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「はいはーい、おっはよーございますー」
「いっ……!?」
意識が覚醒したのは唐突に。腹部に走った激痛で、恭は意識を取り戻した。何が起きたのかと思えば、最初に目に入ったのは恐らく今日の腹部に一撃を入れたであろう人物だった。
「……えっ何で郁真くんがいんの……」
「しっつれーですねー。僕はー、橘先輩がいるところにはー、大抵いますねー」
「……今聞いちゃいけないこと聞いた気がするの何でだろう……」
どうして憂凛がいるところに郁真あり、になっているのかは分からないが、恐らく深く考えない方がいい。
郁真に起こされる前に何があったんだっけ、と思い返す。白いきつねがぶわりと飛んできた記憶――あの狐を、恭は知っている。渚の『式神』だ。――渚は、どこに行ってしまったのか。
「あ、っつぅ……っ」
「いたそーですねー? 今なら余裕で柳川先輩殺せそうですよねえ」
「殺さないで……」
生き返ることができた今の状況で、殺されたくはない。
恭の願いを聞いているのかいないのか、郁真は心底楽しそうににこにことしている。渚が出て行ってからどれくらい経っているのか。そもそも渚がここに来たのが何時ごろだったのかが分からない。外の様子を見る限り、現在時刻は夕方だろうか。
「柳川先輩ってー、橘先輩のことー、やっと思い出したんですよねえ」
「……ソウデスネ」
「そりゃあよかった。それでこそー、殺し甲斐があるってもんですー」
「……いや、お願いだから殺さないで……ゆりっぺは?」
「橘先輩? 一回ここに戻ってきてましたけどー、柳川先輩が爆睡してたのでー、一回おうちに帰ってますよー。着替えとかー、取りに?」
「……よく知ってるね……?」
「ふふん」
「褒めてないな!?」
憂凛が家に帰っているということは、渚のことは恐らく知らないのではないかと思う。教えなければならない――渚のことを、探さなければ。渚を死なせてしまうわけにはいかないし、何よりどうして渚が殺されに行くと言うのかも分からない。
スマートフォンは手元にないままだ。ノートパソコンを開けば『分体』が、と手を伸ばして、しかしその手は何故か郁真に掴まれる。思わず郁真に視線を向ければ、郁真は変わらずにこにこと笑っていた。楽しそうに。
「ねえー、柳川先輩? 今回の事件ー、おかしいと思いませんー?」
「……へ?」
「僕ねー、橘先輩がー、えーっと、誰だっけ。まつざきさん? 探し出した頃から、何か役に立てないかなあって結構独自に色々調べてたんですけどー、どうにもおかしいんですよねえ」
「……どゆこと?」
何がおかしいというのか。
今回起きたこと。響が小夜乃に復讐をするために起こした事件。恭の中にある憂凛に関する記憶を消して、トラウマに変えてしまうことで『彼方』へと引き摺って、小夜乃を殺させようとした。恭の中の大まかな認識はそうなっているが、しかし分からないことは――渚が誰を探していたか、だ。
憂凛に何も言うことなく、動いていた。渚の目的だけが、今になってもよく分からないままだ。響と柑奈の二人と一緒に動いていたらしいが、その目的は何だったのか。最初に奈瑞菜と一緒に渚に会ったとき、渚は『彼方』の人間に憂凛のことを聞いていた。渚を探しに行った理由は『彼方』狩りの話、力を引き剥がされていると言っていて、しかし渚はそんなことはしていないと言っていた。
――なら、誰が。
「ふふー。お馬鹿な柳川先輩でもー、分かるでしょ?」
「……もうひとり、誰か、いんの……?」
「そうです、恐らくー……誰でしたっけ? まあ誰でもいいや、今回の事件の犯人の2人の上に『もうひとり』居るんですよねー、松崎さんの狙いはそこかなー」
「それ、誰なの?」
「さすがにー、僕はまだー、そこまではー。ていうか松崎さんー、多分ですけどー、自分が調べたこと、誰にも言ってないでしょうしねえ」
もうひとり。その誰かが、憂凛を狙っているのだろうか。だから渚は、その人を探していたのかもしれない。
しかしそうなると、どうして渚はその誰かを探し始めたのか。そしてどうして、殺されに行くなどということを言うのか。そう考えると、憂凛に何かが起きるから、という考えがそもそも間違えているのかもしれない。憂凛が気付いていないこと、そして郁真が調べられていないこと。
誰も知らない、渚だけが知っていること。
「……やっぱ松崎先輩、追いかけなきゃ」
「そんな身体で?」
「あのひと、『殺されに行く』って俺に言った、ってことはそもそも勝てない相手に喧嘩売りに行ってるってことで、じゃあ助けなきゃ」
「もっかい聞きますけどー、そんな身体で?」
「郁真くん、」
「おとなしくしててくださいよー? 柳川先輩は、僕の獲物です。僕以外の人に殺されたらー、怒りますよ?」
にこやかに、変わらず郁真は笑っているが、その目は全く笑っていない。しかし、このまま放置することはできない。誰かが――渚が死ぬかもしれないのに、じっとしているわけにはいかない。
「手離して、郁真くん」
「だめですよー」
「なんで!」
「どうしても行くならー、行って殺されるならー、ここで、僕に、殺されてくださいよ?」
「何で殺されるって決めつけて」
「松崎さんが殺されに行くならー、そういうことでしょ? 柳川先輩、弱っちいですし」
「っ……」
「それにー、ここで柳川先輩が行っちゃうとー、きっと松崎さんの計画はぱーです。あのひとはー、何の考えもなくー、殺されに行くような人じゃあない、と思いますよー? 命懸けでやろうとしていることをー、止めようとするのは野暮、ってもんですー。本当に殺されるかどうかは分かんないですしー、ここは静観するが吉、ですねー」
渚が考えていることなど、恭には分からない。しかし、その計画の先に渚の考えている『万が一』があるのだとしたら。
ぐぐ、と恭の手を掴む郁真の手に力が入る。その力の強さに、思わず表情が歪む。郁真は今、恭が行くと言えば本当にこの場で恭を殺すだろう。そして恭には今、それに抵抗するすべがない。
今恭に何かが起きても、律は助けには来ない。
「……ッ」
「ふふ、諦めましたー? ま、僕は松崎さんがどーなったって、別に関係ないですけどねえ」
心底楽しそうに、郁真は笑う。その笑顔は、とても暗いもの。
忘れてはならない。郁真は――『シャーマン』、『彼方』の人間だ。
「僕としては基本的にお姉ちゃんと橘先輩と柳川先輩のこと以外、特に興味がないですしー。みーんな死んじゃえばいいし、みーんな絶望しちゃえばいいんですよー」
そんなことを言いながら没収しまーす、と郁真にノートパソコンを取られて、ナースコールも取られて、恭の手が届かないところへと移動させて。そしてじゃあ、と郁真は病室を出て行ってしまった。
渚が来たときにどうしてノートパソコンを閉めてしまったのかとうなだれたところで、時間は戻らない。『分体』が画面に出てきてくれているときであればよかったものの、そもそも恭のノートパソコンにはマイクがついていない。恭と渚や郁真との会話は、恐らく『分体』には把握できていないだろう。そして今現在、声を掛けたところで『分体』は反応しない。いつもスマートフォンにいるので気にしたことはなかったが、今後は気を付ける必要があることだけは覚えておこうと心に決める。
腹部が痛まないよう気を付けながら、ゆっくりと体を起こす。どれだけゆっくり動かしたところで、ずきりと走る痛み。この状況で歩くのは難しいだろう。これ以上動ける気もしない。
気になることは多い。渚のことも、小夜乃のことも。小夜乃が意識不明の重体であるということは、響と何かがあったのだろう。恐らく律は知っているのではないだろうかという予想はできるが、今は聞いても教えてはくれないだろう。そうなると自力で調べるしかない、しかしその前にやはり渚を探さなければならない。
――今の状況で、何ができるというのか。
「っ……く、っそ……」
どうしてこんなに、何もできないのだろう。
結局、『ヒーロー』の力を持っていても、誰も助けられないまま。自分ばかり助けてもらっていて、それではこんな力を持っている意味がない。
強くなりたい、きちんと誰かを守れるように。目の前で誰かが死んでしまうのは、嫌だ。誰かが死んでしまうかもしれないのに、それを助けることができない自分は、嫌だ。
助けたい、そのために強くならなければならない。どうすれば強くなれるのか。――どうすれば、律の隣に並んで戦えるのか。
『友達を死なせるなよ』
そう言った玲の言葉を思い出す。玲は一体、恭に何を伝えたかったのか。そして、何を知っていたのか。会いたくても、知りたくても、それは叶わない。自分で気づく他ない。
不意にがらりと扉が開く。のろのろと顔を上げれば、手に大きな鞄を持った憂凛の姿がそこにあった。
「……ゆりっぺ」
「あ、恭ちゃん起きて大丈夫なの? 身体痛くない? 無理しない方がいいよ、治り遅くなっちゃう……」
「ゆりっぺ、どうしよう……」
「……恭ちゃん?」
声が震える。頭の中がぐちゃぐちゃになっている。どこから何を憂凛に伝えればいいのかも、もう分からない。
――もう、理解できている。渚を探すということは、死ぬかもしれないことだ。郁真が言っていることは正しい。今ここで恭が憂凛に渚の話をすれば、絶対に憂凛は渚を探しに行くだろう。それはつまり、憂凛を危険に晒すことになる。だが、憂凛に渚のことを黙っていることが、果たして正しいのだろうか。
『憂凛のこと頼む』
どんな気持ちで、渚はその言葉を残していったのだろうか。
何も言葉にならないまま。頬に伝う涙を、拭うことさえできなかった。
数日後。ようやっと痛みも落ち着いて、歩くこともできるようになって、退院許可が出た。新しいスマートフォンは律が手配してくれていて、入院中にわざわざ桜が届けに来てくれた。桜に律はどうしているのかと尋ねれば、仕事でアメリカに行っているとの返答に肩を落とす。一言くらい声を掛けてくれてもよかったのではないかと思うのだが、会えば余計なことを言ってしまうからという思いもあるのかもしれない。
渚のことは結局、憂凛には伝えられないままでいる。どうしても郁真の言葉が頭を過ってしまう。それでも放置しておけるわけもなく、『分体』には頼んで渚の行方を追ってもらっている。今のところ、全くと言っていいほど情報がない。完全に行方不明になってしまっている。死んだ、殺されたといったような情報も上がってこないのが唯一の救いだ。大丈夫だと、そう信じるしかない。
そして小夜乃には、会わせてはもらえなかった。疲労困憊の琴葉に会わせてほしいとは頼んだが、どうしても駄目だと首を横に振られた。ほとんど寝ていないのであろう琴葉にあまり無理を言うことも、さすがにできない。
「恭ちゃんほんっとに一人で帰るの? 桜ちゃんのお迎えもお断りしたんでしょ? だいじょうぶ?」
「大丈夫ー。行くとこもあるし」
「行くとこ?」
「うん」
強くなりたい、と思う。それ以上に、強くならなければならない、と思う。それがどういうことなのか、まだ恭の中でははっきりしていない。時間がどれだけあるかも分からない状況で、のんびりしているわけにはいかない。渚のことを助けに行かなければならないし、『万が一』のときの頼みを聞くわけにもいかない。――どうして『万が一』の際は恭が渚を殺すことに繋がるのかも、まだ分からないまま。
心配そうな表情の憂凛に、恭は笑ってみせる。大丈夫だと、自分に言い聞かせるように。憂凛はいつか、渚のことは自力で辿り着くかもしれない。その際に言わなかったことを責められるかもしれない、怒られるかもしれない、泣かせるだろうし嫌われるかもしれない。しかし憂凛のことを頼まれてしまった以上、恭としてはやはり憂凛のことは巻き込めない、と考えてしまう。
渚が何を考えているのかは、今になっても分からない。しかしひとつだけ、確かなことがある。
渚にとって、憂凛以上に大切なものは、きっとない。
「……ゆりっぺ」
「なあに?」
「俺、絶対、強くなるから」
「……恭ちゃん?」
「頑張るから……だから」
言葉が出てこない。渚はどうして、恭にあんなふうに言い残していったのだろうか。この先、何が起こるというのだろうか。
漠然とした不安と、確かな恐怖が、恭の心の中に住み着いて離れない。
「恭ちゃん」
はっきりと恭の名を呼んだ憂凛が、笑う。それは記憶の中にある笑顔と何も変わらない、明るい笑顔。
「大丈夫だよ」
「……ゆりっぺ」
「恭ちゃんなら、絶対大丈夫!」
きっとその言葉に、根拠なんてない。しかしそれは、恭にとっては何より力をもらえる言葉。
すごいな、と思う。それは彼女だからこそのもの。
「ほんと、俺、助けられてばっかだ……」
「ん?」
「ありがと、ゆりっぺ」
いつも憂凛は力をくれるのに。最低だな、と恭は目を伏せる。渚のことを憂凛に言えないまま、この先がどうなってしまうのかも分からないまま。
どうして渚は、憂凛に何も言わずに一人で決めて勝手にどこかに行ってしまったのか。どうして殺されに行くと言ったのか。
どうしてあのとき止められなかったのか。それを、この先引き摺り続ける後悔にしたくない。
「……ごめん」
小さく呟いた言葉は、憂凛に聞こえてしまっていただろうか。