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20 訓練と番犬
死角から踏み込んだ筈の一歩目で目が合って、勢いを殺して体勢を変えようとした二歩目には、首根っこを掴まれて動きを止められる。ならばと勢いを殺さずに直前で軌道を変えても、結果は同じ。酷いときには視線すら向けずに動きを止められてしまう。それなら一歩目の位置が分からないように攪乱すれば、と動いたところで、結果は何も変わらない。
「も……もういっかい、おねがいしますっ……」
「駄目よフィオレ。立て続けやりすぎて、もう速度が全然出てない。一回休憩、ユリウスも」
「ふぁい……」
「はい」
ランドルフに首を振られた瞬間、力が抜けたようにフィオレはその場に座り込んでしまう。呼吸が全く整っていない。大丈夫ですか、と声を掛けつつ水を手渡せば、一気に飲み干した。その姿を見ながら苦笑するランドルフはと言えば、息一つ乱していない。それどころか、この訓練が始まってから、まだ一歩も動いていない。
見える範囲でフィオレの動きの記録を取っておいてほしい、という依頼は、ランドルフからのものである。依頼というよりも、それはユリウスに対する『訓練』なのだろう。こういったものは演算士の方が得意なのではないかと問えば、「だからよ」という返事だけが返ってきたので。
「さて、確認しましょうかね」
「あ、はい」
どうぞ、と動きの記録を残した覚書を渡す。後できちんとした報告書にして提出をするため、今あるのは走り書きだけだ。フィオレの動きを中心に、ランドルフの動きも記録できるだけ記録している。とはいえ、彼は本当に一歩も動いていないのだが。
じっと覚書を読んでいたランドルフは、そのまま懐から取り出した朱色の鉛筆を走らせた。はい、と返されたそれは、細かく添削されている。動きの向きの修正や、ユリウスから見えていなかった部分の補足。どうしてこんなに細かく把握しているのか、全く意味が分からない。
「ユリウスから見て、フィオレの動きはどう思った?」
「……あ、ええと。シモーネ先輩は小柄で敏捷性が高く、それがよく生かされている動きだと思います。ただ、仕掛ける際に一瞬動きが止まっているように感じるので、キャロル副隊長はそれでシモーネ先輩の位置を特定しているのではと思いましたが」
「成程。なかなかいいセンの分析ね」
「えー……あれでも速度保持に努めたのに、止まってますか……ひえー……」
「あとは……シモーネ先輩はキャロル副隊長が故意に作っている隙に飛び込んでいるだけなのでは、という仮説を立てたのですが……」
そうでなければ、ランドルフが的確にフィオレの動きを止められる理由が分からない。しかし、それに首を振ったのはフィオレだった。
「違いますー、明らかに誘い込まれてるなってところは基本避けてる! でもキャロル先輩絶対隙なんかいっつもないもん、どこ見つけてもわざとだからどうにかこじ開けたい……無理すぎる……」
「ふふ。まあ、隙は警戒するようになっただけ偉いわ、フィオレ」
「ううー……せめて! せめてちょっとでもキャロル先輩に掠るくらいのことは! できるようになりたい……!」
「無駄な動きを減らして体力を温存するところからね。じゃあもう一回やりましょうか」
「はい!」
二人の返事に、ユリウスは慌てて覚書を構える。どうして、どうやってランドルフはフィオレの動きを把握しているのだろう。目か、と思ったものの、明らかに死角からの襲撃にも対応している。それなら音なのか、もっと違う何かがあるのか。
だん、とフィオレが床を蹴る音。数秒後には繰り返される同じ光景を思いながら、ユリウスは神経を集中させた。
フィオレ=シモーネは輪廻士である。ひとたび任務となれば、小型の犬に変異して戦場を駆け回り、確実な成果を挙げて帰ってきては、ランドルフに褒められて尻尾を振っている、というのがユリウスの印象だった。変人奇人揃いの遊撃部隊において、割とまともな人間である、と思っている。同期のマタミスは時々何を考えているのか分からないし、先輩に関しては言わずもがなだ。
「フィオレがー……まともぉ……?」
訓練から数日後、食堂にて。たまたま一緒になったアーテムにその話を振ると、怪訝な顔をされた。思わぬ反応に、ユリウスは首を傾げる。アーテムとフィオレは仲が良い、食堂で話しているのもよく見掛ける。知らぬ仲ではない筈で、だからこそそれは意外な反応だった。
「えー……フィオレぇ……遊撃部隊だよぉ……?」
「いやそれは俺もですよ」
「ユリウスはぁー、らんらん先輩がー、採用してるからぁ……、フィオレはぁ、隊長採用の筈だしぃ……」
「へえ……?」
先日の訓練の内容を思い出す。一切魔術を使わないという条件で行われたその格闘訓練は、ランドルフが一歩も動くことなくフィオレの攻撃を悉く封じて、それで終了した。他の格闘訓練を見学したことのないユリウスにとっては、ランドルフの戦闘能力がおかしいことしか分からない。
「……んー、これぇ……言っていい話かなぁ……」
「何がですか」
「フィオレってぇ……全身変異しかできないらしくってぇ……常に全身変異となると、薬使っても身体への負担が大きすぎるからぁ……それでらんらん先輩に格闘術習ってるらしくって……いいなって言ったら死んだ目で『一緒にやる?』って言われてぇ……ちょーこわかった……」
「ああ……この間格闘訓練見せてもらいましたけど」
「らんらん先輩ー、やばかったでしょー」
「やばかったです」
「あれと渡り合うのはー、大体一等の隊長格なのでぇ……フィオレが敵わないの、当たり前なんだよねえ……」
度々ランドルフは一等への昇進を蹴っている。それ自体はユリウスも知っている。昇進の打診があるということは、彼は一等戦闘官としても申し分ない能力を持っているということだ。断る理由を本人に直接理由を聞いたことはないが、思い当たる節は色々とある――彼に昇進する気は全くないのだろう。
今のところ、ユリウスは戦場の真っただ中にいるフィオレ、というものを見たことがない。しかし、ランドルフがフィオレを信頼しているのは分かる。先陣を切って戦場に飛び込んでいく彼女の姿は生き生きとしていて、犬に変異した状態の彼女の動きは、ユリウスの目ではまだ追えない。
いつか、分かるようになるのだろうか。そわりと心に触れるのは劣等感だ。ユリウスのお陰で本当に助かる、とランドルフは笑ってくれるが、癖の強い面々の中、自分が役に立てているとは思えない。
「……シモーネ先輩もまともじゃないなら、何で副隊長は俺を採用したんでしょう」
「えー? 内務班、欲しかったんじゃんー?」
「採用は内務班としてではないので」
「そりゃあ遊撃部隊だもん……羨ましいけどぉ……やばい……」
はあ、と机に突っ伏すアーテムを見ながら。ぐるぐると頭の中を渦巻く疑問に、ゆっくりと瞬いて思考を締め出した。