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数時間後、律は氷漬けにされたアパートの屋上に戻ってきていた。手掛かりを探すのであれば、あの男と会ったこと場所しかないからだ。
特段景色の良い場所ではない。見通しも悪く、似たような高さの建物が多い場所なので、閉塞感が強い。両隣にあるアパートの方が高さもあり、正直何も見えない、という状況だ。
「……手掛かりなー……」
既に仕事の痕跡さえ残ってはいない。大きな戦闘が行われたわけでもないので、残っているとしても律が魔術を使っていた痕跡程度のものだ。ここから何かを探し出すとなると、最早罠として相手がわざと痕跡を残しているとしか考えようがない。
それでも、何もしないよりはいいだろう。何が何でも指輪は取り戻さなければならない。罠に掛かるとしても、できることは全部やっておくべきだ。深呼吸してから、『リズム』を刻んで術式を展開。残っている痕跡を探し出す。あの男のものでも、指輪のものでも、何でも構わない。僅かな可能性に賭ける他に、今できることはないのだ。
――しかし。
「……っ、え、」
痕跡を『探す』為の術式が、唐突に、そしてあっという間にに書き換えられていく。それは律が全く知らない術式であり、そして全く違う『何か』。自身が構築した魔術を勝手に書き換えられる、という感覚は酷く気持ちが悪い。展開した術式を収束させようとしたところで、既にその制御は律から離れてしまっている。何が起きているのかが分からない。律自身も一度相手の魔術の術式を書き換えるという行為自体はしたことがあるが、それは相手が術式の書き換えに同意し許容していたからできたことで、こんなふうに力づくですることは普通はできない。
さすがに経験上、こんなふうに書き換えられたことはない。別の魔術に乗せて上書きされることはあっても、これは完全なる乗っ取り行為だ。まだ魔術の使い方を覚えたての『ウィザード』であるならともかく、普段から魔術を使っている『ウィザード』相手にできるような芸当ではない。
「混乱してんなー、やっぱそういう顔がいいよな」
「なっ、」
「じゃあ2回目、いってみよー」
いつの間に、どこから現れたのか。気配もなく、何の前触れもなく、男が現れていた。真っ青な瞳、黒と金の混じった髪、やたらロックでパンクな服装を身にまとったその男は――屋上を囲う柵の上に、悠然と立っている。
――2回目。その言葉に引っ掛かり、思考が止まる。何の話をしているのか。
そう思った瞬間、ぐん、と思い切り見えない何かに体が引っ張られた。それは、先ほど書き換えられた律の魔術の影響だ。それが律の身体を引き摺って、向かう先は。
「は!?ちょ、待って!?」
「待たない。いってらっしゃーい、茅嶋 律クン」
「っ、え!?」
屋上の柵が跡形もなく消えて、柵の上に立っていた男は屋上に悠然と立つ。律の身体は先程まで柵があったところまで引き摺られて止まって、しかし直後、男の手が律の身体を押した。バランスなど取る猶予もなく、律の身体はそのまま――落ちる。
冗談ではない。それほど高い屋上ではないとはいえ、よくて大怪我、死ぬ可能性の方が高い。
即座に『リズム』を刻む、術式が展開、この状況で口笛は難しい、展開した術式を発動するには。なりふり構ってはいられない、この状況下で喉が正常な音を出してくれるとは思えないが、それでも『口笛』の代わりに『声』で無理矢理魔術を発動させる。果たして、時間にして何秒の猶予があったのか。
何とか地面に叩きつけられる寸前で魔術が発動、酷い激痛を伴いながらも落下の衝撃を殺して、どさりと地面に落ちる。声が出ない激痛に襲われながらも、死ぬような怪我するよりはマシだと思いたい。我ながら、落下中に意識が飛ばすこともなく、すぐに魔術を発動できたことは褒めたいところだ。ばくばくと音を立てている心臓を落ち着かせようとしている間に、また男が律の前に姿を現していた。
「おー。魔術の発動ちょーはええじゃん、えらいなー」
「……、ちょっ、と……何、だよ、アンタッ……」
「もっかい殺してやろうと思ったのに。残念残念。まあ思ってたより骨があるっつーことだな」
「……、はあ!?」
「お前昨日? あれもう一昨日? 一回殺しといたから。覚えてねーだろうけど」
何を言われているのか。
体を起こしてみるが、骨が軋むような感覚。強制的にブレーキをかけたようなものなので、あちこちが痛みを訴えている。とにかく必死だったせいか、どういう術式をどういう手順で展開できたのかさえもう分からない。
立ち上がったものの、立っているのは辛く、壁に身を預ける。ちらりと周囲を見回す、やけに人の気配がしないのは、人避けでもされているのだろうか。実際問題、屋上からの落下を見られていたら後が大変になってしまうので、人に見られていないならそれに越したことはない。
「……俺の左手が治ってたのも、氷がなくなってたのも、アンタの仕業?」
「お、そうそう。生き返らせるだけにするつもりだったんだけどちっと戻す地点を間違えてなー。まああれくらいなら誤差の範囲内ってことで」
「……戻す?」
「『ダル・セーニョ』、お前にはそれで大体想像つくんじゃね? 元ピアニストだろ」
「あー……時間遡行……?」
「ビンゴ」
それは律が知っている限り、ヒトには扱えない魔術だ。しかしこの男が『彼岸』――『カミ』なのであれば、その魔術を使用できても不思議ではない。ダル・セーニョ――目印の場所まで飛ぶことを指示する演奏記号、転じて指定したところまで時間を巻き戻す魔術という予想はつく。恐らく、指定した対象の時間だけを巻き戻すといったことが可能なのだろう。だからこそあのとき、律はただ倒れていただけという状況だったということだ。
この男は、律のことをよく知っている。『ウィザード』としての『茅嶋 律』を知っている、というわけではなく。律がピアニストであったことなど、普通はわざわざ調べることではない。身元も出自も生き方も隠してはいないので、調べればすぐに分かることではあるが。しかし『ウィザード』としてではなく、律個人として調べていなければ、そんな情報は不要の筈だ。
一体何者で、何の用があるというのか。
「……俺の指輪、返してくれる? 持って行ったの、アンタだよね」
「アンタアンタって呼ぶな」
「じゃあ名乗って」
「あー、ここんとこは『幸峰 巧都』って名乗ってんよ。気軽に巧都って呼べよ、ああ、別に愛をこめてたーくん、とか呼んでくれてもいいぜ」
「……何気持ち悪いこと言ってんの。じゃあ巧都? 指輪返してくれない?」
「これ?」
どうにも男――巧都のペースに神経が逆撫でされてしまう。そう思いつつも指輪を催促すれば、巧都はあっさり指輪を取り出した。それは間違いなく、律の指輪だ。返せと手を差し出せば、にぃ、と巧都は笑う。
「交換条件だ」
「……なに」
「お前の銃を出せ」
「……断る」
「じゃあこれは返せねえなあ」
「ていうか指輪も銃も俺のだし、アンタに奪られる筋合いはない」
「あの銃はお前のじゃねえ。玲のだろ」
瞬間、背筋が凍った。――どうしてこの男から、その名前が出るのか。
忘れもしない、恭の姉。柳川 玲。どうしてその名前を、そしてどうして律の銃が、玲から引き継いだものと知っているのか。
幸峰 巧都。間違いなく『カミ』であるこの男は、一体何者なのか。どうして律のことを知っていて、玲のことまで知っていて、何の為に銃を。
「寄越せよ。交換だ。心配しなくても指輪に用はねえんだよ、元々銃貰うつもりだったのにお前が持ってなかったからとりあえず指輪頂いといただけだしな」
「……何で、玲先輩のこと」
「ああ? 俺はお前より玲とは付き合い長ぇからなあ。断るなら、頷くまでぶっ殺してやるし、この指輪は壊す」
空気が震える。張り詰めた空気、ビリビリと感じる殺気。先ほどの落下の時の魔術の影響か、律の身体の動きは鈍い。何より律が魔術を使ったところで、巧都はすぐに書き換えてしまうだろう。強さのレベルが――桁が、違い過ぎる。
おとなしく銃を渡したところで、本当に指輪を返してもらえるのだろうか。しかし、だからと言って銃は渡せない。指輪も、銃も、どちらも律にとっては大切な形見だ。わかりましたと簡単に他人に渡せるようなものではない。律の逡巡に気付いたのか、再び巧都は笑う。
「……ああ。別にそのまんま奪ってやろうとかそんなんじゃねえよ、お前が『条件』を満たせば返してやるし、場合によっては俺がお前に力を貸してやってもいい」
「……はあ?」
「茅嶋クンさあ、今、めちゃくちゃ『力』が必要だろ?」
「……」
「おとなしく銃を渡せ、そしたら指輪は返してやる。その上で条件を満たせば銃も返してやる、俺もお前に力を貸してやる。お前に損はねーよな?」
「……条件次第だし、『カミ』に力を借りるってことはそれなりにリスクが伴う。簡単には頷けない」
「おお、そこまで馬鹿じゃねーか。なら先に条件を提示してやってもいい」
律が今現在『力』が必要であることは事実だ。だからこそ、修行の一環も兼ねて厳しい仕事を課されている。その正体さえ分からないが、巧都が相当強い相手であることも事実で、今の律では完全に手も足も出ない。魔術を使ったところで書き換えられてしまうとなると、あまりにも相性が悪すぎる相手だ。律がこの『カミ』に勝つのは現時点ではどう頑張っても不可能で、抗ったところで一瞬で殺される。何度も生き返らせられて、何度も殺されるという地獄も味わいたくはない。
しかし、玲の銃は渡せない。あれは唯一、律と玲を今も繋いでいるもの。当たり前のように律の傍にあってくれる、大切なものだ。
「……悩むなよ茅嶋クン。俺はあの銃をどうこうしようって訳じゃねーよ」
「じゃあどういうつもりで」
「ちーっと預かるだけ。預かった上でお前が何処まで頑張るか見たいだけ。玲のモンに勝手に手出しするようなこたあしねえよ俺は」
「……アンタ、」
「巧都」
「……巧都は、玲先輩と一体どういう関係?」
「俺と玲の関係? 気になる?」
「……そりゃあ」
「元彼? まあ今も愛してるけど」
可笑しそうな声で、冗談のような口調。本当か嘘かは分からない。――玲は『彼岸』と関わりがあったかどうかを、律は知らない。その魔術の使い方に、『サモン』の契約による術式はなかったと記憶している。わざわざ手の内全てを晒す必要もないと言えばそれはそうだが、これほど強い『彼岸』の力を借りていたのなら、彼女は命を落とさなかった筈だ、とも考えてしまう。
意味が分からない。とはいえ、玲との付き合いは大学在学中、時間にして僅か2年半ほどの付き合いだった。玲のことについて知らないことがあっても不思議ではないし、『ウィザード』としての玲をほとんど知らない恭に聞いてもそれは同じだろう。知らないことの方が圧倒的に多いことは分かる。
胸の奥がざわりとして、息を吐く。――これは、嫉妬だろうか。
「……条件は」
「お? やる気になったか」
「そこを聞かなきゃ始まらない」
「条件は簡単だよ茅嶋クン。俺が何者か当ててみろ。『カミ』であることは分かってんだろ?」
「……それ以外の情報は一切なしで当てろって?」
「そうだな。玲のことを知ってる、必然お前のことも知ってる。幸峰 巧都と名乗ってる。それがお前に与えられる『情報』だ。そっから探せ」
「無茶苦茶言うね」
「そうでもねえよ。……ま、今日はここまでだ。銃渡せ。無駄に足掻くなよ、力の差はお前自身がもうよく分かってることだろ?」
拒否権はない。言外にそう言われている。
覚悟を決めるしかない。本当に巧都が律に銃を返してくれるかは分からない、しかしこのまま指輪を失っている訳にはいかない。力の差が圧倒的過ぎる、手も足も出ない。どれだけ悔しくても、今はこの交換条件を呑む他ない。
銃を取り出して、巧都の方へ差し出す。満足そうに頷いた巧都は、そのまま律の方へと指輪を投げた。慌ててキャッチすると同時、律の手の中から銃が消え失せる。
条件通り、律が巧都の正体に辿り着ければ、銃が返ってくると信じるしかない。ここで無理をして死ぬ訳にはいかないのだ。やらなければならないことは、山積みなのだから。
「ん、確かに。じゃあな茅嶋クン。またの機会に」
「このまま消えられると、俺が巧都が何者か分かっても伝えられないと思うんだけど」
「言ったろ、『またの機会に』。用が済んだら近いうちに会いに来るよ――またな」
ひらり。手を振って、巧都の姿が掻き消える。
途端気が抜けたのか、それとも威圧感が消えたのか。力が抜けて、律はずるずるとその場に座り込んだ。どうしたらいいのか分からない。幸峰 巧都、その正体を知るにはあまりにも与えられている情報が少なすぎる。どこから動けばいいのか、全く分からない。
落ち着かなければ。そう思うたび、思考が絡まっていくような気がした。