Colorless Dream End

13

 一旦恭の病室へ向かうのを中断して、柑奈がいたという病室へと向かう。この病院は『此方』も『彼方』も分け隔てなく受け入れるが、発狂してしまって一人で押さえるのが難しい程暴れまわる『此方』や、犯罪を犯して警察に引き渡す予定のある『彼方』に対してはそれなりの措置を取ることも行っている。その性質上、セキュリティとしては物理的な電子ロックや指紋認証のある隔離用病室から、専門のスタッフとして在籍している『此方』の人間が様々な方法で脱走できないよう術式を組んでいる――筈なのだが。

「……これは普通にやばくない? 力任せにぐっちゃぐちゃだ……」
「茅嶋さん直せたりしません?」
「『ウィザード』の魔術を便利屋か何かだと勘違いされてます? さすがにこの規模は厳しいですね」

 抉れるかのように、病室は半壊していた。窓があった壁は吹き飛んでおり、そこから逃げ出したのであろうことは想像に難くない。ここまでのことになっていて何の音も聞こえなかったということは、遮断のような術式は昨日していたということだろう。
 恐らくではあるが、『彼岸』は近寄れないよう結界は張られていた筈だ。仲から術式を壊すほどの力を持っているとは思えない。となれば、外から壊したということになる。
 ――脱走の手引きをした協力者がいる、と考えるのが、一番自然だ。
 この場合真っ先に候補として考えるべきは渚だろう。柑奈が渚と共に行動していたというのなら、一番否定することができない可能性だ。渚は『陰陽師』だが、色々と学んでいることは知っているので、専門外の術式の壊し方を多少知っていても違和感はない。しかし問題は、渚自身にそれだけの力があるかと聞かれれば首を傾げざるを得ないところだ。渚は調査を得意としている――戦闘はそれほど得意ではなかったはずだ。
 気に掛かるのは柑奈に憑いている『彼岸』のことか。『此方』と『彼方』を入れ替えてしまうという、特殊な『彼岸』。もし渚がその能力によって『陰陽師』ではなく『外法使い』に入れ替えられているのであれば、場合によっては不可能とは言い切れない。

「……ちなみに普段で考えると、普通無理ですよね、これ」
「一応しっかりした対策はしてますから、普通はこんなことにはならないですね。ただ『彼岸』が本気で干渉してきたとすれば正直何でもアリだってところもあるので、出来ることは限られているっていうのも正直なところです」
「バックに糸を引いてる『彼岸』はいるかもしれないか……、憂凛ちゃんどう思う?」

 一人で考え込んでいても糸口は見つからない。意見を聞くべく憂凛の方へと視線を向けると、憂凛は険しい表情をして考えこんでいた。

「……ねえ琴葉ちゃん、あの子……若宮 柑奈って『憑物筋』なんだよね」
「ええ、そうだけど」
「あのね、憂凛ね、ずっと不思議だったんだけど、どうして『憑物筋』……か『神憑り』かもしれないけど、何でなぎちゃんに憂凛が行方不明だ! って思いこませることができたのかな」
「……え?」
「『憑物筋』は『憑依』することで他人を操ることが出来る、でもそれって飽く迄も『憑依』であって、乗り移っちゃうことで他人の身体を借りて操るから『憑依』された側が自我を保つことはできない。洗脳でもない、なっちゃんはなぎちゃんと普通に会話してたみたいだし、大体『憑依』してるなら『憑依』してる相手と一緒に行動するとかそんなことがまず有り得る訳がないんだよね」

 ぶつぶつと、淀みなく自分の思考を口に出す憂凛は、恐らくそうすることで自分の頭の中の情報を整理している。
 言われてみて初めて気付く。渚はどうして、そんなことを思い込んでしまっているのか。『憑物筋』には、そして『神憑り』であってもそんなことはできない。人の記憶を操作するようなことができるのは、『ウィザード』或いは『ネクロマンサー』、そして『サイコジャッカー』か『ディアボロス』くらいのものの筈で。

「ねえ茅嶋さん」
「うん?」
「恭ちゃんがどうしてなっちゃんと一緒になぎちゃんを探してたか、知ってる?」
「ああ、うん。響くんから『彼方』狩りの話を聞いて、調べた結果碓氷さんに行き着いて、それで話を聞いて一緒に調べることになったみたいだけど」
「……乙仲くん……、憂凛ね、あの人、今日初めて会ったの」
「ああ、そっか。響くんって恭くんが大学入ってからの友達だし、そりゃ憂凛ちゃん知らないか」
「……『サイキッカー』、だよねあの人……」
「憂凛ちゃん?」
「……っ、恭ちゃん!」
「え、ちょ、憂凛ちゃん!?」

 悲鳴にも近い声だった。一声叫んだ憂凛は、律にも琴葉にも目もくれず一目散に走って行ってしまう。あっという間に見えなくなってしまうスピードの憂凛に、律がついていける訳もない。
 今、憂凛は何を思いついたのか。なぜ今、ここで恭の名前が突然出てきたのか。
 ――可能性は一つある。記憶操作ができるのは。そして、柑奈に憑いている『彼岸』は。

「……鹿屋先生」
「……多分今同じこと考えました」

 彼が『彼方』に引き摺られればそれは『サイコジャッカー』、故に犯人は響ではないか――それは決めつけているわけではない。これは根拠が何もない疑惑ではない。響に対して、疑えるだけの材料は揃っている。
 そもそも、響が『彼方』狩りの話を恭に話している。そしてその後、恭は様々な事情が重なって響とは一度も一緒にその件に関する調査を行っていない筈だ。考えようによっては、恭が一人で調べにいくように仕向けたとも考えられる。そうなってくると、本当に『彼岸』狩りというものが行われていたのかどうかも怪しくなってくる。
 しかし、分からない。この仮説が正しいのだとすれば、それは何の為だというのか。響は恭の友人で、昨日今日知り合ったような相手ではない。何が狙いだというのか。
 ――何かを、見落としている。
 恭が行動を共にしていたのは、二人。響と、そして小夜乃だ。三条 小夜乃、シャロン=マスカレード――『ディアボロス』。『彼岸』狩りで一番狙われているのは『ディアボロス』だという話だった。
 恭が小夜乃と知り合ったのは、憂凛との一件があったとき。それは大学入学よりも前で、響と知り合うよりも前になる。それを響が知っていたとするなら、恭を巻き込んだその狙いは小夜乃の可能性がある。綿密に計画して、今回実行したのではないか。

「……鹿屋先生、ちなみに三条さんは」
「小夜乃ですか? 彼女ならあの後少し気になることがあると言って出掛けましたが」
「できればすぐに呼び戻してもらえますか。俺はちょっと憂凛ちゃんを追います」
「分かりました」

 ――こんなことになるのであれば、解散せずに全員目の届くところに置いておかなければいけなかった。
 琴葉が頷いたことを確認して、律は恭の病室へと走る。憂凛が向かったのは十中八九そこの筈だ。同じことを考えたのであれば、という部分はあるが、しかし憂凛の持っている情報を鑑みれば恐らく、彼女の中で狙いは恭ではないかという仮説が立った筈だ。
 何より、律は恭のことを桜に任せてあの場を離れている。桜はあのまま恭と一緒にいるだろう。つまりあの病室で何かが起これば、恭どころか桜も危険に晒される。
 何も起きず、ただの自分の杞憂であってほしいと願ってしまう。
 願いながら、祈りながら、ようやっとたどり着いた病室の扉は開け放たれていた。中に入れば目に入ったのはもぬけの殻になっているベッドと、呆然と立ち尽くす憂凛。そしてベッドの横に倒れている、桜。

「桜ちゃんっ!?」

 慌ててその体を抱き起す。息をしていることにほっとしつつも、怪我がないかどうかを確認する。これといって見当たらないことに安堵はしたものの、病室の中には戦闘の形跡が残っている。恐らく応戦はしたのだろう。そして今恭がいないということは――連れていかれたのだろうか。

「……かやしまさん……」
「憂凛ちゃん、誰か見た?」
「ううん、憂凛が来たときにはもう、この状態……、……ッ、憂凛、恭ちゃんのこと探してくる!」
「あ、ちょ!?」

 止める間もなく憂凛は病室を飛び出していってしまう。探しに行くといっても何処に行くというのか。今の状況ではあまりにも情報が少なすぎる。
 耳に届いた小さな呻き声に、はっとして律は腕の中の桜を見る。うっすらと目を開いた桜が、ぼんやりとした表情で律を見上げていた。

「……りつ、にいさま……」
「桜ちゃん、大丈夫? どこか痛む? 何があったの?」
「わたし、は、だいじょうぶ……です、でも、恭さん、が、」
「ゆっくりでいいよ、無理しないで。……えっと、ぶんちゃん、は」

 室内を見回したが、しんとしている。こんなときに最も大騒ぎしていそうな『分体』の姿がないのはおかしい。何故、という疑問は、ベッドの上を見て気が付いた。
 そこにあったのは原型を留めていない、恭のスマートフォン。中にはいつもの通り『分体』がいた筈だ。しかし、インターネットに繋がっていればどこにでも逃げられる筈で――しかし、律のスマートフォンには来ていない。律が此処にいても何の声もしないということは、桜のスマートフォンに逃げ込んだわけでもないのだろう。
 一体、何が起きているというのか。混乱する頭が、上手く整理できない。憂凛を追いかけなければとは思うが、彼女のスピードにはどう頑張っても追いつけない。何より桜がこの状態では、律も動くに動けない。
 桜に外傷は見当たらないが、何もダメージがないということはないだろう。先に桜の治療、それから憂凛を追いかけて恭の捜索。恭を探せば恐らく、柑奈にもぶつかるだろう。そしてもし狙いが小夜乃――シャロン=マスカレードであるならば。リノをあそこまで追い込むことのできる『ディアボロス』だ、こちらは心配する必要はないと考えたい。

「……えーっと。桜ちゃんごめんね、何があったか話せる?」
「おとなかさん、が……」
「……響くん?」
「『サイコジャッカー』、で、恭さんのこと、連れて行くって……」
「……やっぱり」
「私のこと守ろうとして、恭さん、……連れて行かれてしまって」
「そっか」
「ごめんなさい……」
「大丈夫だよ。恭くんのこと守ろうとしてくれてありがとうね、桜ちゃん」

 律の言葉に、桜は悔しげな表情で首を横に振る。桜のせいではないのだと言ったところで、桜は自分を責めるだろう。宥めるように頭を撫でながら、自分を落ち着かせるために息を吐く。
 いつから――なのだろうか。響は確かに『サイキッカー』だった。律は何度か響には会っているし、それは間違いないと自信を持って言える。自分の目に関しては、それなりに信用しているつもりだ。柑奈に憑いている『彼岸』の力で、『此方』と『彼方』が入れ替わっていたから気付かなかったということになるのだろうが。
 どこで憂凛は気が付いたのだろうか。あのとき憂凛が気付かなければ――響の名前を出していなければ、律はここに辿り着くのがもう少し遅くなっていただろう。何も気づかないまま、こんな状況になっていることも気付かないままに若宮 柑奈を探しに出ていたかもしれないと考えると、ぞっとしてしまう。
 廊下に響く足音、振り返れば琴葉の姿。病室を見て、律と桜を見て、その表情は険しいものへと変わる。

「……連れて行かれた後?」
「はい。三条さんは」
「小夜乃と連絡がつかなくて。もしかしたら柳川くんと一緒に居るんじゃないかと思ったんですけど、この状況じゃそれはなさそうですね」
「……いや、もしかしたらその可能性も有り得るかもしれません。恭くんと響くんと三条さんが友人なのであれば、三条さんはもっと早くから響くんのことを疑っていたかもしれませんし」
「ああ……成程。とにかく柳川くんと若宮 柑菜を探さないと。人を呼んできます」
「いや、それは必要ありません。桜ちゃんの治療だけ、お願いできますか」
「え、でも」

 怪訝そうな表情に変わった琴葉に、律は首を横に振る。憂凛は恭を追いかけている、もし小夜乃が恭と響を追うためにいないのだと考えれば、既に戦力は充分だ。

「……俺の相棒と妹に手を出したんですから、それなりに覚悟はして貰わないと。『茅嶋』に喧嘩売ってるんですから、ウチに喧嘩売ったらどうなるかしっかり覚えて貰わないといけませんからね」


 律が病室を出ていって――ぼんやりと考える。
 いつも、助けられてばかりだ。いつかちゃんと返すことができるのだろうか。頼ることしかできない自分がどうしようもなく情けない。自信が奪い取られていくような。それでも、恭は決めている――律を一人で戦わせたくない。律を助けられる人間でありたい。そう決めているのだから、ここでへこたれている場合ではない。
 忘れていることを、思い出さなければ。そうすればきっと、この事態は良い方向に向かう筈だ。
 がらりと扉が開く音にはっと顔を上げれば、桜が入ってきた。先ほどまで律が座っていた椅子に腰を下ろして、何とも言えない困ったような、心配そうな表情で恭を見下ろす。

「……律兄様、恭さんのことすっごく心配されてますよ」
(……だよなー……)
「私で力になれること、あればいいんですけど……」
(桜っちがそんなしょんぼりしないでよー)
『恭が桜が落ち込むなーって顔してんで』
「えっ、あ! ごめんなさい、そうですよね。私が落ち込んでちゃ駄目ですよね!」
(心配かけてごめんね、桜っち)

 今の状況では大丈夫だよ、と伝えることも難しい。どうすればこの状況を抜け出すことができるのだろうか。早く思い出さなければ、何一つ解決できる気がしない。

「……律兄様は、私には詳しいことは仰らないと思いますけど」
(ん?)
「恭さんの為に、色々考えてくれてると思うんです。……絶対大丈夫です、律兄様が味方なら、怖いものなんてないです」
(……桜っち)
「だから、大丈夫ですっ」

 言い切って、桜は柔らかに笑う。それはとても心が温かくなるような笑い方で、恭を励まそう、安心させようとしてくれているのがよく分かる。
 律が仕事を調整してまで、恭のために帰ってきてくれている。それは確かに何よりも心強いことだ。絶対どうにかなる、と信じたい。今までだってどうにかなってきたのだから、今回だって、きっと。

(……ありがとう、桜っち)

 恭の言葉は、声にはならないままではあったが。それでも頷いてくれた桜にはちゃんと、その気持ちは伝わったのだろう。
 律が戻ってくるまでの間、そうして桜が恭を元気づけようと色々と話してくれる話を頷きながら聞いていて。――その『異変』が起きたのは、律が出て行ってからもう随分と時間が経過した後のことだった。

「桜」

 ふわり、と突然現れたのは、プラチナブロンドの桜によく似た女の子。それは現在桜に憑いている『彼岸』――『世界樹の断片ユグドラシル』がヒトの形を取ったときの姿だ。

「ユグ? どうしたの?」
「……何かすごく嫌な気配がする。気を付けて」
「嫌な気配?」
(ぶんちゃん何か感じる?)
『ユグと比べられてもなあ。変なか――』

 恭がスマートフォンに打ち込んだ質問に、画面の上で腕組みをした『分体』の姿に唐突にノイズが走った。何、と考える暇もなく、その姿が掻き消える。何が起こったのか分からずに瞬いた恭の耳に届いたのは、『世界樹の断片ユグドラシル』の声。

「恭! スマートフォンを離して!」
(えっ)

 怒鳴るようなその声に、思わずぱっと手を離した――瞬間。先ほどまで手にしていたスマートフォンが燃え上がる。
 何が起きているのか分からない。布団の上に落ちたそれはしかしフロンには燃え広がることなく、そして熱さも感じない。ぼん、という音がして、軽い爆発と共に炎は消え失せた。残されたのは黒焦げになった恭のスマートフォンだけだ。

「恭さん!」
(俺は大丈夫、でもこれなに!?)
「ユグ、力借りるね」
「分かってる」

 ぴん、と空気が張り詰める。何かが来る――絶対に。こんな状態ではろくに戦えないが、それでも『変身』くらいはできるはずだと恭は構えた。今の桜が『世界樹の断片ユグドラシル』の力を借りてある程度戦えることは知っているのだが、それでも桜だけに戦わせるようなことはできない。動けないが手は使える、何か少しくらいはできることがあるかもしれない。
 がらりと扉が開いた瞬間には『世界樹の断片ユグドラシル』の姿が消えて、代わりに桜の黒髪がプラチナブロンドに変化する。そして、扉の向こうにいたのは。

(……え、ひびちゃん?)
「あー……そっか、そりゃ付き添い一人くらいいるよなー……失念した。せっかくぶんちゃん封じたっつーのに……」

 いつもと変わらない、響がそこにいた。変わらないはずなのに、背筋がぞくりとする。
 何かが、違う。

「……どうして」
「茅嶋 桜ちゃんだよね。茅嶋さんの妹さん。『神憑り』だから、今は『カミサマ』の方? 誰だか知らないけどちょっと黙っててくれる? 俺、恭に用事があるから」
「貴方は『サイキッカー』だったはず」
「恭くらい鈍感な方が桜ちゃんが幸せに生きていけるんじゃない? 『カミサマ』」

 ぼそぼそと少し面倒くさそうに呟きながら、響が手をかざす。桜の身体を借りる形を取った『世界樹の断片ユグドラシル』がすぐに反応して、ばん、と床に手をついた。瞬間、樹木を編み上げたような壁が出来上がって、数秒置いて燃え上がる。

(うわ!?)
「恭、あの子の狙いは貴方よ。気を付けて」
(俺ぇ!?)
「余計なこと言わなくていいっつの。俺は桜ちゃんに危害を加えるつもりはないよ、『カミサマ』。恭を貸してくれたらそれでいいって」
「だめ。恭をどうするつもり? 恭を今の状況に追い込んだ犯人は貴方でしょう?」
「だーから、黙ってろっつってんだろ、『カミサマ』」
(ユグ! 危ない!)

 叫んでも、やはり声は出なかった。黒焦げになった恭のスマートフォンが急に動いて、『世界樹の断片ユグドラシル』へと飛んでいく。はっと振り返った『世界樹の断片ユグドラシル』が一瞬で樹木の盾を創り出して身を守って、盾にぶつかったスマートフォンはばらばらになって床に落ちる。しかし一瞬で『世界樹の断片ユグドラシル』の背後に移動した響の手刀が首に打ち込まれて、『世界樹の断片ユグドラシル』はその場にがくりと膝をついた。響を睨み上げる瞳の力は弱い。

「力を貸すより憑いた方が動けるっつー判断だったんだろうけど、ヒトの身体は不便だろ、『カミサマ』」
「ッ……」
「桜ちゃんの身体にあんま負担掛けるわけにはいかないから無茶なことはできないんだろ? じゃあ残念、大人しくしといてよ。何度も言うけど俺は桜ちゃんに用ないの、何もしなきゃ危害は加えないってば」

 床に散らばったスマートフォンの残骸を拾い集めながら、響は言う。何を言われても、恭は全く今の状況についていけない。どうして響と『世界樹の断片ユグドラシル』が戦っているような状況なのか。何が起きているのか分からない。どうにかしなければと思うのに、何をどうすればいいのかも分からない。
 今の動けない、離せない自分が、この状況で果たして何ができるというのか。

「ったく、せっかく計算通りに事が進んでたのに『 』本人が現れたせいで全部おじゃんだっつの……茅嶋さんまで帰ってきちゃうし、ロクなことないな」
(何……計算ってどういうこと……)
「お前は何も気にしなくていいんだよ、恭」
(ひびちゃん、)
「知らなくて、いいんだ」

 言いながら、響は緩く笑う。それは恭が見たことのない、知らない笑い方。拾い集めたスマートフォンの欠片をベッドの上に置く響の表情は、笑顔である筈なのにひどく暗い。

「何もできねえ自分は歯痒いなあ、恭?」
(……何で桜っちのこと攻撃したりなんかすんの。ぶんちゃんも封じたとか言ってたよな、何でそんなこと)
「何でだろうな。恭、お前が大人しく俺についてきてくれるんだったら俺はこれ以上桜ちゃんには何もしねえよ。でもお前が抵抗して意地でも俺と来ないっつーなら、俺はここで桜ちゃんのことを殺す」
(は!?)
「……恭、だめ。大丈夫、殺されたりしない……」
「『カミサマ』は、だろ。桜ちゃんはどうかな、もともとそんなに体が強い子じゃないんだろ?あんま無理させんのはオススメできねえな」
「貴方の、目的は……」
「よく喋る口だな。黙っててよ」

 ぐ、と無造作に響が『世界樹の断片ユグドラシル』の髪を掴む。そのまま思い切り引っ張りあげるのを見てやめろ、と声を荒げたくても、相変わらず声はでないまま。それでも、響には届いているはずだ。恭の方を向き直った響は、真剣に恭に選択を迫っている。
 ――全く意味が分からない。なぜ響が、こんなことをするのか。

(……よく分かんねえけど、俺がひびちゃんについてったら、桜っちには何もしないんだな)
「勿論。それは約束する」
(なら行くよ)
「そう言ってくれると思ってた、お前なら」
「だめ、恭……!」
「おやすみ、桜ちゃん」

 ぱ、と響が『世界樹の断片ユグドラシル』から手を離して笑う。『世界樹の断片ユグドラシル』の身体が床に倒れて、起き上がらないままプラチナブロンドだった髪が黒髪へと戻っていく――桜へと、戻っていく。

(桜っちに何した!?)
「ちょっと気絶してもらっただけ。何もしねえっつったろ」
(……ひびちゃん、)
「お前のことはセンセが治療済みだからそろそろ声も戻るだろうし、……それに」

 ちら、と響が病室の外を気にするように視線を動かす。これ以上誰かに遭遇してしまうことを警戒しているのだろうということはすぐに分かる。この状況でもし律が戻ってきたとすれば、どうなるかは明白だ。
 桜の方に視線を向ける。何もできない自分にどうしようもなく腹が立つ。彼女に守られるなど、情けないにも程がある。
 それでもまだ、何とかできることはある。声も出ない、動けない、けれど自分がついていくことで桜を守れるのなら。律も戻ってきているのだ、きっと大丈夫だと信じるしかない。
 しかし、分かっている。状況は、最悪だ。

「……あー。やべえ、来るな」
(え?)
「行くぞ恭、時間がない」

 響に肩を掴まれた、その次の瞬間。ぐるんと恭の視界は反転して、そのまま意識が遠のいた。