Phenomenon Breaks - 01
夏というものは当然だがとにかく暑い。去年も暑かったしその前も暑かった。来年こそはもう少し暑さ対策をしなければと毎年思うのだが、毎年忘れてしまうのは合間に冬が挟まるせいだと律は思っている。一度寒くなると暑かったことを忘れて、そのまま次の夏が来てしまう。多分今年の冬は冬で去年寒かったことを忘れているのだろう。何十年経っても同じサイクルだ。
「……吐きそう……」
「絶賛熱中症じゃないすかまじで」
「夏場の調査まじでやめたい……俺が死ぬ……」
「律さん集中すると水分取らないからっすよー。あと昨日あんま寝てないでしょ」
もう、と呆れる恭にごめん、と苦笑う。木陰で休みながら首の後ろに当てた氷がじんわりと溶け出しているのが感触で分かる。一休みしてから調査を再開するつもりではいるが、万全の体調に戻すのは厳しそうだ。この状況では夏の茅嶋は弱っているから今がチャンス、なんて捉える者が出てきかねない。
ゆっくりと深呼吸を一つ。肺に吸い込む空気は相変わらず熱い。
「夏はしっかり寝ないと駄目っすよ。いやいつもだけど」
「いやちょっと……この書類だけ片づけようと思っただけなんだけど……気が付いたらすごい時間でびっくりしたよね……」
「俺が起きるちょっと前にぎりぎり寝たくらいじゃないんすか」
「よく分かったね」
「まじか寝てないじゃん!?」
「元気だねえ恭くんは……」
「俺はよく寝てよく食べよく動くので! 健康優良児!」
「知ってる」
その恭が先日暑すぎてしんどいとぼやいていたのだから、この暑さは律にはあまりにも厳しい。どうにも夏バテ気味で食欲もあまりないことも災いしているのだろう。恭は何だかんだと適当に食べていることは知っているが、対する律はこのところあまり固形物を口に入れた記憶がない。大抵はスープで誤魔化している。
今日くらいは何か食べよう、と思いつつ。食事を取る時間にきちんと食事が取れるかどうかは分からないのが、この仕事のつらいところだ。
「……ちょっと気が急いてるのもあるのかな……」
「今回調査全然進んでないっすもんね……」
「出現条件が分からない怪異系の『彼岸』相手の仕事ほど面倒なものはない……」
事前情報が少なければ、その分調査期間は延びていく。難易度も上がる。それでも「何とかしてほしい」という依頼を受けたからにはどうにかするのが仕事だ。実際何らかの事象が起きていることだけは確認しているので、どうにか痕跡を追おうとして考えていたらこの状況である。もう少しゆっくり考えさせてほしい。太陽がうらめしくなったところでどうにも出来ない。
冷えたスポーツドリンクを半分ほど一気飲みして、立ち上がる。少し足元がふらついたが、最初よりは随分と気分は楽になった。
「もうひと頑張りだけしてあとは夜にしよう」
「そのひと頑張りが数時間じゃなきゃいいんすけど」
「だってさー……恭くんだって早く帰れるなら帰りたいでしょ、憂凛ちゃんの体調気にしてるくせに」
「それはそうっすけどー。でもヒメ先生とかが色々手伝ってくれてるから大丈夫って」
「あー……さすがだな……」
「俺がいても何も手伝ってあげらんないし。帰ってこなくて大丈夫だからねって念押しされてるっすよ」
恭と憂凛の間に2人目が出来たと聞いたのは、今回の海外出張に出た後の話だ。逐次連絡をとっている恭の話や会いに行っている桜の話を聞く限り、随分と悪阻が酷いようだった。恭だけでも帰らせようかと考えていた矢先に『院』の一件があったせいで、完全に恭の方が帰る気がない。憂凛は憂凛で以前のことを気にしているので、恭を帰らせると言っても首を縦には振らないだろう――そういう子だと、知っている。
だからこそ仕事を早く片付けたいのだが、無理をして倒れては元も子もない。体調管理がなっていないのは自分の責任だ、よくよく反省するしかない。
「ホテル戻ったらエアコン効いた部屋でアイス」
「ちゃんとしたもんも買って! そしてちゃんと食って!」
「ハイ」
『桜っち、律さんちょっと色々あったから、しっかり休めそうなら休ませたげて』
帰国して柳川家の墓参りを終えた後。「今日は律さん送ってから帰るー」と言っていた恭が、茅嶋家まで来て桜にこそこそとそんなことを言っているのは聞いていた。何も聞いていないふりをしながらも。今回夏バテや熱中症でどうにも体調を崩しやすかったせいかな、とそのときはそんなことを考えていたのだが。
その本当の意味を理解したのは、その日の夜のことだった。
調査や退治をしてはい終わり、とできていた昔とは違い、依頼を受けて仕事としてやっているからには報告書を出して終了だ。向こうでも、帰路の飛行機でも幾つかの報告書は仕上げたが、まだ数件書かなければならないものが残っている。それが片付く頃には今度は国内での仕事が待っている――お盆の前後はどうしても仕事が多くなってしまうのは例年のことなので。その仕事が片付いたら少し休暇を挟んでまた海外、という流れだ。憂凛が妊娠中であることもあり、出産の時期を考えると、来年は年明けから夏にかけては自宅を拠点として仕事ができる環境にしておきたいという思いもある。何より先延ばしにしている自分と桜の挙式も来年にはする予定で動いているので、年内は気が休めている暇がない。
そうやって気を張っているせいなのか、疲れのせいなのか。自室で報告書を書きながらうとうとと意識が緩んでいた。そのまま睡魔に身を任せていたのか、それともぎりぎり意識は残っていたのか。不意に人の気配を感じた瞬間に、神経がぴんと張り詰めて勝手に体が動いた。
「……あ、」
「す、すいませんお邪魔してしまいましたよね……?」
――ぎりぎり魔術を発動する前に、相手を視認して力が抜けた。背後に立っていたのは、桜だ。
急に動いた律に驚いたのだろう、目を丸くしている桜の手にはブランケット。律がうたた寝をしていることに気がついて掛けてくれようとしたのだろうということは想像に難くない。
「……ごめん……」
「いえ、律様お疲れでしょうしっ。大丈夫ですか……?」
「大丈夫、ごめん、びっくりさせて」
答えながら、上手く笑えてはいないことを自覚する。まさか桜相手に自分が警戒するとは思っていなかった。何よりここは自宅だ、律に対して敵意や害意を抱いて近寄ってくる人間はいない。分かっているはずなのに。
律は元々、人の気配には過敏に反応する方だ。学生時代の修学旅行等は隣に悠時がいるとき以外ろくに睡眠が取れなかったし、恭と同居し始めた最初の頃も恭が学校に行くまではあまり眠れなかった。今でこそ恭と一緒にいる時間も長くなり、気を抜くようにもなった。それは桜に対しても同様だ。その気配は気にならなくなったはずなのに。久しぶり、だからだろうか。
桜の背後、ふわりと一瞬だけ目の端に映った蝶の色が鮮烈な赤色をしていて。ああ、魔術を使いかけたことがバレているのだなということは認識して、律は苦笑う。
「疲れてるのかな。今日はもう寝るかあ……」
「その方がいいです。まだ帰ってこられたところなんですから、少しゆっくりしてください」
「そうだね」
答えながら、桜の視線から逃れようとしてしまうのは心配そうな色に気づいてしまうからだ。彼女に心配を掛けたくはないのに、どうにも上手くいかない。どう誤魔化して対応すればいいのかも分からない。頭の中で思考がぐちゃりと音を立てて潰れていく。
――これは思いのほか、重症だ。