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13
2週間が経ち、そろそろ前期の試験の準備が本格的に始まる頃。食堂で昼食を取っていると、ふらりと玲が現れた。
「お、茅嶋がこんなところに」
「あれ? 玲先輩帰ってきたんですか」
「ああ、うん。昨日な。白石は」
「伴奏探しに」
「……してやれよ……」
呆れたように笑う玲に、律は心底嫌だという表情を浮かべて首を振る。今頃ピアノ専攻を当たっている悠時には申し訳ないとは思うが、律は本当に伴奏を苦手としている。そのことを悠時も知っているのだから、早め早めの準備をしておくべき立場である悠時自身の問題だ。試験時期ともなれば毎回ピアノ専攻は自分の試験の他に伴奏を引き受けることが多いため、あちこちに引っ張りだこになる上、時々安請け合いの末に一人で大量の楽譜を抱えている学生がいることも知っている。結局最終的に悠時に泣きつかれて伴奏を引き受けることにはなりそうだが、出来るだけ頑張ってもらおう、と思っている。引き受けずに済むならそれに越したことはない。
いつものように律の隣に腰を下ろした玲は、随分疲れているように見えた。
「……疲れてますね? 玲先輩」
「うーん、ちょっと時差ボケがな……」
「あー……。どうでした? ロンドン」
「一人でゆっくりあちこち行けて楽しかったよ。茅嶋も留学とかどうだ?」
「いや、俺留学しませんし。家業継いだ時にはあちこち行くことになるでしょうけど」
音楽で留学をする、という道を考えたことはない。ピアノは好きなことに変わりはないのだからこの先も弾き続けるだろうが、それを仕事にするかといえばやはり違う。そうか、と呟いた玲は少し寂しそうにも見えた。
――こればかりは。『ウィザード』として生きると、決めているから。
「勿体無いな。私は結構茅嶋のピアノが好きなんだが」
「ま、家継ぐことになっても完全にピアノ辞めないですよ。触る時間は確実に今の百分の一以下になる気がしますけど」
「……ふむ。じゃあやっぱり、茅嶋、ひとつ頼まれろ。私のヴァイオリンソナタの試験に付き合え」
「はい?」
会話の経緯が分からずに、律は眉を寄せる。玲としても律が伴奏を引き受けないのは承知の筈だ。それがおかしかったのか、玲は少しおかしそうに笑って。
「今から他の伴奏を頼むのも大変なんだ、分かってるだろう?どうしても嫌だと言い張るなら、弾き方は全部私が指定する。だから、窮屈だろうがその通りに弾いてくれればいい」
「……と言われましても」
「それとも何だ? 卒演の時に伴奏引き受けてくれるのか?」
「そんな大役は本気でお断りしますね俺は」
「だろう? 折角だから卒業する前に一度くらいはお前と演奏させろ」
笑いながら、しかし真面目なトーンで告げられて面食らう。熱望されるほどの価値が自分のピアノにあるとは思えない――何より、苦手な伴奏として。玲のヴァイオリンの実力を知っているだけに、どうしても気が引けてしまう。
「まあ、茅嶋にも自分の試験があるからな。無理にとは言わないが、少しでも考えて貰えると私としては嬉しい」
「……玲先輩」
「明日にでも土産を持ってお前の家に行くから、返事はその時聞かせてくれ」
「……わ、かりました……」
こんな風に言われてしまうと、無碍には断れない。律の返事に頷いた玲は、じゃあな、と笑ってそのまま席を立って去っていった。食堂まで来たのに食事は良いのだろうか、と首を傾げつつも、律は中断していた昼食を再開する。
引き留めて実家に帰った話をするべきだったかもしれない、とは思うものの、そうなってくると話は長くなる。新藤 奈南美の話に触れないわけにはいかなくなる。あれ以降、律は学内で彼女の姿を見掛けてはいないが、悠時からの情報によると確かに大学には来ているし、授業を受けているのも確かなようだ。専攻も学年も違うので顔を合わせないのは然程珍しいことではないが、それにしても気に掛かる。あれから何も起きない、というのも不気味だ、と考えてしまうのは、身構えているからだろうか。
「頼む!」
「……言うと思ってたけどさー」
翌日、自宅にて。
律は悠時に土下座されていた。案の定というべきか、当てのあったピアノ専攻全員に伴奏を断られてしまったらしい。最終的にどうしても見つからない場合は教師側から斡旋という手段もあるが、そうなるくらいなら律に頼みたい、というのが正直なところなのだろう。
「……楽譜寄越せ」
「引き受けてくれんの? まじ?」
「頑張るよ……てか断っても悠時の場合俺が引き受けるまで頼み込む気満々でしょ、それはウザい」
「ひでえ。いやまあそうなんだけど。ありがとうりっちゃんまじ神様」
「安い神様扱いだな……」
とはいえ、悠時の伴奏を引き受ける以上、必然的に玲の伴奏も引き受けることになるだろう。さすがに悠時を受けたのに玲を断る、ということは出来ない。どちらにしろ、返事をする予定は今日だ。弾き方を指示してくれるならその分楽な可能性もあるので、肩の力を抜いて引き受ければいいか、と考える。苦手分野はどうしても腰が引けてしまうので。
「はー良かった! りっちゃん引き受けてくんなかったら本気で死ぬとこだった」
「お礼に何か奢って」
「おうよ、勿論。……しっかし柳川先輩おっせえな、ホントに今日来んのか?」
「うん、メール来てたし」
お土産という話も出ていたので悠時もいた方がいいだろうと呼んだところで土下座をされているので、正直呼ばなければよかったと思う。玲からのメールでは20時頃には行くから、と書いていたのだが、既に時刻は21時近く、特に連絡もない。食べるだろうと思って用意した夕飯は既に冷め切っている。食事は温めればいいが、こうも連絡がないと何かあったのではないかという心配が首をもたげる。
こちらから連絡してみよう、と携帯を取り出す。電話番号を呼び出して、通話ボタン。呼び出し音は響いたものの、いつまで経っても玲が電話にでる気配はない。
「……電話出ないな」
「えー……何かあったんじゃねえの」
「うーん。電話出れないだけならいいんだけど」
しかし、玲が何の連絡もなく遅れる、というのはほとんどない。――そもそも、玲はいつ帰ってきたのだろうか。本当に帰国したのは一昨日だったのだろうか。行く日は聞いていたが、帰ってくる日は聞いていなかった。よくよく思い返せば一週間行ってくる、という話をしていたはずで、そうだとしたらあまりにも旅行期間が長すぎる。
もしかすると、玲は一人で何かしていたのではないだろうか。そう思い当たった瞬間に、嫌な予感が背筋を這い上ってくる。
「……どうしよう」
「何か調べるような魔術ってねーの?」
「悠時は魔術を万能だと思い過ぎてて困る、そして俺にそこまでの技術はまだない」
「失礼しました」
「うーん……昨日玲先輩体調よくなさそうだったし、ちょっと気になるな……」
「何か最近変な事件とかねえの?」
「俺の耳には入ってない。大体俺の情報源って基本玲先輩だし」
「じゃあ柳川先輩がシャットダウンしたらりっちゃんの耳にはなかなか入ってこねえってことだな」
「そういうことになる……」
元々、律自身が巻き込まれるような案件以外はいつも、大体玲が持ってくる仕事であることが多い。学生の本分は勉強、という理由をつけて律自身があまり積極的に動いていないところを、仕事自体は修行の一環として細々でもやっておくべきことであることを玲が知っているから誘ってくれる、というのがここ2年の過ごし方だった。
もし、玲が帰国日を偽っている可能性があるとすれば。何かの事件に巻き込まれていてそれを黙っているのだとしたら。それを故意に律に伝えていない状態で、そしてそれが奈南美絡みの事件なのだと、したら。
――落ち着かない。携帯片手に立ち上がると、つられるように悠時も立ち上がる。
「探しに行くなら付き合うぞ」
「さんきゅ。じゃあとりあえず玲先輩んち」
「今日俺バイクだし、後ろ乗れ」
「助かる」
2人で急いで家を出て、悠時のバイクで一路玲の家へと向かう。道中、律も悠時も一言も口を開かなかった。不安が2人の間を渦巻いている。
悠時とて、律と玲の『ウィザード』としての仕事のことはよく理解してくれている。もし玲が一人で巻き込まれていて、黙って一人で何かをしようとしているのであれば。
奈南美の実態はよく分からない。彼女が何の目的を持って律を、そして玲を狙ったのか。玲は奈南美と対峙したとき、自分達の3倍は生きているというようなことを言っていた。そこまで調べがついていたのに、律には何も伝えていない。彼女の存在を知った時点で、律はもっと調べるべきことがあったのではないだろうか。まだ奈南美絡みだと決まったわけではない、そう考えるのは早計なのかもしれない。だがしかし、玲が律には教えていない奈南美の何かを知っていて、それで動いているのであれば、やはり何が起きていても不思議ではない。
玲の住んでいるマンションの前に到着して、万が一のことを考え、律は悠時にそのまま待っていてもらうことにした。その辺りは悠時もわきまえている、何かあれば必ず連絡するよう確認し合ってから、律は玲の部屋へと向かう。普段は玲が律の家を訪れることが圧倒的に多いため、律が玲の家を訪れることは片手で足りる程度のものだ。それでも迷うことなく玲の家の前へとたどりついて、インターホンを押す。ピンポン、と音が響きはしたものの、反応は何もない。もう一度押してみても、インターホンの音が虚しく響くだけで他の音は何も聞こえない。
「……いない……?」
すれ違いになったかもしれない、と一瞬考える。しかしそれなら、玲は遅れたことを必ず連絡してくるはずだ。もし一足先に律の家に着いていれば、誰も出ないのだからどちらにしろ連絡はあるだろう。考えつつ携帯を取り出して、玲に電話を掛けてみる。
――微かな着信音が、律の耳に届いた。
恐らく間違いない。携帯を忘れてどこかに行ってしまった可能性がないわけではないが、それよりも胸騒ぎがする。相手は玲の家とはいえ、他人の家に勝手に入るのは気が引けるが、そんなことを言っている場合ではない。とんとん、と鍵を叩いて『リズム』を刻み、口笛を一つ。あっさりと鍵は解錠されて、律は恐る恐る玄関の扉を開けた。部屋の中は電気も点いておらず、真っ暗だ。
「玲先輩?」
呼びかけた声は部屋の中に吸い込まれて消えていく。いないならそれでいい、鍵を掛け直して悠時のところに戻って別の場所を探しに行くだけだ。勝手に入りましたごめんなさいと言えば、状況が状況なのできっと玲は笑って許してくれる。
お邪魔します、と呟いて、律は玲の部屋の中に足を踏み入れる。瞬間、ぞくりとした冷気が全身を襲う。これ以上進むのを躊躇ってしまう程に、重たい空気を感じる。しかしここは玲の家で、玲が住んでいる部屋で、そんな場所がこんな空気を出すとは思い難い。
――そして、気付く。この部屋は、あまりにも不自然な程に暗闇の中にある。まだそれほど遅い時間ではない、外からの明かりも多少は入ってくるし、律はまだ扉に手を掛けたままなのだから廊下の明かりも入り込んでいる筈なのに、玄関から先の様子が全く窺えない。
もう一度、律は玲の携帯に電話を掛ける。着信音はやはり部屋の中から聞こえたが、どこで鳴っているのか全く分からない。――おかしい。
「……玲先輩?」
呼び掛ける声が震える。もしこの部屋の中に玲がいるのだとしたら、とんでもない状況に巻き込まれているのではないだろうか。恐る恐る、右手で『リズム』を刻む。深呼吸。覚悟を決めて、口笛を吹いて。魔術の光源が、玲の部屋を照らし出す。
その瞬間律が見たものは、真っ赤に染め上げられた部屋と、そしてその中に倒れ伏す玲の姿だった。
さすがに救急車を呼ぶしか方法がなかった。
律は救急車に同乗する形で、悠時はバイクで病院まで。外傷は全くなかったものの意識が全くない玲は色々と検査もされたようだったが、結局のところ何が原因なのかは分からなかった。――当たり前だ、と思いながら、それを口にするわけにはいかない。『彼岸』の仕業など、誰も信じない話だ。
部屋が不可思議な状態になっていたこともあり、救急隊経由で警察沙汰になっていた。鍵については開けっ放しになっていたことにして、後はありのまま、会う約束をしていたのに姿を見せず連絡も取れなかったので様子を見に行っただけであること、そして部屋を狂気の沙汰としか思えないほど全て真っ赤に染め上げるような人ではないこと。事細かに色々なことを尋ねられたが、本当に何も分からない、と答えることしか出来なかった。
床も壁も天井も、小物一つに至るまで真っ赤に染め上げられたあの部屋は、どう考えても異常だ。玲がいつも使っているヴァイオリンまで、板も弦も弓も、何もかも全て赤く染められていたのだから。あのヴァイオリンは玩具ではなくかなり高価なもので、昨年玲がきっちりと自分で貯めた金で買ってとても大切にしていたことを、律は知っている。
「……はー……」
病院に慌ててやってきた玲の両親に付き添いを譲って、律と悠時は警察の事情聴取を終えてから律の家へと戻ってきていた。初めて会った玲の両親は、どこにでもいそうな普通の人たちだ、という印象だ。少なくとも『此方』や『彼方』ではない。そして玲は恐らく、自分が『ウィザード』であることなど、両親にはカミングアウトしていないだろう。
既に時刻は明け方に近い。どっと疲労に襲われたものの、眠れるような気がしない。律の手の中には、玲がいつも使っていた銃――魔術で分解する前の状態のもの。倒れていた玲の傍に落ちていて、そして部屋の中で唯一赤く染まっていなかったものだ。モデルガンとはいえこれを見つけられてしまうと別の問題が発生しそうだったので、悠時が一旦コインロッカーに隠した上で帰りに回収してきたのだった。いつも玲がやっていた銃を魔術で分解する方法は、さすがに律には分からない。同じ『ウィザード』と言えど、術式の組み方は全く別だ。
銃が落ちていた、ということは、玲は交戦していたということになる。何と、或いは、誰と。
「お疲れ、りっちゃん」
「悠時もお疲れ。珈琲でも飲む?」
「お。貰う」
悠時と2人、机を挟んで向かい合う。とはいえ会話もなく、溜め息しか出ない。現時点では何も分からない為、とにかく玲の意識が戻るのを待つしかないだろう。
玲は何の情報を集めていて、どうして部屋があんな状況になって、玲が倒れていたのか。部屋中が真っ赤に染め上げられたあの部屋は、何回思い出しても悪趣味だ。
「……真っ赤な部屋、かあ」
「『赤い部屋』といやー、ホラーフラッシュだよなあ」
「……何それ。ほらーふらっしゅ?」
「え、りっちゃん知らねえの?……ああ、りっちゃんそもそもネットあんま見ねえな」
「うん」
「一昔前に流行ったんだよ。ホラー系の話でさ、ポップアップウィンドウっつって、まあ広告とかによく使われてたやつなんだけど、『あなたは好きですか?』って書かれたちっこいウインドウが出るんだわ」
「うん」
「何回消そうとしてもそのウィンドウが出てくるんだけど、ちょっとずつ見た目が変わってな。最終的に文章が『あなたは赤い部屋が好きですか?』っつー文章になって、最後は真っ赤な画面の中に人の名前がぶわーって出てくる。んで、それ見た人は死ぬんだよ、部屋を真っ赤にしてな。出てくる名前はそれ見て死んだ人っつー話」
「……悪趣味ー……」
「一時期ほんっとちょー流行ったんだけどな。初見はきもちわりーんだぜー、画面一面真っ赤になるし変な顔出てくるし」
律にとっては初耳だ。パソコンを使えない訳ではない、普通にインターネットも使うが、そういうものを調べたりはしないのでそもそも辿り着いていない。調べてみれば今でも出てくるのだろうか、と思いはしたものの、あまり調べる気もしない。プログラムされたお遊びであることは分かりきっているし、悠時が話してくれた以上のものは出ないだろう。
確かに部屋の状況はそれに似ているのかもしれない。そういうものを模したのか、或いは都市伝説として『彼岸』となって生まれ出てしまったか。人の恐怖や伝聞が本当に『彼岸』となって生まれ出るのはよくあることだ。不特定多数の人が一瞬でも恐怖を抱いたことがあるものならば、尚更。しかし、それがどうして玲と出会ったのか。
「……やっぱり新藤 奈南美かな」
「この間のフルートの?」
「うん。どうにもこの間の一件だけで終わる気がしないし……ああもう……調べること山程出来たな……」
一番手っ取り早いのは本人を捕まえて問い質すことだろう。関係がない可能性もない訳ではないが、疑わしいところから片付けてみるしかない。
律の調査の方が早いか、それとも玲の目が覚める方が早いか。そして玲が目覚めたところで、律に隠して動いていたことなら素直に話してくれるかどうかは分からない。
淹れた珈琲を飲みながら思案に耽る律に、悠時は何も言わなかった。
翌日、再び警察の事情聴取を受けてから、律は大学に向かった。ああだこうだと警察に根掘り葉掘り聞かれたところで説明出来ることなんて何もないが、こればかりは仕方がない。救急車を呼ぶ以外の選択肢があの時思いつかなかった。部屋を見られないよう玲を担いで連れ出せばよかった、と今になって思うが、そこまで頭が回らなかったのは事実だ。
「あら。茅嶋先輩」
「……!」
「こんにちは。お久し振りです」
唐突に声を掛けられて顔を上げれば、にこにことした笑顔を浮かべた奈南美が立っていた。あれから学内で一切姿を見掛けなかったのに、と思ったが、すぐに合点がいく。意図的に避けられていた。会わないように――話しかけられないように。
「……こんなところで待ち伏せなんかしちゃって。俺に何の用?」
「用があるのは貴方でしょう?茅嶋先輩。昨晩は色々と大変でしたね、お疲れ様です」
にこにこと、奈南美は笑っている。その笑みの底の知れなさに、ぞくりと背筋に寒気が走る。昨晩のことを知っている、ということはやはり玲のことに関わりがあるとしか思えない。
「これから授業ですか? お時間がおありなのでしたら私と少しお話しでもしません?」
「……話だけなら」
「ふふ、そんなに構えなくても大丈夫ですよ。何も致しません……『今は』」
含みを持たせるようにそう言って、奈南美は歩き出す。大学の中ではなく、違う方向へ。一瞬悩みはしたものの、意図的に会えない状況にされているのなら、これを逃せば律は奈南美に自分からは会うことは叶わないだろう。この機を逃せば、次はいつになるか。罠かもしれない、その時は自分で自分の身を守るしかないと覚悟を決めて、黙って奈南美の後をついていく。まるで口笛でも吹きそうに楽しげな奈南美の後ろ姿は、見た目だけなら普通の女の子と何ら変わりない。
数分歩いた先で彼女が入ったのは、どこにでもあるチェーンの喫茶店だった。それなりに客は入っている。
「入らないんですか?」
「……いや、入るけど」
悩んでいても仕方がない。店内で席に着くと珈琲を頼んで、奈南美と向かい合う。相変わらず彼女はにこにこしていて、得体が知れない。探り合いをしたところで多分無駄だ。ストレートに話を聞いた方がいい。ひとつ深呼吸して気持ちを落ち着けて、律は口を開いた。
「玲先輩に何したの?」
「あら。直截ですね」
「昨日何かあったことを知ってるってことは、そういうことでしょ?」
「ふふ。私は貴方たちの動きなら大体知っていますよ。可愛い『使い魔』たちがよく働いてくれますから」
「……へえ。つまり俺たちの行動を監視してるってこと?」
「まあ、そうなりますね。先日隠身術をされて不覚を取ったので、念には念を。ですから茅嶋先輩がこの間ご実家に戻られたのも知っていますよ。……まあ流石は『茅嶋』、何をなさっていたのかまでは探らせて頂けませんでしたけど」
当たり前のように、何の迷いもなく奈南美は告げる。『使い魔』――『魔女』の使える術のひとつを使用しているということだろう。それがあるからこそ、『魔女』は情報収集に長けているのだ。彼女自身が動かなくても、『使い魔』が情報を集めてくる。
「あんまりいい気分じゃない話だな。俺や玲先輩を監視して、狙いは何?」
「そんなこと簡単に言いませんけど。馬鹿ですの貴方」
「真夕ちゃんの楽器の件も、君が仕組んだこと?」
「真夕ちゃん? ……ああ、楽譜の彼女、そんな名前でしたっけ。そうですよ。アレで簡単に貴方を仕留められるだろうと思ってたのに、とんだ邪魔が入って残念でした。仕方がないので先に柳川先輩にご退場願おうと思ったら、今度は茅嶋先輩に邪魔されちゃいましたし」
あっさりと、まるでなんでもないことかのように、奈南美は告げる。悠々と珈琲を飲む手つきは優雅そのもので、何も感じてなどいない。律を殺そうとしたことも、玲を殺そうとしたことも。そこに罪悪感などひとつも存在してはいない。
ぐ、と拳を握りしめて深呼吸。感情的になってしまったら、言い包められて終わってしまう。今は落ち着くべき状況だ。落ち着いて、彼女から情報を引き出さなければならない。
「ところで茅嶋先輩?」
「……なに」
「貴方は私を前にどうされます?柳川先輩はもう戦えませんし、私が貴方を仕留めるのも時間の問題だと思いますよ」
「そう簡単に殺されるつもりはないし、玲先輩がもう戦えないとは限らない」
「ふふ、それでこそ雪乃さんのご子息。楽しみにしています、本当に」
「新藤さん、昨日玲先輩に何を」
「しつこい男は嫌われますよ? 茅嶋先輩。教えるつもりなどありません。柳川先輩に直接お聞きになればいいでしょう。そのうち目も覚めるでしょうし」
「……俺や玲先輩を殺すのが目的なら、昨日、玲先輩を殺さなかったのは何で?」
「……あら。いいところを突いてきましたね」
「玲先輩は意識不明だった。今日の新藤さんは平然としてる。万全の状態だったなら、新藤さんには玲先輩を殺すことなんて造作も無いことだと俺は思うんだけど」
「だって、面白くないじゃないですか」
珈琲のカップを置いて、奈南美は笑う。変わらず、にこやかに――底の知れない表情で。
「死ぬ時は、目一杯絶望して頂かないと」