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13
数日後の放課後。部活を休んで、恭は喫茶『たちばな』の前に立っていた。
今のままではどうしようもないからと、連に無理を言って今日だけ休ませてもらった。憂凛に会わないようにするのであれば、自宅でもあるこの喫茶店に来るべきではないことは分かっている。しかし、恭にはどうしてもここに来なければならない理由があった。一応憂凛に会わないよう、現在憂凛が琴葉のところにいることは確認ができている。あとは憂凛が病院から帰ってくる前に、憂凛にばったり出くわさないように気を付けて恭が家まで帰るだけだ。
深く息を吐き出して。覚悟を決めて、恐る恐る喫茶『たちばな』の扉を開く。いらっしゃいませ、と入り口を振り返った一斗が、恭を見て驚いたように目を見開いて。けれどすぐに、いつも通り優しい笑顔を向けてくれる。
「……いらっしゃい、恭くん。久し振りだね」
「はい……、……あの、一斗さん」
「飲み物淹れるから、ゆっくり話そうか。どうぞ、座って」
「……はい」
本当なら、もっと早く来るべきだっただろう。一斗に謝りに来るべきだったのだ、憂凛を傷つけてしまったことを。出されたカフェオレを見ながら、飲んでいいのかどうか分からずに目を伏せる。恭はどうしても、一斗に頼まなければならないことがある――話をしないわけにはいかない。
「今日来てくれたのは、憂凛のことだね」
「はい、あの、俺」
「すまなかった。うちの娘が、恭くんに酷い怪我を負わせてしまって……、謝罪出来ないままだったのが、ずっと気になってたんだ。その後体は大丈夫?」
「……一斗さん」
「あのね、恭くん。恭くんが俺に謝ることはひとつもないんだよ。……本当に申し訳ない」
「……でも、俺のせいで」
「俺は人間じゃあないし、憂凛だって半分はそうだ。……この世界に生きているんだから、いつかこうなるかもしれないことくらいは、いつだって覚悟しているよ」
自分の分のコーヒーを淹れて、カップに口をつけながら、淡々と一斗は告げる。どこか寂しそうなその表情をしていることに、胸が締め付けられる。
一斗が謝ることなど、何ひとつない。起きてしまったことは、恭に責任があることだ。それでも頭を下げられて、謝罪を口にされて、謝罪を止められて、どうしたらいいのか分からない。
「……俺が、もっとしっかりしていれば、こんなことには」
「そんなことはない。色々憂凛に話は聞いているよ。……宮内くん、だったかな。彼のことを憂凛がちゃんと君や渚に相談していたら今回のことは起きなかったかもしれないしもっと違う形の結果だった可能性だってある」
「……あの、郁真くんのことって、一斗さんは」
「知らなかったよ。憂凛はひとりで悩んでたみたいでね。可愛い後輩であることに変わりはないから、傷つけたくなかったみたいだ。……ずっとストーカー紛いのことはされてて、ずっと話はしていたみたいなんだけど、ある時を境にそういうことが一切なくなったから、もう大丈夫だと思っていたんだって」
「ある時?」
「……まあ恐らく、憂凛や恭くんを今回の件に巻き込んだ『カミサマ』が宮内くんに目をつけた時期、じゃないかと俺は思ってるんだけど」
「あ……」
一体いつから、憂凛は悩んでいたのだろうか。あんなことになるまで、全く気付かなかった。いつも憂凛は笑顔でいてくれて、悩んでいる素振りなど見たことはない。渚が気付かなかったくらいなのだから、本当に隠し通していたのだろうと思う。
だからあのとき、憂凛は恭に謝ったのだ。こんなことになるとは思っていなかったと、憂凛は言っていたから。
もし憂凛が郁真のことを、恭や渚に話をしていたら。そうでなくても、恭や渚が郁真の話をもっと早く憂凛にしていたら。
少しずつのズレ。互いに心配を掛けないようにと思う気持ちが、事態を手遅れの方向に向けてしまった。もしかしたら誰も悪くはないのかもしれない。郁真も方法は間違えていたが、しかし彼はただ憂凛のことを好きになっただけなのだ。
何もかも手遅れで、もう既に遅いけれど。だからこそ考えなければならないのは、これからのこと。
「……ゆりっぺのこと、松崎先輩に聞きました。すごい不安定で、すぐ泣いたり怯えたりしちゃう、って」
「うん、そうだな。鹿屋先生が毎日憂凛を診て、時間があるときは帰りにうちに寄って俺に色々話してくれるけど、……うん、まだまだ時間がかかりそうだって。俺も憂凛とは色々話してるけど、まあ……なかなかね」
「あの……それで、俺、一斗さんにお願いがあって」
「ん?」
「これ、ゆりっぺに渡してもらえませんか?」
カウンターの上。恭が取り出したものを見て、一斗の表情が変わる。
チェシャ猫のキーホルダー。『アリス』を喚び出す為に必要なもの。恭自身には何もできない。しかしそれならば、せめて。
「……俺には、これくらいしか出来ないから」
「恭くん、でもこれは」
「アリスちゃんとはちゃんと話して、お願いしました」
恭は信じている。『アリス』であればきっと、憂凛のことを守ってくれるだろう。憂凛が『半妖』に引き摺られることを恭が望まないと知っているから、引っ叩いてでも連れ戻してくれると、そう思える。そういう考えに至ることが出来るくらいには、『アリス』のことを信じている。――彼女が佑月と同じ『彼岸』の存在であるとしても、恭にとって『アリス』は『アリス』だから。
渚や琴葉を傷つけてしまうのが怖いから、遠ざけてしまう。それならば『彼岸』である『アリス』であれば、きっと。『此方』でも『彼方』でもない『アリス』の強さに頼ることができれば、彼女はきっと憂凛の助けになるだろう。
数日前に『アリス』と話をしたとき、憂凛を守ってほしいと相談した恭に、「しょうがない子ね」と母親のようなことを言いながら『アリス』は優しく笑ってくれた。自分でも無茶を言っていることは分かっている。恭を心配して一緒にいてくれている『アリス』に、他の人を守ってほしいというお願いをするだなんてきっと馬鹿げたことだろう。
しかし、恭にはそれしか思いつかなかった。憂凛の状況を聞いて何もしないままではいられなかった。こんな時まで他者に頼ることしかできないのは、本当に情けなくもあるけれど。
「……アリスちゃんならきっと、絶対、ゆりっぺのこと助けてくれると思うんです」
「恭くん……」
「お願いします」
恭のことを何度も助けてくれた彼女だから、きっと。
困ったように恭とチェシャ猫のキーホルダーを見比べて、しかし一斗は笑ってくれた。それこそ、「しょうがない」とでも言いたそうな笑顔で。
「……分かった。憂凛に渡しておくよ」
「……ありがとうございます」
「でも、いいのかい? 恭くんはアリスちゃんが居なくて大丈夫?」
「えっと……いや……正直めっちゃ不安なんすけど、でも、何とかなるっす。ぶんちゃんもいるし、……俺、めっちゃ強い『ウィザード』の人にお世話になってるし、うん。何とかなるっす」
「そうか。……うん。でも、気をつけるんだよ」
「はい」
一斗にキーホルダーを預けた後、憂凛が帰ってきてはいけないからと早々に喫茶『たちばな』を出て。さて家に帰ろう、と電車に乗る。
思えば恭にとっての始まりは、こんな風に電車に乗ったあの日のことだった。憂凛や渚と喫茶『たちばな』で話した帰りの道中。突如現れた郁真に襲われて、そこからあっという間に今まで通りの日常は消え失せてしまった。
非日常のような『此方』の世界に足を踏み入れて、2年近くが経つ。恭自身が巻き込まれるようなことはほとんどなく、大体は首を突っ込んで自分から巻き込まれることが多かった。恭を狙った事件が起きるということを考えたことは一度もなかったし、そういうことが有り得るかもしれないという考えさえ持っていなかった。事件には首を突っ込むもので巻き込まれるものではないと、どこかで考えていたのかもしれない。
そんな筈がないのだと、今更気付く。首を突っ込む事件があるということは、誰かが巻き込まれている事件があるということ。その誰かが自分になることも、当然有り得る話だったのだ。
「ぼーっとしてるとまた襲うけどいいの?」
「!?」
急に声を掛けられて、はっとする。顔を上げれば、恭の前に立っていたのは。
「……ゆっちゃん」
「ドーモ。あ、襲うのは嘘、柳川くん狙ったら今度は殺すって言われたから」
「……誰に」
「柳川くんが一緒に居た『ディアボロス』」
「小夜ちゃん……」
佑月の口から出た思いがけない名前に、目を瞬かせる。小夜乃も『ディアボロス』、『彼方』の人間だ。恭には優しかったが、本来はそちらの方が素なのかもしれない。
空いていた恭の隣の席に、佑月は腰を下ろす。よくよく考えると、恭が佑月に会うのは今日が2回目だ――遊園地のあの日と、今。恭の記憶には変わらず佑月に初めて会った時や、憂凛や佑月と共に遊びに行ったときのことを覚えている。それが作られた記憶だという意味が未だに分からないままだ。覚えているのに全て嘘だった、と分かるというのも変な感じがしてしまう。
「松崎さんから聞いたんでしょ、私の気まぐれで振り回されたこと」
「うんまあ……」
「怒らないんだ?」
「……だって、怒ってももう何も変わんないじゃん」
「まあそうね」
何を話したらいいのか、全く分からない。それこそ佑月に対して怒ればいいのだろうが、そんな気分にもならない。怒ったところで憂凛が元気になるわけではないし、何より佑月を怒る程の気力は今の恭にはない。
「ヒトって面白いねえ、柳川くん」
「……へ」
「柳川くんたち側から、宮内くん側へ。引き摺ってみただけで殺し合い。私にとってはどっちもくだらないヒトでしかないのにね」
「……ゆっちゃんは、何がしたかったの?」
「言ってるじゃない、気まぐれでただの暇潰し。それ以上の意味が必要?」
「……いや、まあ、そういうのは俺には分かんないけどさ」
「まあでも、なあんかイマイチねえ。上手くはいかなかったし、邪魔されちゃったし。まあ暇潰しの延長として、宮内くんは面白かったからちょっと再教育してあげようかな」
「……郁真くん、元気?」
「元気も元気、いつも通りよあの子は。……しっかしそういえば、あの病院のヒトたちも頭おかしいよね。相手が何であろうと治療はするし、無理矢理どうこうもしないんだって。いい子だろうが犯罪者だろうが患者は患者だから、って、私たちでもないくせにさ」
あは、と佑月は可笑しそうに笑う。どちらもヒトであることに変わりはない、という佑月の言うことはその通りだと思うのに、しかしだからと言って恭が『此方』も『彼方』も同じだというのはおかしいことだという。やはり分からないがしかし、何も知らない恭が言う『同じ』と、『彼岸』である佑月が言う『同じ』は似て非なるものではあるのだろう。
恭は知らなければならない。もっときちんと知った上で、この先の生き方を決めていく必要がある。
「……な、ゆっちゃん」
「ん?」
「しばらく郁真くんとこいる、って思っていいの?」
「ん-、まあ恨まれてぶっ殺されそうなこの感じのままっていうのはあんまりね。その点には気を付けつつ、って感じ?」
「そっか」
それが良いことなのか悪いことなのかということは置いておいて、郁真が一人になってしまわないことに安心する。とはいえ佑月では、郁真がまた何かしようとしたときに止めてくれるのかどうかは怪しいところではあるが。
これは『カミサマ』の気まぐれ。恭が何を頼んだところで、佑月が聞いてくれるとは限らない。それこそ気まぐれに、適当な返事が返ってくるだけだろう。色よい返事が帰ってきても、約束が守られるとは限らない。
「あ、そうだ柳川くん」
「何?」
「まあ私が言うことでもないと思うんだけどね。アンタ、あの『ディアボロス』と今後も付き合いを続けるなら、ちょっと気を付けた方がいいかも」
「え?」
「んじゃ、また何か機会があれば」
一体何に気をつけろというのか。それは小夜乃が『彼方』の存在であるということに、何か関係があるのだろうか。
質問もできないまま、恭の視界から佑月の姿が消え失せる。辺りを見回しても、もうその姿は見当たらない。
――『此方』と『彼方』の違いというものは、恭が思っているよりも遥かに大きなものなのかもしれなかった。