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One Last P"l/r"aying

09

 練習室に行けば真夕がいる。いれば話をする。演奏の感想を聞いたり、作曲家の話題で盛り上がったり。音楽の趣味が合うと、話をするのは楽しい。親交を深めれば仲良くもなる、というのが今の律の状態だった。一人で詰めるのもいいが、人がどう感じるかを聞くのは参考になる。相手が幽霊であることを忘れてしまいそうだ。

「おう茅嶋。久し振りだな」
「……玲先輩……重いです……」

 そうして律が練習室に籠り始めて2週間程経った頃。食堂で悠時と昼食を取っていると、ふらりと現れた玲に頭の上にトレイを置かれた。悪いな、と笑う玲は当然のように律の隣に腰を下ろす。玲が持っていたトレイの上には定食がしっかり乗っている。細身ながらよく食べる人だな、とぼんやり律は思う――最も、『ウィザード』は魔術を使う際にエネルギーを使用しているのか、どうにも見た目より食べる人間が多いように感じる。律自身も食べる時はかなり食べる方だ。

「柳川先輩は明日オケ本番でしたっけ」
「おお。聴きに来いよ」
「仕上がりは上々ですか?」
「誰に向かって聞いているんだお前は。当たり前だろう?」

 自信満々に笑う玲の実力は、律も悠時もよく知っている。現在のヴァイオリン主席であり、コンサートマスターとしてオーケストラを纏める程の腕を持つ彼女は、既に国内のオーケストラに所属することが決まっている。それでありながら気さくな性格をしている玲は、人望も厚い。
 3人で昼食を食べながら、他愛もない近況報告を交わす。このところお互いに忙しかったことも手伝って、真夕の話を玲にしていないとを思い出す。報告はしておいた方がいいだろうかとは思ったものの、玲が忙しいなら気を揉ませるようなことではない。

「ところで茅嶋」
「はい?」
「ちょっと見ない間に随分痩せたな。ちゃんとメシ食ってるのか? お前詰めるとすぐ寝食忘れるだろ」
「……え、そんな痩せました? ご飯ならご覧の通りちゃんと食べてますよ」
「今日は、じゃなくてか? 痩せたというかやつれたな。どう思う白石」
「あー、俺もちょっと調子悪そうだなとは思ってたんですけど」
「ほら。ただでさえ細いんだから気をつけろ。演奏会に集中し過ぎじゃないのか? ちょっとくらい息抜きしろよ」
「玲先輩の息抜きは呑みに連れてかれるからヤです……、てか先輩、学内禁煙ですよ、煙草出さないでください」
「ああ、そうだった。お前らと居ると気が抜けるな。私も人のことは言えないか」

 玲としては無意識だったのだろう。ポケットから取り出された緑色のメンソールの煙草の箱を見咎めれば、困ったように玲は笑う。何だかんだとプレッシャーのかかる位置にいるのだから、気を抜きたくなる気持ちも分からなくはない。

「んじゃ俺授業あるんで失礼しますー」
「お。いってらっしゃーい」
「いってら」

 食べ終わったトレイを持って、返却に行こうと立ち上がる。瞬間、くらりと目眩を覚えて、一瞬動きが止まった。律の動きが止まったのは正面に座っていた悠時にはすぐに分かったのだろう。怪訝な表情で見上げる悠時に、律は苦笑う。

「どうした?」
「ちょっと立ち眩み……」
「マジ? 大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。ごめん、じゃあまたね」

 玲の言う通り、痩せたのだろうか。一日くらいは練習を控えてしっかり食事と睡眠を取った方がいいかもしれない、と考えながら食堂を後にする。その後ろ姿を、玲が厳しい表情で見ていることを知る由もなく。

「……白石。お前、茅嶋のことで最近何か聞いたか」
「あー……っと。そういや前練習室に噂の幽霊が出たみたいな話は言ってましたよ」
「……幽霊?」


 練習室の扉を開けると、いつものように真夕が待っていた。ぱっと表情を輝かせる真夕に、律は笑顔を見せる。

「やっほ、真夕ちゃん。元気? って聞くのもおかしいけど」
「私はいつも通りですよ。茅嶋先輩待ってただけです」
「そっか。お待たせしました」
「今日も頑張ってくださいね!」
「はーい」

 いつも通りにピアノの前に腰を下ろして、指鳴らしに一曲。その後楽譜を広げて試し弾きにかかったものの、どうにも頭がくらくらしている。集中出来ない。睡眠が足りていないのか、それとも栄養が足りていないのか。先程の立ち眩みのことも気に掛かる。この辺りで一度休憩しろということなのかもしれない。

「……駄目だな。ちょっと調子悪いみたい、今日は帰った方がよさげ……」
「……帰っちゃうんですか?」
「うん……ごめんね」

 真夕が律のピアノを楽しみにしてくれていることは分かっている。それでも、このままの状態が続けば演奏会どころか色々な人に迷惑を掛けてしまうのが目に見えている。そもそも練習する為にここに来ているのであって、真夕のためにピアノを弾きに来ている訳ではない。彼女のため、と思うのは本末転倒だ、と律は緩く首を振った。
 そうですか、と残念そうに小さく真夕が呟いて。瞬間、背筋に寒気が走って、律は思わず背後を振り返った。しかし、そこにはいつもと変わらない姿の真夕がいるだけだ。疲れのせいだろうか。体調の問題が思わしくないせいだ、気のせいだろうと自分に言い聞かせる。

「また明日ゆっくり弾くよ」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫、ちょっと疲れてるだけだと思う。……うん。また明日」
「はい。じゃあ、待ってますね」

 寂しそうに、それでも笑った真夕に律も笑い返して。ピアノを整えてから練習室を出て、思わず溜め息が漏れた。自己管理がなっていないのは、よくない。

「茅嶋」

 突然声を掛けられて、びくりと背筋が跳ねる。恐る恐る声の方に視線を向ければ、片手に煙草を持った玲が立っていた。学内禁煙を守る気はないのか、と思わず肩を竦める。

「……玲先輩、禁煙ですよ」
「茅嶋、なぜ練習室の幽霊の話を私にしなかった?」
「玲先輩忙しいじゃないですか……、明日オケなんでしょう? 別段悪意も害意もない子だし、落ち着いてからでいいかと思ってて言ってないだけで隠してたワケじゃないですよ。ていうか悠時に聞いたんですか?」
「『悪意も害意もない』?」
「……ないです」
「本気で言ってるのか? お前」

 玲の声が厳しい。怒っているのだということに気付くまで、そう時間はかからなかった。律の方を見ることなく壁に寄りかかって煙草を吸う横顔は、やけに苛立っている。

「……先輩?」
「お前、練習室を変えろ」
「え」
「いいか、練習室を変えろ。今からでもとっとと申請して、もう二度とこの練習室に入るな」
「何で……」

 つい先ほど約束したところだ。また明日、と約束した。真夕と。待っていると、真夕が言った。
 彼女には律以外の話し相手などいない筈だ。そもそも普通であれば、こんな風に幽霊と喋っていることなど有り得ない。真夕は律のピアノを楽しんでくれているし、その期待に応えたくて。
 だから――だから、明日もこの練習室で、ピアノを弾く。

「……何でそんなこと言うんですか」
「分からないなら考えろ。疲労で頭も使えなくなったか?考えることを放棄するんじゃない」
「……せんぱい、」
「早く帰って寝ろ。酷い顔色だぞ」

 舌打ちの音を静かな廊下に響かせて、玲は去っていく。
 床を叩くヒールの音が、やけに耳障りだった。


 翌日。
 玲の忠告は気になってはいたものの、律はいつもと同じ練習室に足を運んでいた。部屋を変えることになるにせよ、真夕には会っておくべきだと考えたからだ。出来れば彼女をあるべき場所に還してあげておきたいとも思う。
 玲の耳に入ればきっと怒られるだろうが、今日の玲はオーケストラの日だ。講堂でヴァイオリンを弾いている筈で、そしてその演奏を悠時も聞きに行くであろうことを考えれば、とりあえずは大丈夫だろう。本当であれば玲のいるオーケストラの演奏は律も聴きに行きたい気持ちはあるが、今日ばかりは仕方ない。一晩ゆっくり眠っているし、体調も恐らく回復している。
 いつものように、練習室を開ける。そこにはいつも通り、真夕が立っていた。

「茅嶋先輩! 今日は調子大丈夫ですか?」
「うん、ちょっとマシになったよ。昨日はごめんね」
「いえいえ。仕方ないです、そんな日もありますよ。いつも頑張ってるから疲れちゃったんです、きっと」

 にこにこと笑う真夕に安心しながら、律はいつものようにピアノの前に腰掛けた。しかしピアノの蓋を開けることはせずに、真っ直ぐに真夕と向かい合う。

「ねえ真夕ちゃん」
「はい?」
「真夕ちゃんは、ずっと此処に居るの?」

 演奏会の前日に事故。きっとかなり練習して、きっと演奏会で最高の演奏をしようと意気込んでいただろう。その気持ちが残って、そして何かに呼応して、この練習室に幽霊として遺っている。
 今はこのままでも別に問題はない。だが、律が練習室に来なくなった後はどうなるだろうか。幽霊がいるという噂だけが学内に広がっていって、気味が悪い、と誰もこの練習室に近づかなくなってしまったら。或いは、面白がる人間だけが此処に来るようになってしまったら。『良くない』ものに変わってしまうことは、避けたい。

「……茅嶋先輩?」
「真夕ちゃんはそろそろ、居るべきところに帰らないといけないんじゃないかと、思って」
「……何で急に、そんなこと……」
「んー。ずっと考えてたんだよ。でも真夕ちゃんが居なくなるのは寂しいから、ちょっと先延ばしにしちゃった。……そしたらちょっと、先延ばしにし過ぎたかな」

 ピアノ演奏を純粋に褒めてくれて、演奏を楽しみにしてくれる。そんな真夕がいてくれることが嬉しかったのは確かで、だからずっと演奏会の後でいいだろうと言い訳をつけて、先延ばしにしているだけだ。玲にだって言おうと思えばいつでも連絡をするタイミングはあったのに、黙ってしまっていた。だから玲も怒ったのだということは、さすがに分かる。
 律の言葉に、徐々に真夕の顔が俯いていく。その表情は窺えなくなる。胸がずきんと痛むものの、こればかりはもうどうしようもないことだ。

「……じゃあ、」
「ん?」

 ぽつり、小さく真夕の声が聞こえた。何だろう、と首を傾げた次の瞬間、真夕が顔を上げて。
 わらう。

「茅嶋先輩も、一緒にいきましょ?」

 ――凄惨な笑顔。
 それは、悪意と害意が凝り固まった表情だ。まずいと思った瞬間、扉が開く音がした。けれど律はそちらを振り返ることが出来ない――身体が全く動かない。指先一本動かせない。

「だから言っただろうが茅嶋! 白石! あの馬鹿引き摺ってこい!」
「はいよ!」
「……だれ、あなたたち。茅嶋先輩は私が連れて行くの、邪魔しないで!」
「やかましい! 装填・《水》!」
「おいりっちゃん! しっかりしろ!」
「祓え、ウンディーネ!」

 悠時に身体を抱えられた状態で、辛うじて見えたのはステージ衣装の姿で銃を構える玲。そして、その玲に飛びかかる、身体の半身がずたずたになって血にまみれている真夕の姿で。
 その先は、記憶が無い。


 目が覚めると、そこは救護室だった。

「おー。起きたかりっちゃん」
「……ゆうじ、おれ……」
「おとなしくしとけー。もうすぐ玲先輩もオケ終わるしこっち来るだろうから」
「……うん」

 呆れた顔で笑う悠時は、いつもと変わらない。何の言葉も出ずに、律はゆっくりと瞬いた。
 前提条件から律が間違っていたことをまざまざと実感させられる。悪意も害意もないなどと判断するには、あまりにも甘過ぎたということなのだろう。調子が悪くなっていたのは、このところずっと真夕と居たせいだったのだ。どうしてそんな簡単なことに気付かなかったのだろうか。玲はきっちりと見抜いていたというのに。

「夏八木 真夕だっけ」
「……ん?」
「りっちゃんが一緒に居た幽霊の名前。あ、俺全然何してんのかさっぱり分かんなかったけど」
「……零感……」
「うっせ。……5年前、演奏会の前日の帰り道、楽譜を忘れて練習室に取りに帰る途中に事故に遭って亡くなったらしい、って玲先輩が言ってたぞ」
「楽譜?」
「おう。俺探しとけって言われてちょー探したっつーの。これ」

 がさがさと、悠時が傍に置いてあった鞄を漁る。はい、と出てきた楽譜を渡されて、それに触れようとして――手が止まる。気持ち悪くて触れない。手の動きで気付いてくれたのだろう、悠時は俺に見えるように楽譜を広げてくれた。
 フランツ・リスト。コンソレーション第3番。

「……これ、演奏会で真夕ちゃんが弾く予定だったヤツ?」
「おう。玲先輩によると、これを弾きたかった!って気持ちが怨念みたいになって宿ってて、それがりっちゃんの力に触れて呼応して具現化、んでずっとりっちゃんの力を吸ってたから短期間ですっげ強くなっちゃったんじゃねえかっつってた」
「……マジ俺のせいって話じゃんそれ……」
「玲先輩ちょー怒ってたぞー」
「ですよねえ……」

 ――だが、話がおかしい。
 5年も前の忘れ物であれば、とっくに回収されている筈だ。遺品として家族に渡されていてもおかしくないものが、どうして今更になってあの練習室にあったのだろうか。誰かが意図的に置いたのか、それとも何らかのきっかけであの練習室に舞い戻ってきてしまう外的要因があったのか。
 玲の忠告がなければ、律はあの練習室で変わらずピアノを弾き続けていただろう。そしてそのまま知らない間に弱って、力を吸われて、最悪の場合真夕に喰われて死んでいた。そうなれば今度は律が練習室の幽霊になっていたかもしれない、というのは笑えない冗談だ。
 不意に部屋の外で甲高いヒールの音がした。玲だ、と思った瞬間に扉が開く音がして、すぐに間仕切りのカーテンが開く。
 無表情で、ステージ衣装のままの玲がそこに立っていた。

「玲せんぱ、」
「この馬鹿!」

 遠慮なく胸倉を掴まれて、身体を起こされて。容赦なく、フルスイングで思い切り平手打ち。うわ、と小さな悠時の声が遠くで聞こえる。
 痛い。
 じんじんとした鋭い痛みが頬に残る。しかしそれよりも、無表情から顔を歪めた玲の表情が、酷く痛々しい。

「……だから言っただろう二度とあの練習室に入るなと! 何で人の言うことが聞けないんだこの大馬鹿!」
「……ご、めんなさい…」
「『彼岸』に優しくするのは構わない、同情するのも好きにすればいい! だが絶対に連れていかれるような真似はするんじゃない、もうちょっとでお前は死ぬところだったんだぞ!? 分かってるのか!」
「……先輩」
「私が気付かなかったら、どうするつもりだったんだ……!」

 胸倉を掴んだままの玲の手が、震えていた。泣きそうな声で、けれど玲は泣かない。真っ直ぐに律を睨んで、目を離さない。
 ――自分はまだまだ弱いのだと思い知らされる。悪意や害意があるかないかの区別さえ、まだ全然出来ないレベルなのだと。だから『彼岸』から見れば隙だらけも同然なのだ。気を抜いたら一瞬で連れて行かれてしまう程に、弱い。
 目を伏せた律に、玲は舌打ちして。胸倉を掴んでいた手を離して、今度は悠時の方に視線を向ける。

「白石。楽譜はあったか」
「あ……あ、はい。これ」
「……何でお前はそれ触ってそんな平然としてるんだ?」
「え! これそんなやばいんすか」
「そんなやばい。さっさと燃やすぞそんなもの」
「玲先輩ちょっと待って」
「……何だ茅嶋。この期に及んで燃やしたくないとか言い出したら殺すぞ」
「そうじゃなくて」

 真夕の楽譜。
 律に触れることは出来ないものの、その中身を見ることは出来る。燃やしてしまうなら、その前にしておきたいことがある。
 律を連れていこうとしたのは事実だ。しかし、律の演奏を好きだと言ってくれたのも、褒めてくれたのも、それは嘘ではなく、真夕の本当の気持ちだと信じたい。甘いと言われることだとしても。

「それ、弾かせてくれませんか」


 練習室は静まり返っていた。中に入っても、当然ながらもう真夕の姿はない。
 あの半身血まみれの姿は、事故に遭った時の姿なのだろうか。あれが今の真夕の本当の姿だったのだろうか。
 楽譜に触ることが出来ない律の代わりに、悠時が譜面台に楽譜を広げる。楽譜には、女の子らしい可愛らしい字でたくさんの書き込みがされていた。熱心に練習していたことがよく分かる。たくさんの鉛筆の跡と消しゴムで消した跡が、それを物語っている。
 書き込みに一通り目を通してから、鍵盤に指を置く。それを見て、すっと悠時が後ろに下がった。玲は変わらず厳しい表情のままながら、壁に寄りかかってピアノを見つめている。
 静かに。ゆっくりと、鍵盤を叩いていく。律の解釈での弾き方ではなく、真夕が書き込んだ通りに。

「……、いい曲だな」

 ぽつりと玲が呟いた。律も同じことを思う。彼女が生きていればきっと、優秀なピアニストのひとりとして卒業生の欄に名を連ねていたことだろう。
 最後の音を弾き終えて、反響するピアノの音に、目を閉じる。コンソレーション第3番。そのタイトルは、慰め。

 願わくば、彼女が安らかな眠りについて。
 その眠りを誰にも邪魔されないことを、願って。

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