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06 白兎と氷音
アーテム=クルーグハルトは悩んでいた。
幼い頃から気が弱かったアーテムは、それでもいつかは魔術犯罪抑止庁に入ることを夢見ていた。子供が英雄に憧れるように、制服を着て犯罪者と戦う抑止庁の職員、特に戦闘官は格好良く、いつかああなりたいという憧れをアーテムは持ち続けていたのだ。
それでも、気が弱い性格が変わることはない。前線に立って犯罪者と戦うなんてことは無理がある、と早々に自分に見切りをつけた。憧れがない訳ではないが、自分にあんな仕事ができるとは思えない。だからこそ、戦闘官を裏で支える内務の人間として関わることができたら幸せだ。というのが、抑止庁に入庁する際のアーテムの希望だったのだが。
「なぁんでー……」
「お? アーテムどうした、元気ねえじゃねえか」
「せっかくの夜勤だぜ、ぱーっと景気付けに一杯やるか?」
「いやっ、えっとっ、大丈夫ですー! なんでもないですー!」
周りを取り囲むのは強面の先輩たち。いちいち怯えてしまうアーテムの反応が面白いのか、どうにもすぐ絡まれてしまう。同じ隊で働く仲間なのだから怯えなくて良いのだと頭では分かっていても、性格として難しい。うひゃひゃひゃ、と笑う声を背に、アーテムは部署を飛び出した。
無事に抑止庁に入庁することはできた。そこまでは良かったのだ。――配属先が、元犯罪者である『懲役組』が多数を占める隊である強襲部隊でさえなければ。いや、せめて戦闘官と共に現場に出る補助官としての配属でなければ。
共に強襲部隊に配属された同期のほとんどは脱落していった。残っているのはアーテム以外『懲役組』で、隊全体としてもアーテムのような『就職組』は非常に少ない。どうしてそんなところに配属されてしまったのか。そもそもアーテムは歌や音を使って魔術を使う歌唱士であり、自分では魔術も大して使えないと思っている。得意な系統は妨害魔術ノイズと、申し訳程度に回復魔術アリアが使えるだけだ。どうしてそんな自分が補助官として戦闘官と共に現場に出ることになっているのかが理解できない。一応恐る恐る内務班の上官に尋ねて見たところ、すげなく「そういう人事だから」という返答が返ってきただけだった。
現場でひとたび戦闘となれば怯えて逃げ回ってしまうような自分では、今の立ち位置にいても何の役にも立てない。きっと内務班では役立たずだからいらないと言われてしまったのだろう、と考えてしまう。他の辞めていってしまった同期たちと同じように、適当に現場に出して早く辞めさせようとしているのかもしれない。そんなことを鬱々と考えながら、ふらふらと抑止庁の廊下を歩く。
早いうちに辞めてしまった方が良いだろう、という考えが頭の中を埋め尽くしている。――でも、ずっと憧れていた職業なのに。その気持ちが胸の奥で疼いていて、なかなか踏ん切りをつけることができない。或いは、辞める勇気さえないのかもしれなかった。
「あら。どうしたの、辛気臭い顔してるわね?」
「はえ……?」
聞こえた声に、顔を上げる。長い外套のような形の黒い戦闘服に身を包んだ白髪紅瞳のノスタリアの男が、廊下の窓枠にもたれかかるようにして立っていた。その姿に見覚えがある。入庁式の時に見掛けて、主にノスタリアの同期が――自分もノスタリアだが――ざわめいていた。『白兎』、遊撃部隊副隊長。
「ああ、貴方はツヴァイ隊長のところの新人くんね?アーテムくん、だったかしら」
「えっ!? あ、ひゃ!?」
「別に取って食う訳じゃなしそんな吃驚しなくても」
「いやっ、え、あ!?」
何故かの有名な遊撃部隊の副隊長が自分の名前を知っているのか。そんな目立つことをしただろうかと不安になるが、身に覚えが全くない。どうしたの、と首を傾げられても上手く説明できずに、アーテムは俯いた。
「ああいけない、初めましてよね。私はランドルフ=キャロル、遊撃部隊の副隊長を務めてます」
「ひゃ……知ってます……あ、あーてむっ、くるーぐ、はるとっ、です」
「ふふ、よろしくね。私のことは気軽にランちゃんって呼んで頂戴」
「いやいやいや!?」
恐れ多い。ぶんぶんと首を振って否定するアーテムを見て、おかしそうにランドルフは笑う。強面の先輩たちとは違い、ランドルフの見目は『美しい』の一言でしか言い表せない。アーテム自身はサイレン出身ではないが、サイレンで彼が持つ『白髪紅瞳』がどういう意味を持っているかくらいは知っている。
精霊に最も近しい、ノスタリアにとっての至極の色彩。
それがなくとも、ランドルフは他の隊の所属とはいえ副隊長だ。気軽に話してよいのだろうか。どうにも緊張してしまって、背筋がぴんと伸びる。
「ところで。随分沈んだ顔をしていたけれど、何か悩み事かしら?」
「あの……ええと……」
「うちの子たちも大概だけれど、そっちも大変でしょう。此処で会ったのも何かの縁よ、お姉さんに話してみなさい」
男の人じゃないのか、という考えは喉の奥に仕舞い込んだ。彼に女と見紛うような中性的な雰囲気は特にない。話し方は女性的であっても、その見た目は筋肉質で男の体そのものだ。彼の話し方を何となく違和感もなく受け入れてしまうのは、彼の美しさ故なのだろうか。それとも。
「ぼく……いやあのおれ……ええと……」
「うん。ゆっくり話して大丈夫よ」
「うっ……」
ランドルフの優しい声に、反射的にぽろりと涙が溢れ落ちた。驚いたようにランドルフが目を見開いたのが分かったが、一度溢れてしまったものはもう引っ込まない。堰を切ったようにボロボロと涙が溢れ出す。
恐らくはずっと恐怖で気を張っていたせいなのだろう。この時機に急にこんな優しさに触れてしまうと、どうしたらいいのか分からない。泣きじゃくるだけのアーテムの背中を困ったように撫でながら何も言わないランドルフに安心して、口からぼろぼろと言葉が溢れる。ずっと抑止庁の職員になることが憧れだったこと。晴れて入庁できたはいいものの、希望とは違う部署にいること。同じ部隊の先輩たちが怖いこと。自分は向いていないのではないかと考えていること。いっそ辞めた方がいいのではないかと悩んでいること。話し終える頃にはようやっと涙も落ち着いて、よしよし、とランドルフが頭を撫でてくれる。
「……アーテム。貴方、勝手に自分に『向いていない』と思っているようだけれど、私は向いていると思うわよ。まあ、度胸がなくて怖がりなのはどうにかしないといけないでしょうけど」
「へ」
「妨害するのも回復するのも、戦闘時に必要な能力でしょう。先陣を切る身としては、後方で補助官がそうやって手助けしてくれるっていうのはとっても助かるわ」
「でも……こわいし……逃げ回るしかできないしー……」
「適性があるという判断で配属されているんだから、好機と考えていいのよ?大丈夫、もっと自分に自信を持っていいの」
「う……」
「あと多分貴方の部隊の先輩たち、貴方の反応が可愛くて遊んでるだけだから」
「あそ……!? かわ……!?」
「大丈夫、もう少し自信を持って、胸をしっかり張ってなさい。前向いてないと、可愛い顔が台無しよ」
アーテムの頬に触れて、ね?とランドルフが柔らかく笑む。止まった筈の涙がまたはらりと溢れて、その雫は親指の腹で拭われていった。
向いている。適性がある。そんな風に考えたことは一度もなかった。本当にそうなのだろうか、それは分からない。ただの慰めかもしれない。それでも何故か、この人を信じてみようという気持ちが自然と湧いてくる。
「がんっ……ばり、ます」
「ん、よろしい」
「あのっ、おれ……」
「あー! キャロル先輩こんなところに! すいません御報告が!」
「ああ、行くわ。ごめんねアーテム、またね」
「あっ、はいっ」
ひらりと手を振ったランドルフはそのままアーテムに背を向けて、声の主のバリアルタの方へと歩いていく。遠ざかっていくその背中をぼおっと見つめて――はっと我に返って、アーテムはぶんぶんと首を振った。制服の裾でごしごしと目元を擦る。
所属は違う。それでもいつか、あの人と一緒に仕事ができたら。あの人の助けに慣れたら。
行く宛のなかった気持ちに、目標ができたのを感じる。その為には頑張らなければ。向いているとお言ってもらえた、自信を持っていいと言われた。いつかそう言ってよかったと思ってもら得るような自分になりたい。あの人にそう思ってもらえたら、きっとそれは何よりも『幸せ』だ。
ひとまず、当てもなくうろついていても仕方がない。覚悟を決めて部署に戻ろうと決めて、アーテムは来た道を戻り始めたのだった。
――どう見ても泣いたあとの顔を散々弄られて、やっぱり辞めたいと悩むまであと数分。