案内に従って、車から降りて歩くこと5分程度。辿り着いたのはマンションだった。ここに女の子の言う『マスター』がいるのだろう。しかしそれは一体誰だと言うのか。全く心当たりがない。
『このマンションの1501号室にマスターがいらっしゃいます』
「……はあ」
『オートロックは解除してありますので、どうぞ』
行かない、という選択肢はない。とにかく『分体』のことは元に戻してもらわなければ困る。
女の子の指示に従い、マンションに入って、エレベーターへ。15階はこのマンションの最上階のようだった。エレベーターが開いて外に出ると、どうやら1フロアしかないらしい。玄関の扉は一つだけだった。
恐る恐るインターホンを押してみると、ぴ、と電子音が鳴って、続けてがちゃりと鍵が開く音。それ以外には反応は何もなく、しんと静寂が落ちている。インターホンに出る、ということはないらしい。不用意に中に入ってよいのだろうかと心配になりながらも、覚悟を決めて扉を開く。途端、中の空気が外に漏れ出して。
「……さっぶ!?」
冷気に襲われて、反射的に身震いする。真夏だというのに、冷凍庫でも開けたのではないだろうかと思えるほどの冷気だ。そっと中に入ると、目に入ったのは大量のパソコンとモニター。部屋一面を埋め尽くしているそれは、100台を優に超えているのではないだろうか。
その部屋の真ん中に、少年が一人。恐らくだが、恭より少し年下のように見える。くるりと椅子を回して恭を振り返った少年の表情は見えない。長い前髪が、少年の顔を半分以上覆い隠していた。
「……初めまして、柳川恭、さん……こんなところに呼び出して、すいません……」
「あ、いや、えっと」
「俺は……、永瀬 梓人、と言います……強硬手段を取りましたが……危害を加えるつもりはないので……」
「……はあ」
名前を聞いたところで、その名前には全く覚えがない。どう考えても、彼に会ったことがあれば覚えているだろう。ぼそぼそと喋る暗い声は、パソコンの動作音で声が掻き消えてしまいそうなほどに小さい。
「……何で俺のこと知ってんの?ていうか、俺に何の用事が」
「松崎 渚さん、より……伝言を、お預かりしていて……」
「え、」
「……ファイ、帰っておいで……」
『はぁい』
恭のスマートフォン上にいた女の子の姿が消えて、少年――梓人の後ろに、立体映像のように少女が現れた。先ほどよりも等身が高く、人と見紛うほどだ。雰囲気は先ほどまでのアニメチックな女の子によく似通っている。
――ああ、『彼岸』なのだ、と思う。間違いなく、『分体』よりも力が強い。
『改めてこんにちは、キョウ=ヤナガワ。私はWASE9510-type:Φ』
「……だぶるえー……?」
『少し長いので、どうぞファイとお呼びください』
「ファイは……、俺の、大切なパートナー……、貴方の、あの『分体』の上位互換……そう思ってくれれば、大体合ってます……」
「あ、そうだぶんちゃん! ぶんちゃん返して欲しいんだけど」
「ええ、どうぞ……必要なデータは取れましたので……。ファイ」
『はいはい、お任せ』
くるくると少女――『WASE9510-type:Φ』の指が踊る。瞬間、砂嵐に戻っていた恭のスマートフォンの画面があっという間に元に戻って、ぽん、と白いもやもやが出てきた。それは間違いなく、いつもの『分体』だ。
『うああああびっくりしたああああああ』
「おかえりぶんちゃん!」
『恭! アイツヤバイ! こわい!』
「よしよし、大丈夫大丈夫」
泣き顔の顔文字を連打してる『分体』に思わず笑ってしまいながら、白いもやもやを撫でるように指を動かす。そうしている間に落ち着いたのか、泣き顔の絵文字が消えたと思えば今度は困った顔の顔文字が出てきた。
そんな恭と『分体』のやり取りに梓人は少し笑って、パソコンに向かう。カチカチとものすごいスピードでキーボードを叩いているのは後ろ姿でも分かるが、何をしているのかはさっぱり分からない。
「……ずっと、貴方の相棒の『分体』が……松崎さんを探しているのは知っていて……、申し訳ないのですが、俺、松崎さんとの約束だったので……ずっと妨害してました……」
「妨害? ってか約束って」
「監視カメラのデータを、リアルタイムで全て書き換えて……貴方の『分体』には絶対に松崎さんを見つけられないように動いていました……」
「……そんなことできんの?」
「俺は、『神憑り』……、0と1の『カミサマ』に愛されてるので」
『私が愛しちゃってるので!』
つまりは、『分体』の上位互換に当たるのだろう。『分体』はインターネットに接続されている場所であればどこにでもいける、情報収集を得意とする『彼岸』ではあるが、その上をいく『彼岸』に邪魔をされていたのなら、いくら『分体』が探しても見つからなかった理由としては納得できる。
しかし、渚との約束という意味が分からない。そもそも梓人は渚の知り合いということなのだろうか。恭は憂凛との一件以来、律の事件のときに連絡を取ったのは例外として、渚とは全く連絡を取っていなかった。その交友関係についても、全く分からない。憂凛なら知っているかもしれない、或いは大学の同級生だった友人たち、奈瑞菜や他の共通の知り合いであればもしかしたら。しかし、それをすぐに確認するすべはない。
渚は、恭が探すことを分かっていて、予め手を打っていたのだろうか。もしかしたら、もっと前から。渚が何らかの情報を追って響と行動を共にしていたらしい頃、憂凛はずっと渚を探していたはずで。随分と前から、渚は周囲の人々から遠ざかっていたのだろうか。
そこまでしなければならない理由が、渚にはあるのだろうか。
「……えっと、じゃあ、何で俺にそれ教えてくれんの? ナイショにしとかなくていいの?」
「期限です……松崎さんは、亡くなられたので……亡くなった後のことを、俺が……引き受けてます……」
「――え?」
ぴたりと時間が止まったかのような錯覚。
梓人は淡々としている。しかし、彼が何を言っているのか、恭には理解ができない。今、彼は、何を言ったのか。
「2週間前、彼は殺されました……殺されたときのデータは、取れていないので、証拠をお見せできませんが……」
「……いや、いやいや、ちょっと待って、何言ってんの」
「事実を話してます……松崎さんから、自分が殺されたら、貴方に渡すようにと……預かってるものがあります……」
何を話しているのか分からない。
殺された。2週間前に。それは、恭が姫氏原の家の門を叩いた頃には既に、或いは病院で話した後すぐに、渚は殺されていたということになる。
頭の整理が追いつかない。何を言われているのか、全く信じられない。確かに渚は殺されに行くと言っていたし、その上で『もしも』のときのことも恭に頼んでいった。
「……混乱させて、申し訳ないですが……ファイ、松崎さんの伝言、彼の分体に……」
『埋め込み済み!』
『は!? 何埋め込んだんや!?』
『有害なデータじゃないからご安心を。松崎さんのメモリーの一部です』
『松崎のメモリー?』
『彼が他人に一切言わなかったことを、貴方に埋め込んだだけ。他の人間や『彼岸』には開けることも見ることも出来ないよう私が細工済、一回開いたらデータは抹消されます』
『勝手に何してくれとんねんお前ら!?』
「松崎先輩が死んだとか、俺、信じらんないんだけど……」
「信じなくて、結構ですよ……そのうち嫌でも、思い知るでしょうから……」
「っ……」
「それは松崎さんの、遺言です……どうぞ、橘さんと一緒にご覧下さい……今日、会うんでしょう?」
確かに今日、この後憂凛と会う約束はしている。しかし、恭はまだ憂凛に何も言っていない。急に死んだ、殺されたなどと言われても、どうすればいいのか。
頭の中がぐちゃぐちゃになっている。一体どうしろと言うのか。――何より渚は、何を考えているのか。
文句のひとつくらいは言わせてほしい。どうして。何故。
「それでは、俺からは以上です……お気をつけて、お帰りください……」
「いや、待って」
「また会う機会もあるでしょうから……俺に質問されても答えられること、殆どないので……帰ってメモリーを確認して頂いた方が、いいと思いますよ……」
「ッ……でも、」
「俺にとって松崎さんは、単なる依頼主です……それ以上の関係はありませんし、答えられることもありませんよ……」
小さな声ではあったが、しかしはっきりとした口調だった。これ以上食い下がったところで、きっと返答は同じなのだろう。
唇を噛みしめて、『分体』に視線を落とす。渚の遺言など、そんな縁起の悪い話を聞きたくはなかった。しかし梓人の話が本当なのであれば、渚はもうこの世にはいない。助けることが、できない。あのとき渚の言っていた『もしも』の可能性が、現実味を帯びていく。
『柳川、『もしも』のときは』
耳の中でリフレインする、渚の声。そんな『もしも』のときなど、絶対に来てほしくはないと思っていた。考えたくもなかった。
恭は知ってしまっている。『魔女』の罠で殺された玲の末路を。殺された彼女がどんな姿になってしまったのかを、嫌というほどよく知っている。そのことを渚は知っているから――だから敢えて、恭にそんなことを言い残していったのだろうとしか思えない。
『――お前が俺のこと、殺してくれ』
そこからどうやって家に帰ったのか、全く覚えていない。よく車を運転して帰ってきたものだと思ってしまうレベルだ。一言も何も口から言葉がこぼれることはなく。そして『分体』は、そんな恭に何かを言うことはなかった。ただ、家までの道をナビゲーションしてくれていたことだけは覚えている。
渚が死んだ。
行方不明ではあったものの、絶対にどこかで生きていると思っていたし、そう信じていた。けれどそれは間違いで、恭はそう信じることで逃げたのだ。修行をするためにという言い訳をして、憂凛に話をすることから逃げ出して、そして目を逸らし続けた――渚がどうなったのか、という現実から。『分体』が探してくれているから、ということを言い訳にして、渚から逃げ出した。
そうすることで、渚を犠牲にした。
「っ……」
『……恭、大丈夫か?』
「きもちわるい……はきそう……」
駐車場に車を停めて、しかし車から降りることはできなかった。気分が悪い、胃の辺りがむかむかしている。気を抜けば何かが迫り上げてきそうで、恭はハンドルに額を預けて突っ伏した。
何もできなかったのではなく、何もしなかった。渚が死にに行くことを、殺されに行くことを、知っていたのに。郁真に言われたということもあるが、しかしやはり絶対に止めなければいけなかった。例え自分では何も思いつかなくても、それでも殺される以外の方法は必ずあるはずだと、そう言わなければいけなかった。
どうしようもなく、自分が臆病になっていることを感じる。怖い。また死んでしまうかもしれないことが怖い、また裏切られてしまうかもしれないことが怖い、何もかもが、怖い。それを自覚してしまって、だからこそこんなにも心が重い。認めたくなかった、知りたくなかった。きっと永鳥は、そんな恭の心の内を見抜いていたのではないだろうか。だから恭は、律の相棒にはふさわしくないのだと、そう示したのではないだろうか。
永鳥の言う通り、今の恭に、律の隣に立つ資格などないのかもしれない。
「わっけ分かんないもう……俺にどうしろっつーんだよ……」
『……恭』
「何なんだよ皆してっ、ひびちゃんは俺に小夜ちゃん殺させようとするし、殺されるしっ、松崎先輩は俺に殺してくれとか言うし!」
『落ち着け、恭』
「そんないっぱい背負えねえっつーの、ふざけんな……!」
ぼろぼろと涙が溢れ出て、止まらない。悔しい。情けない。どうして自分はこんなにも弱いのだろうか。
何もできない。何も背負えない。大事な友人を守れるだけの力もなければ、律の隣に立てるほどの力もない。何も、できない。じわじわと奥から込み上げてくるものは恐らく良くないものではあって、しかし振り払いたくてもどろどろと絡みついてくる。底なし沼に足を突っ込んでしまったかのようで、身動きの取り方が分からない。
どうしたらいいのか。今の自分に、何ができるというのか。いっそもう、何もしない方がいいのではないだろうか。
そんなことを考えた瞬間、こんこん、と窓ガラスをノックする音にはっとする。顔を上げると、心配そうな顔をした憂凛が立っていた。何で憂凛がこんなところにいるのだろうと思って、すぐに会う約束をしていたことを思い出す。けれど結局、恭は憂凛に連絡ができていない。
「……ぶんちゃ……ゆりっぺ、よんだ?」
『おう。お前は一人でうだうだ考えたらあかん奴やからな』
「……ぶんちゃん……」
『今思ってること全部憂凛に言うたらええんや。憂凛はちゃんと聞いてくれる、って恭は知ってるやろ?』
その『分体』の言葉は、いつもと変わらない口調だった。冷静に、しかし優しく。間違いなく、心配してくれている。だからこそ、恭を落ち着かせようとしてくれている。付き合いの長い関係だ、四六時中共にしてきた関係だ、恭のことを『分体』はよく知っている。
もう一度憂凛の方を見る。窓ガラス越しに、憂凛は柔らかに微笑んだ。その唇が、動く。
「おかえりなさい」
ぼやけて聞こえたその声に、また、涙が溢れた。