Colorless Dream End

17

 一体どこから入ってきたのか、そしていつからそこにいたのか。先ほどまで恭がいた部屋の前に、小夜乃が立っていた。さすがに驚いたのだろう、響の手の力が緩んだのを感じて、恭はすぐにその手を振り払う。喉から変な音がひゅうと鳴って、反射的に咳き込んだ。

「……えらく早いお出ましじゃん、小夜」
「そうですか? もともと今回の犯人は貴方しかいないだろうと思っていましたから、私は貴方を追い掛けてきただけですのよ」
「へえ? いつから疑われてたの、俺」
「それこそ最初から、ですわね。……私は一度たりとも、響のことを信用した覚えはありませんので」
「は……え?」
「……なーんだ。仲良しごっこしてきたのは無駄だった、っていうことか」

 二人の会話の内容に、頭がついていかない。意味が分からない。恭にとって、響も小夜乃も大切な友人だ。――しかし二人にとっては、違うということなのだろうか。
 響は小夜乃に復讐がしたい。その為に恭を『彼方』に引き摺るために、友達になった。そして小夜乃は、元より響のことを信用していない。
 だとしたら、恭が二人と過ごしてきたこの2年半の歳月は、全てが嘘の塊だったのだろうか。

「……っ、て……」

 ずきんと胸に痛みを感じる。痛い。死んでしまうのではないかと思ってしまうほどに、苦しい。自分の身体に何が起きているのか分からない。深呼吸をしようとしても、上手く呼吸ができない。これは駄目だ、とすぐに分かる。落ち着かなければならない――大丈夫だと、自身に言い聞かせる。

「……全く。この2年で、どれだけ恭の記憶を自分の都合の良いように引っ掻き回したんですの? ただでさえお馬鹿さんですのに、更に記憶をぼろぼろにされてしまっているようですけれど?」
「そんなことイチイチ覚えちゃいねーよ。……いつバレたの?」
「本格的に気付いたのは、恭が『  』とのことをトラウマに感じていたとき、ですわね。私は貴方とは違って、あのときの恭を自分の目で直接見て知っていますわ。だから断言できてしまうんです、恭はあの頃のことをトラウマになんて思ってはいない。ちょっと足を怪我した程度で夢に見て苦しんだ挙句、『  』のことを忘れるだなんてこの子には有り得ません」
「……ああ、なーるほど。上手くいってると思ってたんだけどなあ」
「恭は貴方の復讐とやらに何の関係もないでしょう? 解放してさしあげては?」
「ヤダ」

 全く話についていけない。二人は一体、何の話をしているのか。恭の記憶。トラウマ。ノイズが入って聞き取れないその部分には、一体何があるのか。
 小夜乃は、恭次第だと言っていた。恭なら大丈夫だと、そう言ってくれていた。あの言葉は嘘ではないと、恭は信じている。
 何が嘘だとしても、恭は自分が信じたいものを信じる。小夜乃の言葉は信じると決めた。もしそれが嘘だったとしても、そのときはそのときだ。だから思い出さなければならない。思い出して、打ち勝たなければならない。恭が思い出すための行為を邪魔している『何か』。どれだけ痛くて苦しくても、しんどくても。
 記憶の中にいる誰か。それは果たして、誰だったのか。

「つか登場早すぎなんだよ小夜……行くぞ恭」
「え」
「逃がすと思ってますの?」
「逃げられるよ、……だってお前、『そのまんま』で居るつもりだろ?」
「!」

 面食らった表情の小夜乃に反して、響の表情に浮かぶ不敵な笑み。二人の表情の間に、まだ自分が知らないことがあるのだと直感する。それは何なのかと考える暇もなく響に手を掴まれて、次の瞬間には景色が変わっていた。それが響の『テレポート』だと気付くまで、数秒。
 一体どこに移動したのかと周囲を見回す。感じたのは結婚式で訪れたことのある、教会のような雰囲気。オルガンと長椅子、シンプルながら装飾のある窓。しかし、この場所自体に見覚えはない。

「ったく。とりあえずここなら小夜は入ってこれねーだろ」
「……いや、てか、俺さっぱり意味分かんねーんだけど……」
「あー?」
「何でそんな俺のこと堕とそうとすんの? てか小夜ちゃん殺せって何だよ、大体何で小夜ちゃんはひびちゃんのこと信じてないの……」
「お前はちょっと我が強過ぎんだよ。普通に操ろうとしても無理だし、だったら堕とした方が操れそうだし、そしたら小夜のこと殺せる」
「……いや、だからー、分かんねえってば」

 どうして恭が小夜乃を殺さなければならないのか。恭にとって小夜乃は大切な友達だ。そして、命の恩人でもある。
 響が復讐したい相手は小夜乃。小夜乃に復讐するために、そのために小夜乃に近づくため、まずは恭に近づいた。そして友達になったということまでは、理解が追いついてきている。
 しかし、どうしても分からない。この2年半、本当に響は小夜乃のことを憎んで恨んで、そしていつか殺してやる、と思っていたのだろうか。いつだって楽しそうにしていたし、仲が良いようにしか見えなかった。それがずっと嘘だったのだとしたら、それはあまりにも悲しすぎる。

「てか俺の方が意味分かんねえけど。何でお前ここまでされて『彼方』に引き摺られてねえの?」
「何でって」
「俺にトラウマ作られてんだぞ? お前。分かってる? 少なくとも頭痛で死にそうになるくらいにはキョーレツなやつ。それでも堕ちねえし、俺が殺しかけてやっても変わんねえし、てか恭さあ、俺がお前のこと裏切ってんの分かってる?」
「……とらうま……」

 思い出したくもないこと。それは確かに恭の中にも存在している。思い出したくない光景――できれば二度と見たくもない光景。『魔女』の最期。何度も吐くほど夢に見て、必死で乗り越えてきたもの。
 しかし、恐らく響が言っている『トラウマ』に関してはそのことではないだろう。恭はその話を響にはしていない。元より『魔女』の話をする相手など、律だけだ。そして今更恭としては、そして律も、わざわざ何もないのに話題に出すような話でもない。
 先ほど小夜乃は何を言っていただろうか、と考える。恭にはノイズがかかって聞き取りにくかったが、何かがトラウマになっていたときに気がついたというような話をしていた。つまりは以前恭の身に起きたことで、小夜乃が知っていること。
 そこまで考えて、ふと思う。――どうして、小夜乃は恭の命の恩人なのか。

「ッ……」
「……何を思い出そうとしてんだよ」

 ずきんとまた大きく頭が痛んで、思わず表情が歪んだ瞬間を響は見逃してはくれなかった。響の手が恭の頭に触れて、途端意識がぐらぐらと揺れ始める。また何か忘れさせられようとしている、駄目だ、と思うのに、上手く体が動いてくれない。
 足が動けば、もっとどうにか。唇を噛みしめて、頭を思い切り振ることで響の手を何とか振り払って、後ろへと後退る。

「……絶対、思い出す。俺はこのままひびちゃんの言いなりになって、小夜ちゃん殺すとか、絶対嫌だ」
「お前しかアイツのこと殺せそうな奴がいねえんだよ。諦めて殺せって」
「諦めないし殺さない」

 引き摺られるつもりはない。殺すつもりも当然ない。恭はその結末が何も生まないことを、よく知っている。
 響の復讐の相手が小夜乃――『ディアボロス』ということは、恐らく響が先ほど話してくれた『エクソシスト』を殺した犯人が小夜乃ということなのだろう。しかし、それは本当にそうなのだろうか。恭にはどうにもピンと来ない。小夜乃は確かに『ディアボロス』だが、誰かを殺すような人間ではないと思ってしまう。そんなことを言えば恐らくまた『彼方』の人間を信じすぎていると怒られるのかもしれないが。
 けれど、いつだって小夜乃は恭に優しかった。時々呆れ切った顔をしながらも、それでもずっと恭が困っているときは助けてくれる。その小夜乃とは、どうしても結びつかない。当然だが恭は小夜乃の全てを知っているわけではないことは理解している、故に恭が見たことがないだけだと言われてしまえば否定はできない。しかし本当に小夜乃が犯人なのだとしたら、一体小夜乃とその『エクソシスト』との間に何があったというのか。

「……ひびちゃんは間違えてる」
「何を」
「小夜ちゃんからろくに話も聞かないで犯人だ! って決めつけて、殺そうとして。そんなのぜってーおかしい」
「ちゃんと調べはついてんだよ、アイツが犯人で間違いない。お前だって、俺の調査能力は分かってんだろ」
「知ってるよ、『サイキッカー』だもんな、ひびちゃん。でも、小夜ちゃんに直接聞いて話したわけじゃない」
「本人にお前が犯人かって問い詰めて、はいそうです私が犯人ですって言う馬鹿がどこにいるっつーんだよお前は……」
「何の確認もしてないのに殺せなんて言われても俺ぜってー納得なんかできないし、そもそも殺して解決とかいう解決策、ぜってーねえし」
「……恭のそういう変に頑固なとこほんっとめんどくせえよな、嫌いだわ」

 完全に呆れた溜め息を吐いて、響の手が動く。また何かされるのかと身構えた直後、感じたのは背後の熱。あまりの熱さに振り返れば、恭の後ろにある椅子が燃えていた。

「それならもうお前が死ぬか、それともお前が小夜を殺すかだ」
「ひびちゃん!」
「選ばせてやるよ、二択ならいいだろ」
「いいわけなくない!? 俺は死なないし小夜ちゃんのことだって殺さない!」
「じゃあもう死ねよ」
「っ!」

 熱い。背中にじりじり炎が近づいてくるのが否が応でも分かる。横にごろごろと転がる形で逃れたものの、すぐに響の手が動く。一瞬でまた違う椅子が燃え上がって、逃げ道は塞がれてしまう。これでは今足が動かない恭では、絶対に逃げきれない。

「……く、っそ、動け……!」

 怪我などしていない。何故動かないのか分からない。動けと命令しているのだから動いてほしいのに、足だけが自分の身体ではないようにぴくりとも動かない。
 喚いたところで炎は近づいてくる。それほど広い場所ではない、転がって避けるのもいつまで保つか分からない。そもそも椅子ではなく恭自身を燃やされてしまったらそれで終わりだ。
 何とかしなければならない。死にたくない、小夜乃を殺したくもない。今この状況で何ができるのか。どうすればいいのか。
 必死で頭を動かして考えて――そのときだった。

「きゃんっ!?」
「え、な……ッ!?」

 突然の出来事だった。ぐにゃあ、と景色が一部分だけ歪んで、そこから女の子が一人、放り投げられるかのように現れる。床に落ちる寸前でくるんと回って着地した女の子の位置は、ちょうど恭と響の間。

「……きつね……」

 琥珀色の狐の耳と、尻尾。狐の女の子。――『半人』。

「何ここあっつい!? 火事!? あ、恭ちゃんだ!? 大丈夫!?」
「……え、えと……」

 誰なのだろう。
 きょとんと首を傾げてしまった恭を気にすることなく、軽々と恭の身体を抱えた女の子は、予備動作もなく跳躍して炎から離れていく。聞こえた舌打ちは恐らく響だろう。女の子に抱えられたまま響の表情を伺えば、響がまた手を振っていて、今度は炎が消えたのが見えた。

「……何でお前がここにいるんだ、『 』」
「仲直りしにきたの! だから恭ちゃんのことは返してね、乙仲くん」

 ――仲直り。
 何の話だろうと考えた瞬間に、また恭の頭がずきりと痛む。その間も響と女の子は無言で睨み合っている。抱えられたままの今の状況ではどうにも居心地が悪い。下ろしてほしいと訴えられる状況でもない。
 この女の子のことは、恭の記憶にはない。しかし、女の子の方は恭のことを知っている。この子のことを忘れているのだろうかと考えた瞬間、またずきずきと頭が痛む。あまりの痛みにくらりと眩暈がして、恭はゆっくりと息を吐き出した。
 大丈夫。言い聞かせておかないと、意識を持っていかれてしまいそうになる。

「……マジかアイツ、この土壇場で何やってんだよ信じらんねー……」
「なぎちゃんなんか相手にならないもん、残念でした!」
「……てかお前何なの? マジで。何でここに辿り着けてるわけ?」
「『  』と恭ちゃんのこと、ちゃんと知ってるのはなぎちゃんと琴葉ちゃんと小夜ちゃん、あとは宮内くんくらいだもん。パパとママも知ってるけど、全部じゃない。『  』の知り合いの人たちだってまあそれなりに知ってる人もいるけど、恭ちゃんの周りの人は多分知らない。だってそもそも茅嶋さんが知らなかったし。でも、乙仲くんは『  』のことを知ってた。話は恭ちゃんから聞いてる、って乙仲くん自分で言ったでしょ。でも、今の恭ちゃんが『  』の話、新しい友達にするとも思えない」
「はー、そっからかー。すごいな」

 はっきりとした、意思の強い声。この声を、知っている。絶対にこの女の子のことを知っていると、確信が持てる。ノイズがかかって聞き取れていないのは、この女の子の名前なのだろう。
 どうして忘れてしまったのだろう。どうして忘れさせられてしまったのだろう。恭にとってこの女の子はどういう存在で、何だったのだろうか。そして忘れさせられたことに気付かないほど、この女の子に会わなかったのはどうしてなのか。

「アリスちゃん、恭ちゃんのことお願いね」
「……いいの? 私が戦ってもいいのよ?」
「いいの。『  』はもう、自分で戦うって決めたもの。……だってこれ以上、逃げられないでしょ?」

 ふわり。どこからともなく現れた『アリス』に、恭の身体を預けて。振り返った女の子は、柔らかく優しい表情で恭のことを見ていた。

「ごめんね、恭ちゃん」
「……えっと」
「『  』のこと、分かんないって知ってるよ。大丈夫、分かってる。でも、今は『  』に恭ちゃんのこと守らせて」

 安心させてくれるような笑顔、そして響を振り返った瞬間、その姿が恭の目の前から消えた。消えたと感じるほどに、そのスピードは速かった。普通に対応できるようなスピードではないと感じたのは正しかったようで、攻撃が直撃したらしい響の身体が吹っ飛んでいく。壁に思い切り身体をぶつけた響は全く受け身が取れているようには見えない。骨折でもしているのではないかと心配になってしまう。
 やれやれ、とでも言いたげな溜め息が聞こえて、恭は視線を『アリス』へと移した。それに気づいた『アリス』も、恭と視線を合わせてくれる。

「……大丈夫?」
「うん……ええと、あの」
「あの子が頑張ってくれている間に、あの子のこと、思い出せそう?」
「……分かんない、けど、思い出したい。俺、絶対あの子のこと、覚えてるはず」

 意識してしまうと、どうしても頭痛がして思い出せなくなる。けれど知っていることだけは、分かる。恭にとってとても大切な人だった、そんな気がして仕方ない。
 いつの間にか『アリス』が恭の傍にいなくなったのは、そして郁真が恭を殺そうとする理由は。渚が恭のことを嫌いだと言うようになったのは。

「っ……」
「痛む?」
「……だい、じょうぶ」

 こんなにも頭が痛むのは、恐らく響があの女の子と恭の間に起きた『何か』をトラウマに変えてしまったから。どの時点からそれがトラウマになって、どうして恭はあの女の子のことを忘れてしまったのか。きっかけは、どこにあるのか。
 恭が女の子のことを忘れてしまったことと、そして今恭の足が動かないことには何か関係があるのだろうか。足の怪我といえば、恭が足に怪我を負って競技としての陸上を辞めることになったのは、去年の春だった。足の怪我で思い出せるのはそれだけだ。それをきっかえに忘れてしまったのだとしたら、その怪我をしたとき、恭の身に何が起きたというのか。

「……ああくっそわかんねえっ、ほんっと考えるの向いてない……!」
「落ち着きなさい」
「でも!」
「恭くんがあの子のことを忘れても、あの子はずっと恭くんのことを覚えていたの」
「……そりゃまあ」
「でも、私は忘れてしまうならあの子の方だと思っていたから、ずっと心配していたのよ」
「……あの子が? 俺のことを?」
「ずっと後悔して、本当にずっと苦しんで、それでも頑張って必死で生きてきたあの子を、私はちゃんとずっと見てたのよ。だって恭くんの頼みだったもの」
「俺が? アリスちゃんに頼んだの?」
「そう。それも覚えてない?」

 恭が『アリス』に頼んだこと。頼んだから、『アリス』は恭のもとからいなくなっていたということなのだろうか。
 ずきずきと痛む頭を押さえて、深呼吸。『アリス』への頼み事――考えてみれば、そんなことをしたような気がする。その頼みごとのために、恭は一人で喫茶店へと行ったのだ。頭の中に次々と浮かび上がる記憶、喫茶『たちばな』、マスターの一斗、美味しい珈琲を淹れてくれる、恭が珈琲を飲むきっかけを作った人。その人に恭は『アリス』――正確には『黄昏の女王アリス』を喚び出すためのチェシャ猫のキーホルダーを預けて、それから『アリス』には会っていなかった。

「……あの子の傍にアリスちゃんがいてくれたら、俺があの子と一緒にいられなくても、守ってあげられるから……?」
「そうね」
「だから……えと、俺があの子と一緒にいられなくなるようなことが起きて、そうだ、それで松崎先輩に嫌われて……あー……っと……?」

 ぐわりと浮き上がってくる、別の記憶。それは小夜乃と初めて会った頃の記憶。先ほど小夜乃は響に言っていた、あの頃の恭を直接見て知っている――と。恭がトラウマになっているわけがないのだと。
 しかしその先を思い出そうとすると、やはり頭痛が邪魔をする。何度目かの大丈夫だという言い聞かせを挟んで、ゆっくりと深呼吸。頭では全く思い出せないが、記憶の奥底にあの女の子がいるという確信が強くなっていく。ちゃんと覚えているのだから、思い出せるはずだ。
 考えてもどうしようもない状況なら、まずは自分らしくいるべきか。考えるのは不得手だからこそ。

「……ねー、アリスちゃん」
「なあに」
「女の子に戦わせといて俺は何もしないとか、ぜってー無理あるじゃんね」
「……足が動かない状態で戦おうって言うの? 文字通り足手まといじゃないかしら。そんな危ないこと、させないわよ」
「それでも」

 あの女の子はきっと、強い女の子だ。本気で戦えば恭のことなどあっという間に吹っ飛ばしてしまうだろう、などと考えてしまう。
 けれど、それでも。

「女の子は、守ってあげるもんじゃない?」
「……本当に。相変わらずお馬鹿さんね」

 本気で呆れ切った『アリス』の溜め息に、恭は笑って。思考を止めて、響と女の子の方へと視線を向ける。最初こそ響も吹っ飛ばされていたものの、『テレポート』を組み合わせて戦うことでスピードに対応しているのか、知らない間に互角に近い戦いになっているようだった。女の子も何度か響の攻撃は食らっているのか、服に焦げ跡が見て取れる。
 恭の足は相変わらず動きそうにはない。普段であればともかく、この状況でスピードと展開の早い戦闘についていくことはできない。しかしその前に、いつまで動かないつもりでいるつもりなのかと自分を叱咤したくなる。
 立てる、動ける、歩ける、走れる、大丈夫。自分にそう言い聞かせて、深呼吸をひとつ。とにかくまずは『変身』しようと、意識を集中させかけた瞬間だった。

「『  』!」

 焦った『アリス』の声は、ノイズにまみれてもよく分かった。響の攻撃で派手に女の子が吹っ飛ばされていくのが見える。強かに壁で背中を打ち付けて、それを追撃するように響が動いて。
 ――駄目だ、と思った。
 その直感は正しい、『アリス』が動こうとしているのが分かる。分かったのに、それよりも先に既に恭の身体が反応していた。
 何をどうしたのかなど分からない。しかし、全く動かせなかったはずの足が動いていた。そして距離的にも全く間に合わないはずなのに、じっとしていることはできなかった。
 頭の中にあったのは、シンプルな感情。助けたい。守りたい。ただ、それだけ。

「……きょ、うちゃん……?」

 至近距離に女の子の顔がある。驚いた顔。その顔色がどんどん蒼白になっていくのが分かる。恐らく自分の身体は今、彼女を庇って立っているのだろう。
 何がどうなったのか、全く理解ができない。ただ、腹の辺りがひどく熱い。

「……恭、何してんのお前」
「……あー……? わ、かんね……なに、してんの、おれ……」
「死にたくねーんじゃなかったのかよ」
「死にたくは、ねーよ……」

 背後、こちらも至近距離から聞こえる響の声に答えながら。どうしてか、意識が遠くに感じる。ぼんやりとしている。ぐちゃりと嫌な音が聞こえて、途端体の力が抜けた。がくんと膝をついた体は女の子の上に倒れ込むような形になって倒れていく。
 体が、動かない。

「恭、ちゃ、恭ちゃん、しっかりして!? 恭ちゃん!?」
「だ……い、じょうぶ……」
「大丈夫じゃないっ、ばかっ、なんで憂凛のことなんて庇ったの!?」

 ――憂凛。
 やっと耳に届いたその名前に、自然と笑みが浮かんだ。やっと、思い出した。記憶が戻ってきた。全部、全部――大切なこと。

「……だ、って……」

 思い出した――だから、泣かないでほしい。泣かせたいわけじゃない。
 泣き顔を、もう二度と見たくないと思った。だから死んでなどやるものかと、そう決めて生きてきたのだ。

「おれは……ゆりっぺの、ひーろー、だもん」
「ッ……!」

 ぼとり、と嫌な音がして、そこで恭の意識は途切れた。