Colorless Dream End

16

 頭の理解が追いつかない。
 どうしてこの場所に、スペインで出会ったリノが現れるのか。そして今、柑奈は確かに「あるじさま」という単語を発した。ということは、彼女の言う「あるじさまの仇討ち」というのは、リノの仇討ちということになる。

「悪い子だな、カンナ。俺は仇討ちなんて命じた覚えはないよ」
「けれどあるじさま、」
「挙句にカヤシマに連なる人間に手を出すだなんて以ての外だ。俺の魔術で辛うじて動けるだけの人形如きが、そんな勝手をして許されるとでも思っていたのかい」
「っ……」
「すまなかったね、リツ。俺のいない間に馬鹿をやらかしているようだ」
「……どういうことですか」

 尋ねながらも、ここにきて全てのピースが嵌っていく感覚を感じる。思い返せば最初の頃、確かに感じた筈のこと。タイミングよく何もかもが繋がっていくかのような、誰かに仕組まれていくかのような。確かにそう感じた筈の感覚を、すっかり放念していた。
 誰かが何かのために作り出した筋書きの上を、ずっと歩かされている。誰が、何のために。

「ああ、先に言っておくけれど俺は今の君と喧嘩しようだなんて思ってないよ。大体今の君はユキノの加護を受けているだろう? 死にたくないからね、絶対戦わない」
「……いや、そう言われても、場合によっては俺はそういうわけにはいかないんですけど」
「だろうねえ。……全く、面倒なことになったな」

 苦笑しながらリノの視線は律から離れて、そしてその赤い瞳が柑奈を射貫く。ひ、と小さな悲鳴が聞こえたと思った次の瞬間にはどさりと鈍い音。何かの魔術を発動させたようには見えなかったが、糸が切れたように柑奈の身体が地に伏してぴくりとも動かなくなっている。一体何をしているのかが、全く理解ができない。

「さて。この件に関わっているのは、後はヒビキとナギサだね」
「二人ともお知り合いですか」
「まあね。ナギサとはちょっと取引して、サヨノのことを調べてもらったこともあるし。あの子は自分から他人に手を貸すようなタイプじゃないから、何か目的があってヒビキやカンナといるのかな。ああ、もしかしたら騙されたかもしれないね。ああいう真面目で疑り深い子ほど騙しやすい」
「……響くんとはどういうお知り合いです?」
「彼が高校生のときにたまたま拾っただけだよ。彼には復讐したい『ディアボロス』がいるとか言うから、面白そうだなあと思って」
「それがシャロン=マスカレードだったから、あなたと利害が一致していた、ってことじゃないんですか」
「おやおや、そう怖い顔をしないでくれよ、リツ。それに君は俺と呑気に話している場合かい? キョウとユリがどうなっても俺は知らないよ」
「……貴方は一体、何をどこまでご存じなんですか」
「さて、ね?」

 リノは笑う。つかみどころが全くないその笑みに苛立ちを感じながらも、確かにリノの言う通り今こうして彼を問い詰めている場合ではない。『彼岸』の『領域』の中に取り込まれている可能性の高い憂凛と、そして恐らくこの洋館の中のどこかにいるのであろう恭。憂凛には『黄昏の女王アリス』もいる、そう考えればあまり心配する必要はないかもしれないが、万が一の可能性を捨ててはいけない。
 ――何より、渚は一体どこにいるというのか。
 律の前に現れたのは、柑奈だけだ。恭を連れ去ったのは響だろうことは想像がつく、ということは今恭の傍には響がいると考えるのが妥当だろう。ならば渚は、一体。

「……憂凛ちゃんの足止めが渚くんの可能性もある……?」
「ん?」

 渚が憂凛のことを傷付けるとは全く考えられないが、しかし相手は『サイコジャッカー』だ。となれば万が一、渚が憂凛のことを別人だと思い込まされてしまう可能性もある。
 もし渚が『彼岸』の『領域』の中に居て、そして憂凛もその場にいると仮定した場合。その『領域』には、一体どうやって入ればいいのか。

「君は可能性をしっかり追うタイプか、なるほど。ちなみにリツ、君はキョウとユリどちらを助けたい?」
「……それはどういう意味で言ってます?」
「ユリを助ける、その間にキョウが死んでしまうかも。逆にキョウを助けたら、その間にユリが死ぬかもしれない」
「……」
「君が優先するとしたら、どっちなのかな」

 ――優先。
 急にそんなことを言われても困る、としか返せない。律としては当然どちらも助けるつもりでいるが、しかしリノに対して何でそんなことをわざわざ聞くのかとは聞き返せなかった。
 リノは何かを知っている。律が持っていない情報を、確実に手元に持っている。もし今、どちらも危ない状況なのだとしたら。そうだとすればそれこそ、今こんなところで悩んでいる時間などない。

「……どちらも助けます」
「つまらない答えだ。綺麗事だね」
「どちらかを貴方が助けてくれるという選択肢はないんですか?」
「んん……、まあカンナが余計なことをしたからね。ナギサに関しては俺は手を貸してもいい。けれどキョウかユリを助けろと言うなら、俺は君に対価を要求したいな」
「それは例えば」
「シャロン=マスカレードを殺してくれと、君に頼んでもいいのなら、だ」
「……翼を取り返したい、倒したいわけじゃないって言ってませんでしたか」
「いい記憶力だ。でもね、彼女が生きている限りこういうことが起こるのであれば、殺してしまった方がいいだろう?」

 シャロン=マスカレード。三条 小夜乃。律は結局、彼女とゆっくり話をすることはできていない。今の律には、彼女がどういう人間なのかは全く分からない。
 だが一つ確かなのは、彼女が恭の友人であるということだ。律に恭のことを話してくれた小夜乃は、本当に恭の身を案じていた。あの姿は嘘ではないだろう。現状、その彼女を殺してほしいなどと言われたところで、律は頷くわけにはいかない。――何より。

「そんなことが対価にされるほど、今の二人は危険な状況にいる、と?」
「さて? それは知らないな」
「気に喰わない人だな……」
「はは。よく言われるよ」

 飄々と嘯いて、さてどうすると笑うリノに誠意など全く感じられない。この男を頼ってはいけない、と頭の奥で警鐘が鳴り響く。どうなってしまうか分からない。
 リノと関わってしまった自分を呪う。あのときあの洞窟で放置してしまえばよかった――依頼上、そんなことは不可能ではあったとしても。
 考える。優先順位。今、律が助けるべきなのは。

「……恭くんだったらきっと何とかなる」
「へえ?」
「俺はあの子のこと、信じてますから」

 恭自身は、それほど強い実力を持っているわけではない。それでも、今回の件では本当に辛い目に遭ってしまっていたのに、それでも恭の心は折れていなかった。その強さは感服に値する。――まだ戦える、そう信じたい。
 そう信じることしか、今の律にはできない。

「俺は憂凛ちゃんを助けに行きます。という訳で、その辺にある『彼岸』の『領域』をこじ開けて貰えますか。それくらいならそんな対価は発生しないことだと思いますけど」
「ああ。好き勝手した詫びに、ということだね」
「そうです」
「キョウがどうなってもいいのかい?」
「この程度でどうこうなるようなら、『茅嶋』の相棒なんて務まりませんよ」
「言うね」
「……俺が生きているのはそういう世界ですし、それは貴方もでしょう」
「はは、ご尤もだ。――ネヴァン」

 ばさり、と、大きな羽撃きの音。そしてふわりと舞い降りた漆黒の鴉が、リノが上げた右手の上に止まる。律を見る紫電の瞳は、スペインで見たあの女性と同じ瞳。

「開けてやってくれるかい?」
『全ては我が主の仰せのままに』

 聞き覚えのある声。それが聞こえた、と思った瞬間、目の前が真っ暗になった。


 一瞬で目の前に広がる風景が変化していく。眼前に広がったのは、先ほど柑奈と戦った際と似たような場所のようにも見えた。ぐにゃりと歪んだ、神社のようにも見える場所。現実にはあり得ない酷く濁って歪んだ色彩が、視界を薄暗く見えにくいものにしてしまっている。

「……、あ、渚くん!?」

 鳥居のような柱に寄りかかるようにして、力なく座り込んでいる人影。それは確かに渚だという確信はあるが、しかし律が知っている彼とは少し違うようにも思える。
 今、そこにいる彼は『陰陽師』――しかし、どこか『外法使い』に近いような。
 柑奈に入れ替えられてしまったのか、それとも自分の意思で今現在はそういう形を取っているのか。どちらであるにしろ、完全に『彼方』になっているということはなさそうだ。念のため注意はしながらも近づいて、その肩を掴んで揺らしてみる。

「渚くん? 生きてる?」

 声を掛ければ瞼が震えて、小さな唸り声。あちこち傷だらけの身体は、誰かとの交戦の結果だろうか。簡易的な痛み止めになる魔術を発動させて、その効果が出始めた頃、ようやっと渚はその目を開けた。

「おはよう。大丈夫?」
「……か、やしま、さん!?」
「ハイ茅嶋さんです」
「す、いませ、」
「やたら派手に怪我してるけど、どうしたの?」
「あー……いやちょっと、憂凛に……」
「……キレられたの?」
「はい……」

 気まずそうに律から目を逸らす渚に、思わず苦笑したもののしかし、ここに憂凛の姿は見当たらない。となれば律がここに来る前まで、渚は憂凛といたということだろうか。
 そこまで考えて、一瞬思考が止まった。――繋がらない。

「……渚くん、憂凛ちゃんのこと分かるんだね」
「……え」
「憂凛ちゃんには普通に怒られただけ?」
「そ、うですけど……意味不明なこと言われて、遠慮なくぶん殴られて……、マジあの馬鹿狐後先考えねえ……」
「で、憂凛ちゃんはどこに?」
「……えっと」
「目が覚めてすぐに渚くんが憂凛ちゃんの心配をしないってことは、今渚くんは憂凛ちゃんがどこにいるのか知ってるってことだよね」

 律は知っている。渚にとって、橘 憂凛という人間がどういう存在なのか。どれだけ大切にしてきた存在なのか。恋だとか愛だとか、そういうものを通り越した感情。憂凛のためであれば命さえ捨てても構わない、松崎 渚という男はそういう男だ。
 だからこそ、憂凛と一緒にいたのであれば、そして最初に目に入ったのが憂凛ではなかったのなら。彼であれば性格的に、一言目に憂凛の心配をしてもおかしくない。しかし今、渚は全く憂凛の所在を気にしている様子は見受けられなかった。今現在『彼岸』の『領域』であろう場所に居て、何が起きるか分からないにも関わらず。
 律の表情をまじまじと眺めて、そして渚は笑う。困ったように。そして自嘲するように。

「ああ、もう……俺としたことがうっかりしてたな。茅嶋さんを今から騙す方法はさすがになさそうです」
「憂凛ちゃんと碓氷さんは、渚くんが操られていると思い込んでる。だから俺もそうなのかと思ってたけど、違うんだね。渚くんは今、自分の意思でここにいる」
「……はい」

 憂凛は一体、どこまで分かっている状況で恭のことを追いかけたのだろう。柑奈が逃げたとき、彼女は確かに口にしていた。どうして『憑物筋』が操るということができるのか。そこから『サイコジャッカー』の可能性へ、つまりは響へと彼女の疑いの目が向いて、そして憂凛は恭のために動いていったが、しかしここまで予想ができていたのだろうか。
 そもそも渚は、誰にも操られてなどいない。何かの理由があるからこそ、自分の意思でこうしているのだ。

「……ほんと、茅嶋さんに俺の性格把握されてるの忘れてたな……、ってえ、マジあの馬鹿手加減しねえから……」
「憂凛ちゃんと恭くんはどこにいるの?」
「教えられません」
「渚くん」
「すいません、茅嶋さん。……俺は俺のために、貴方をここで足止めしなきゃいけない」

 途端に、ぶわりと渚の身体を真っ黒な何かが包んで、律はその場から離れざるを得なくなる。こんなことなら痛み止めの魔術を組むのではなかったと思いはしたものの、後の祭りだ。律を足止めしなければならないというのは、律がここに来るということが渚に分かっていたからだろう。恭に何かがあれば、当然律が追うことくらいは渚にも予想できただろうから。
 恐らく、こうなることをリノは知っていた。さっき確かに、渚に関しては助けてもいいなどと言っていた。そして律に出した選択肢は、恭を助けるか憂凛を助けるかの二択であり、そこに渚のことは含まれていなかったのだから。思考が後手後手に回ってしまっているのが歯がゆいが、こうなってしまってはどうしようもない。
 渚の身体を包んだ真っ黒な何かは、目を凝らしたところでそれが『何』なのかは分からない。しかし、それが良くないものなのであろうことは分かる。――『外法使い』に片足を突っ込んで、そしてそんなものに力を借りて、一体渚は何を考えているのか。
 考えたところで仕方がない。今、律がやるべきころは決まっている。

「……何で渚くんに今足止めされなきゃいけないのか全然分からないけど、黙って通してくれないなら仕方ないよね」

 ふ、と息を吐いて集中。この『領域』に用事はない、いつまでも留まっている場合ではない。誰かの思い通りに動かされてばかりではいられない。
 全て片付ける。その後は、全員に謝ってもらうこととして。

「【汝、雷を司りし者、稲妻を従えし者。戦車を駆りて戦いし汝の力、卑小たる我に力を貸し与え給え】」

 いつも通りに描いた魔法陣。ばちりと雷撃の紋が左腕に浮かび上がって、律はそれを確認せずに銃口を渚を包んでいる真っ黒なものへと向ける。このまま撃ち抜けば、恐らく貫通して渚にもダメージが入ることになるだろう。憂凛の攻撃を受けているのであれば、見た目以上にかなりのダメージを抱えている可能性が高い。つまりここで律があまり強いダメージを渚に与えてしまうと、一発で意識を吹き飛ばして何も聞けなくなる可能性があり、そうなると渚から何も聞き出すことができなくなってしまう。ある程度は抑えて、しかし容赦はできない。

「……狐の『式神』の方がよっぽど可愛いと思うんだけどな、そんなのより」

 今の渚に聞こえているのかどうかは、分からない。ぶわりと大きさを増して律の方へと向かってくるその何かに照準を合わせて、いつもとは違う『リズム』を刻んで、引き金を引く。放たれた雷弾はいつものように相手を貫くことはせず、代わりに宙に広がって大きな網と化した。捕縛を目的としたそれを、黒い何かはいとも簡単に破っていってしまう。まだ想定の範囲内、慌てることなく防御壁を展開して攻撃を押しとどめれば、黒い何かはすぐに退いて渚の方へと戻っていく。
 渚自身は立っているのがやっとではあるのだろう、足元がふらついている。それでもしっかりと律から目を逸らさずにいるのは、彼の意地か。

「……こんな日が来るなんて、思ってませんでした」
「俺も思ってなかったな。……趣味悪くない? その『使鬼』」
「俺もそう思うんですけど、俺の『式神』じゃ貴方相手じゃ勝負にならないでしょう」
「えー。狐の可愛さに騙されるかもしれないよ」

 冗談を言いながらもそのまま雷弾を装填、続けざまに渚に向けて撃ち込んだ雷弾は黒い何か――『使鬼』が喰らうようにして吞み込んでしまう。面倒だな、と舌打ちひとつ。恐らくこの『領域』を創り出している『彼岸』をコピーしている『使鬼』ということになるのだろうが、この『領域』を創り出している『彼岸』が何なのかがまず分からない。
 これ以上時間を掛けて戦っても無駄だろう。彼の目的が足止めなのであれば、この状況が続けば続くほどよくないということだ。そうしているうちに恭と憂凛の身に何が起きるかも分からない。
 この場所を創り出している『彼岸』のことは気になるが、構っている場合ではない。となれば、早急に終わらせるための方法は一つある。この場所は『彼岸』の『領域』の中、姿は見えなくても存在している筈だと仮定すれば。

「――【汝、在るべき場所へと還りしモノ】」
「!」

 詠唱の文言で律がしようとしていることには気づいたのだろう。分かってはいたが、渚に容赦はない。襲い掛かってくる『使鬼』の攻撃を防御壁で何とかいなしつつ、意識は術式の展開の方に集中。魔法陣を描く余裕はない代わりに、左手は『リズム』を刻む。

「【この世の理に従いて、この場に】……ッ」
「させません……!」

 もう少し。そのタイミングで防御壁が削れて、律の左手に『使鬼』が到達した。喰らいつかれた痛みに、思わず眉を寄せる。それでも噛み千切られるような酷い痛みではない――どころか、手の動きを止める程度のものだ。渚ろしては律に怪我をさせるつもりはない、という意思表示でもあるのだろうか。
 魔法陣を描くための『リズム』も、発動のための詠唱もまだ不完全だ。今の状況では何の魔術も発動はしない。――普段であれば。
 渚は律の右手の怪我のことを知っている。そしてその怪我をきっかけに、右手を使って魔術を使うことをしなくなったことも知っている。長期間リハビリが必要だったほど動きの悪かった右手で、術式を展開するための細かい動きをすることは難しい。つまり左手を止めてしまえば、これ以上『リズム』は刻めないと踏んだのだろう。手を使う以外にも『リズム』を刻む方法はあるが、細かい動きをするのであれば手が最適だからこそ。
 律のことを理解している相手と戦う可能性はいつだってある、そして律の魔術の発動方法は少しでも律のことを調べれば分かることだ。術式は読み解けなくても、発動を止める方法であればすぐに思い当たるだろう。
 だから、律は恭以外には話していない。魔術を使う方法は、『ウィザード』にとっては生命線だから。

「――【在ることを禁ず】!」
「なっ……!」

 左手で刻んでいた『リズム』の続きは、そっくりそのまま律の右手が引き継いで。展開していく魔法陣は『リコール』、『彼岸』を強制退去させるその術を受けて、『領域』の色が剥がれ落ちていく。
 同時に渚の『使鬼』も力を失っていくのが見て取れる。あの『使鬼』がこの『領域』の主のコピーだという見立ては間違っていなかったらしい。生粋の『外法使い』なのであればともかく、恐らく中途半端に足を突っ込んでいるだけという状態になっている渚では、コピー元がいなくなった状態で『使鬼』を使いこなすのは無理があるだろう。

「いいセンは突いてたけどね」
「……何で」
「左手止めちゃえば術式止まると思うよね、そりゃ。……でも俺実はさ、一回も誰にも右手で魔術使えない、なんて言ったことないんだよね」

 一度も、誰かにそんなことを話した覚えはない。怪我が原因で右手が使えないから左手に切り替えていただけで、それ以降も右手のリハビリは続けている。日常生活には特に支障はない、そしてほとんどのことを左手でこなすようになって、周囲が勝手にもう右手では魔術は使わないのだと思い込んでいるだけで。
 とはいえ、リハビリをしていても前ほどピアノを弾けるまでには回復しない手だ。複雑なことをするのは当然難しい、そしてかつて『魔女』が遺した『呪い』が魔術にどんな影響を及ぼすかも分からない。そういった事情も考慮の上で、律は今でもずっと左手で術式を展開させるようにしている。
 ――それでも。ほとんど組み上がっている術式を発動させる程度のことであれば、この右手でも可能だ。

「……ああ、そうだ。俺が右手で魔術使えるの、ナイショにしててね?」

 そう言って笑えば、面食らった渚が困惑したように溜め息を吐いた。