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08 白兎と香水
不意に嗅ぎ慣れない甘い匂いがして、フィオレはくん、と鼻を鳴らした。変異の姿が犬であるせいか、フィオレは嗅覚と聴覚に優れている――流石に変異せずに嗅ぎ分けることは難しいが。更に言えば抑止庁の人間で匂いも音もしない職員は多くはないが少なくもないので、正直嗅ぎ分けや聞き分けが役に立つことは少ない。侵入者に気付ける程度のもので、しかし抑止庁に侵入してくるような人間もまた匂いや音は希薄なのだった。
こんな甘い匂いは、少なくとも抑止庁内では嗅いだことのない匂いだ。食べ物でもなさそうで、どちらかといえば花の匂いのような。
がちゃり、と扉が開いて、入ってきたのはランドルフだった。きょとんと首を傾げたフィオレに気付いて、ランドルフも首を傾げる。
「どうしたのフィオレ、変な顔して」
「……キャロル先輩からいいにおいがするんです?」
「いい匂い? ……ああ、これね」
ごそ、と手に持っていた紙袋から取り出されたのは、薔薇を象った瓶だった。中には淡紅色の液体が揺れている。よく見ればランドルフが持っている紙袋は彼が気に入って着ている高級服飾店、『雪街』のものだ。改造制服の図案も頼んでいるというから、余程懇意にしている服飾図案者がいるのだろうとは思っている。一度着てみたいとは思うものの、なかなか気軽に手を出せる値段の店ではないのが辛いところだ。
「香水ですか?珍しい」
「私は香水つけないからって言ったんだけどね。『雪街』、今期は調香師と組んで『香りと楽しむ服』っていう発想をしているらしくって、これは是非私にって服と一緒に頂いちゃったのよ」
「へえー」
薔薇、という主題で創っているものであるならば、確かにランドルフに似合うだろう。彼の紅の瞳は薔薇を思わせる深い紅をしている。或いは『雪街』の人間がランドルフから薔薇の着想を得て創ったのかもしれない。
「キャロル先輩がつけるには匂いがだいぶ甘いような……?」
「それがこれ、つけると意外とすっきりした匂いなんだそうよ。試してみる?」
「今絶対駄目です仕事に響きますぅ……それに香水苦手で……」
「そうよねえ。私も休日でもこういうのはつけないし……どうしようかしら」
「調度品として使うのも可愛いんじゃないですか?光の当たるところに置いてると綺麗かも」
「万が一のことを考えるとね。瓶は割れるから」
「ああ……」
うっかり割れでもすれば、匂いがついてしまう、ということだろう。ランドルフも匂いのしない側に分類される、普段から気を付けているに違いない。ランドルフが困っているなら引き取りたいのは山々なのだがしかし、フィオレに香水が辛いのは事実であり、それをランドルフも分かっている。何より、ランドルフとしても貰い物である以上粗末には扱えないだろう。
うーん、と考えつつ、ふとまだ紙袋が膨らんでいることに気付く。――『香りと楽しむ服』、ということは。
「……もしかして服も貰ったんです?」
「ええ、そうなの。外套をね。見る?」
「見たいですっ」
取り出された外套は裾の長い黒の革製の外套だ。普段ランドルフが着ている私服のものと雰囲気が似ている。違うのは、深紅の裏地。細かな刺繍は薔薇を思わせる雰囲気のものとなっている。目を輝かせてランドルフを見上げれば、意を汲んだランドルフが苦笑交じりに外套を羽織ってくれた。長さはあるものの腰から下の中央部分に切れ目が入った仕様になっているからか、ふわり、と裾が舞うと花が咲いたように折襞になっている深紅の布が軽く広がる。それでいて着ると派手さはなく質素で上品な雰囲気を醸し出していて、まるで誂えたようにランドルフに合っていた。
きっと、この服に香水を合わせれば。ふわりと裾が舞う度、薔薇の香りが広がるのだろう。そう想像出来るのが、流石高級服飾店の仕事だと思わせてくれる。
「かっこいい……」
「なかなか着心地がいいわね、これ。動きやすそうだし……こっちは有難く頂きましょう。香水はアーテムにでもあげましょうか、あの子なら大丈夫でしょうし」
「えーアーテムずるい」
「じゃあフィオレが持って帰る?」
「無理ですけどぉ……」