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結論から言えば、その戦いで誰一人命を落とすことはなかった。
それは律が未だかつて味わったことのないほどに圧倒的な、壊滅的な力の暴力。出来る限り身を守り続けたが、無傷で切り抜けることは不可能だった。あちこちに負った怪我が痛む。あの状況で律ができることは、本当に何もなかった――しかしいずれは、できるようにならなければ行く先が見えている。
そして、現在。
「……大丈夫ですか、鹿屋先生」
「ええ。……ごめんなさい、余計なご心配を」
集中治療室の中から出てきた琴葉の顔色は真っ青だった。中で現在治療を受けているのは――小夜乃だ。
万全の状態である彼女であればともかく、恭の蘇生のために力を使った後の彼女に、あの『彼岸』の相手は荷が重すぎたのかもしれない。リノの助力がなければ、彼女は確実に命を落としていた。ある意味でリノが介入したことにより、響の復讐は完遂されなかったということになる。そう考えれば、抑止力にはならずとも機能はしたのだろう。
律がスペインへ行く理由となった依頼。それは依頼ルートを厳重に隠して、小夜乃が『茅嶋』に依頼をしたものだ。自分が手を下したリノを呼び戻さなければならなかった、その為に。助け出したところで彼が思い通りに動くとは、小夜乃も思ってはいなかっただろう。恐らくは保険として、そのカードを切った。そして渚はそのことを知っていた。渚は一体、どこまで調べ尽くしたのか。渚との話もまだ途中になっていて、全てを聞き出せていない。
一体、この事態を掌の上で転がしているのは『何』なのか。
「小夜乃が帰ってこないよりは、遥かにマシです。……生きてここにいてくれるなら、打つ手もある」
「鹿屋先生……」
「ありがとうございました、茅嶋さん。小夜乃を連れて帰ってきてくださって」
「……いえ。俺は本当に、何も出来なかったんですよ。彼女を助けたのは、リノさんですから」
「……あの大馬鹿鴉、ぶん殴ってやるんだから」
はあ、と。琴葉から漏れた大きな溜息には、複雑な感情が混ざりすぎている。リノは既にこの場に居ない――終わった後、瀕死の響と、家の中から『彼岸』を召喚していたのであろう柑奈を引き摺りだして、「こっちは引き受けるね」と言い残して消えてしまった。どういう意味なのか、どうするつもりなのか、何も聞けなかった。
聞きたいこと。知りたいこと。あまりにもありすぎて、どこから手を付ければいいのか分からない。
「…無理しないでくださいね、鹿屋先生」
「お互い様です、茅嶋さんも無理をされないでください」
「いや……俺はちょっと、無理しないと」
苦笑いひとつ。怪訝な顔をする琴葉に、しかし律はそれ以上は答えなかった。
あの死地で、一つどうしても考えなければならなかったこと。この先のことを考えると、どうしても放置しておくわけにはいかないこと。解決しなければならない直近の問題が、一つ。
――恭と、話さなければならない。
恭の病室に足を向ける頃、既に太陽は昇り始めていた。どっと押し寄せてくる疲労感と睡魔を何とか振り払いつつ、律はそっと恭の病室の扉を開いた。
普段であれば朝5時過ぎには起きている恭ではあるが、さすがに恭はそうもいかない。ベッドの上でぐっすりと眠っている様子が見えて、少しだけ安堵する。起きていたら怒らなければならないところだった。ベッドサイドには恭のベッドに身を預けているようにして眠っている憂凛の姿と。
「……アリスちゃん」
「随分と傷だらけなのね。治療は?」
「大丈夫、俺は軽傷。自力で何とかする」
「そう」
自分から尋ねた割には、『アリス』の返答はそっけないものだった。彼女が恭と共にいた頃から、律と『アリス』はそれほど会話をする方ではない。『黄昏の女王』と知り合った経緯でいろいろと起きた結果、律はどうにも『アリス』と相性がよくない。恐らく『アリス』の方からも避けられている。
つかつかと律の方に歩いてきた『アリス』は、律の手を取るとその上にぽい、と何かを置いた。見覚えのある、小さなカード。
「……microSD?」
「その中に逃げ込んでるみたいだから。何かで起動させてあげれば戻ってこられるんじゃない?」
「……ぶんちゃんか。ありがとう」
木っ端みじんになっていた恭のスマートフォンを思い出す。ぎりぎりで逃げ込んだ先は何とか残っていた、ということなのだろう。microSDを握りしめて、律は小さく頷いた。それを確認した『アリス』はちらりと恭と憂凛を振り返り――そのままその姿がふわりと消える。状況などを聞きたいところだったが、これ以上律と話す気はないということだろう。どちらにしろ話を聞いたところで、疲れ切った今の状態では頭からぼろぼろと抜け落ちてしまうだけだ。
とにかく、疲労が濃い。長時間フライトからの状況の把握、そしてその先に起きた事件。スペインでもかなり無理をして仕事を片付けたことも手伝って、正直今すぐにでも眠ってしまいたいのが本音だ。
よく眠っている恭と憂凛に目を向ける。まだ傷だらけの今の状況でここで眠ってしまったら、恐らく目が覚めた二人には叩き起こされてしまうであろうことが目に見えている。心配させてしまうことは避けたい。着替えに家に戻りたい気持ちもあるが、今は恭が目覚めたときには傍にいたい、とも思う。大丈夫だろうとは思うが、どんな状態なのかも確認をしておきたい。
microSDを失くさないように仕舞い込んで。――さて、恭と憂凛のどちらが先に目覚めるだろうか。
考えなければならないことは山のようにあるが、今のところ何も考えないと決めて。律はゆっくりと、二人が起きるのを待つことにしたのだった。
「……、う……」
「あ。おはよー」
「……っ!? あいっで!?」
「何してんの」
「いでで……律さん……、ゆりっぺ……?」
数時間後。目を覚ました恭は、起き上がろうとして激痛にベッドに沈みこんでいた。馬鹿、と笑いながらも、時間つぶしに借りてきて読んでいた本を閉じて、恭の表情を見る。
顔色はそこまで悪くはない。傷が残っているというよりは、体の機能として痛みが残っているというところか。恭が起きてベッドが揺れたからなのか、んん、と小さく声がして、目を擦りながら憂凛が体を起こした。ぼんやりと眠そうな顔で律と恭を見比べて。
「……ッ、恭ちゃん! 身体大丈夫、ねえどこか痛くない!? 傷とかっ、しんどいとか、大丈夫!?」
「ゆ、ゆりっぺ、落ち着いて……」
「ばかばかっ、何で憂凛のことなんか庇うの! 馬鹿! 憂凛庇って恭ちゃんが死んじゃうとかっ、絶対許さない、何でそんなことしたの……!」
「……ご、ごめん」
表情を歪めて泣きながら抱きついてきた憂凛を慰めるように、おろおろと困惑しながら恭がその身体を抱きしめて、よしよしと背中を撫でる。一瞬自分は邪魔ではないかと考えたものの、努めてその考えは振り払う。
恭と憂凛にとっては久しぶりの再会だ。いろいろと起きていたし、律は憂凛の想いを知っている。そして恭自身には自覚などないだろうが、恭にとって憂凛がどれだけ特別で大切な存在なのかも知っている。
ひとまずは二人とも無事であることを喜ぶべきだろう。恭が無事と言えるかどうかは難しいところだが。
「憂凛ちゃん。まだ恭くんの身体全快してないから。離れてあげてね」
「えっ!? あ、ごめん、ごめんね恭ちゃん、大丈夫? 痛くない?」
「だ、だいじょうぶだいじょうぶ……びっくりした……。ごめんなゆりっぺ、心配かけちゃって。ありがと」
「っ、うー……恭ちゃんのばかぁ……」
恭から身体を離して、ぼろぼろと泣き出して止まらない憂凛に、恭は大分おろおろしている。しかしこんな形になってしまったとはいえ、二人にはよかったのかもしれない。当然、こんな状況にならないことが一番よかったことは勿論だが。今現在、恭が生きていてくれるからこそ言えることだ。
「二人はお互いしたい話が山ほどあると思うんだけど、ごめん、ちょっと先に話させてもらっていい?」
「うす……、てか律さん何でそんな傷だらけ……?」
「恭くんを病院に送り返したのちに色々あったんだよ」
小夜乃の話を先にするべきだろうか、と一瞬考えてやめる。三条 小夜乃――シャロン=マスカレード。同一の存在でありながら全く違う、あの規格外の『ディアボロス』のことを、律ではどう恭に説明していいのか分からない。そもそも小夜乃がシャロン=マスカレードであること自体は、恭が特に知る必要のないことだ。シャロン=マスカレードと言われても、恭には誰なのか分からないのだから。
それに、小夜乃は『三条 小夜乃』として、恭の友人として傍にいた。そうあることが彼女の望みだったのだろうと考えると、あまり勝手なことをしない方がよいだろう。
「起きて早々で申し訳ないんだけど、とりあえず用件を伝えると」
「何すか?」
「恭くんが卒業したら俺の相棒にって話、いったん白紙に戻す」
「……へ?」
意味がすぐには理解できなかったのだろう、恭はきょとんとしている。驚いた顔で律を見た憂凛の方は、その意味を理解しているだろう。
ちょうどいいタイミングだ、とも思う。恭は憂凛と再会した。この先がどんな形になるであれ、新しく二人の関係を作っていけるだろう。それは律が心配して関与するべきものではない。だからこそ、憂凛がこの場にいる状況でこの話ができるのは、非常に助かる。
きっと憂凛であれば、恭を支えてくれるだろうから。
「白紙。俺は恭くんを相棒にはしない。まあ基本は今まで通り、俺のマンションは恭くんが好きに使ってくれて何の問題もないし、茅嶋家にも自由に出入りしてくれていいし、俺達の関係も別に何も変わらないけど」
「……えっと、ちょっと、何言ってんすか、律さん」
「俺は、恭くんを相棒にしない。そう言ってるんだよ」
「っ、何でっすか!? …っ、いっ……」
「無理しない。人の話はちゃんと最後まで聞いて」
「ッ……」
「俺は恭くんのことを弱みにしたくない。恭くんには、俺の強みで居て欲しい。恭くんが居て、恭くんを守る為に俺は弱くなりたくない。恭くんが居るから、安心して戦える俺で居たい」
「……茅嶋さん、それは、恭ちゃんが弱いってこと……?」
「端的に言えばそうなるね。……でも、それだけじゃなくて、今の恭くんじゃ俺が居る世界では通用しない、っていう話。今の恭くんは助けられてばっかりで、……それじゃあ駄目なんだよ」
律は考えなければならない。これからどうするか、律のことだけではなく、恭のことまで全て含めて。
言葉の意味は分かるのだろう、何か言い返そうと口を開いた恭はけれど、何も言わないままその口を噤んだ。自覚はあるのだろう。代わりに拳が真っ白になるほどに力を込めて、布団が握りしめられている。
ひどいと言われることは覚悟している。それでも律は、恭という人間の可能性を信じるしかない。明るく、真っ直ぐ、周囲の人間を巻き込んで突き進める彼自身の力を。
それは、まだ伸ばすことができる恭の才能だ。律の相棒になるという未来を確定させていることで、その可能性をつぶしてしまってはいけない。伸ばしておかなければならない。だからこそ。
「まあ別に今後絶対に相棒にしないって話じゃなくて、俺が納得するくらいのものを恭くんが提示できたら、俺は恭くんを相棒だって認めるよ。できなければ二度とこの話はなし。……巻き込んだ責任はあるから、その後の恭くんのことについて、できる限りのことはする」
「……んな、こと、言われても」
「できる、って信じてるよ」
不安げに瞳を揺らした恭に、律は笑う。らしくない雰囲気なのは、それだけ今回の件が恭にとってつらかったということなのだろう。その上こんな話をされたら、不安が先に立つのも無理はない。
それでも、律は助けたくて必死になった恭のことを、律は知っている。相棒失格だなどと思ったことは一度もない。だからこそ、信じている。恭であればきっと、律が納得できるものを手に入れられるだろう。
「玲先輩の弟でしょ。それくらいやってみろクソガキ」
「……っ、もうガキじゃないっす」
「うん」
「……んなこと言って、俺にたすけてー、って泣きついてこないでくださいよ」
「お、言うね」
「……茅嶋さん……」
「そういうことだから、憂凛ちゃん。この馬鹿のこと、よろしくね」
「あ……」
憂凛が傍にいる理由にもなる。『分体』も『黄昏の女王』も恭の傍に戻ってくる。環境としては十全で、律がいなくても充分だ。
――それに、律自身の問題もある。
「じゃあ、そういうことで。悪いんだけど今回の諸々は鹿屋先生に聞いて、俺はもう眠い頼むから寝かせて」
「えっ律さんもしかして寝てないんすか?」
「そうです」
「お帰りなさい律兄様っ、お怪我大丈夫ですか!?」
「だいじょうぶだいじょうぶー……ごめんねむいしぬ……」
帰宅早々出迎えてくれた桜は、すっかり元気になったようだった。それに安心したせいか一気に睡魔に襲われて、へろへろの笑顔を向けながら自室へと向かう。そのままベッドに倒れ込んだら、目が覚めた頃には半日が経過していた。
倦怠感に苛まれつつも部屋を出ると、律が起きるのを待っていた桜と椿に遭遇して、二人にほぼ強制的に食卓に座らされ、食事をとりつつ怪我の治療が行われるという妙な状況に陥った。言われてみればろくに食事もしていなかったんだな、と思い出す。
その後、律は自宅の離れを訪れていた。雪乃が実家に戻ってきたときの私室にしているその場所で、雪乃とモニカが揃って待っていてくれていた。
「おう馬鹿息子、生きてるか」
「ゆっくり眠れたおかげで生き返りました。諸々ご報告します」
「ん、まあ手短にな」
手短に、と言われてもどの程度省略していいのかも分からない。聞かれればその都度詳細に答えればいいか、とラフな気持ちで、律は今持っている情報を洗いざらい雪乃とモニカへ伝える。
琴葉、憂凛、小夜乃、そして奈瑞菜から聞いたこと。そして渚から聞いたこと。自分の目で見たもの、知ったこと。時折相槌と質問が入るものの、話はスムーズに進んだ。――『シャロン=マスカレード』の名前が出たとき、珍しくモニカの表情は変わったが。
「モニカさんはやっぱり知ってるんだ? シャロン=マスカレードのこと」
「……一応程度ではありますが、それなりには。ユキノも知っていますよね」
「ああ、直接相対したことはないけどねえ。『ディアボロス』の家系に生まれた『エクソシスト』、そして『天使』に愛される『ディアボロス』。天使憑きだね」
「協会はかつて彼女のことを相当迫害した歴史があるとも聞いたことがありますが、記録には残っていないか抹消されているか封印されているか……、どちらにしろ確かなことは私には不明です。悪魔憑きである筈の人間が天使憑きなど、協会としては許せない存在でしたでしょうし、何となく想像はつきますが」
「ん-……リノさんは詳しく知ってそうではあったけど……」
「鴉に聞くのはやめておけ、本当のことなんて滅多に言わないよ。まあ、そんな『ディアボロス』を意識不明に追い込んだ、お前の言う得体の知れない『彼岸』の方が大問題だろう」
負の感情を詰め込んで具現化したような、得体の知れない何か。それが結局何だったのか、律にはやはりよく分からないままだ。
ただ確かなことは――シャロン=マスカレードとリノ=プリド。律よりも遥かに高い実力を持つ二人をもってしても、あの『彼岸』は倒れなかった。追い込むことはできたが、倒すには至らなかった。
シャロン=マスカレードはあのとき確かに言っていた。禍根を残さず根絶したい、それは彼女があの『彼岸』の性質を知っていたからなのだろうし、彼女はあの『彼岸』と戦うのが初めてではなかったのかもしれない。弱って一時撤退しただけの現状、時間が経って回復さえしてしまえばまた現れるだろう。そしてそうなったとき、当然ながら今の律では全く太刀打ちできない。
律の目の前で繰り広げられた『戦争』は、完膚なきまでに無力さを律に叩きつけた。
とはいえ、一介の『ウィザード』が一人であの『彼岸』に対抗するなど無理にも程がある。世界最高峰の『ウィザード』だと謳われる雪乃であるならばともかく――いや、雪乃でも厳しいだろう。良くて相討ちできるかどうかというレベルだ。力が必要で、そして人数も戦略も必要になってくる。
そして、もう一つ。
「……モニカさん、『旭』って名字で児童養護施設で仕事してた『エクソシスト』のこと、調べてもらっていいかな。故人なんだけど」
「アサヒ、ですね? 承知しました。すぐに調べはつくと思います」
「恭の友達が言ってたっていう、シャロン=マスカレードに殺された『エクソシスト』か」
「それです。事実かどうかは確認しておかないといけないし、そこに何か理由もあるのかなと」
手元にある情報はどれも不確かだ。渚からもらった情報も、渚自身がどこまで正確かは分からないと言っていた。
もし万が一、全てが繋がっているとするのであれば、それこそ『戦争』になりかねない。一般人を巻き込んで多数の犠牲者が出てしまう、文字通りのものに。それを避けるのが、『此方』を本職として生きる者の仕事だ。
「事が大きいなあ、しかし。ウチがこれを調べ始めたのがバレると向こうも慎重になるだろうし、調べにくくなるな。まあ今回律が噛んだことはもうバレてることだし、……ふーむ。ちなみに恭のことは今後どうするんだ?」
「あの子はまあ、大丈夫ですよ。どうもしません」
どういう結論を律のところに持ってくるかは分からない。恭は時々予想もしなかったことをやってのける人間だ、何がどうなるかは恭次第だろう。その部分を引き出すことを考えると、律は恭の傍にいない方がいいと考えている。何より律から離れている方が、恭は安全かもしれない。あの『彼岸』と相対した人間ではないのだから。
もちろん期待外れである可能性も、読み間違えている可能性もあるが、そのときはそのときだ。
「……とにもかくにも、俺は気合入れて修行しないとポンコツですよ、今のままじゃ」
「よく分かってるな、馬鹿息子。殺す気でしごいてやるよ」
「う……頑張ります……、世界の広さを思い知りましたから、今回は」
「いいことだ。人間ってーのはいつだって卑小で脆弱な庇護されている存在である癖に尊大で傲慢が過ぎるんだよ。ちょっと強くなったからって自分を過信するのは馬鹿のすることだ。そこまで馬鹿じゃあなかったな」
「過信、……していたかもしれません。本当に俺は全然駄目ですね、今も昔も」
「いいや、駄目ではないよ。お前はよく頑張ってる。……『守る側』で居たいなら、常に高みを目指せってことだ」
そう言って、雪乃は笑う。きっと雪乃自身がそうやって生きてきたのだろう。茅嶋 雪乃という人間の強さは誰もが認めるもので、それは才能だけではなく、雪乃自身の努力によるものだ。世界最高峰と呼ばれるだけの努力をしてきた。雪乃の自信は、その強さは、誇れるだけのことをしてきているから。
――だからこそ、律にはできない、とは言えない。雪乃ほどにはなれないかもしれない、そこまでの才能は持っていないかもしれない、それでもやれることはやらなければならない。できなければ、今度こそ本当に死ぬだけだ。
「……アレが回復しきってしまう前に、どうにかしないといけません。出来る限りの準備をして、いつ襲われても対応できる状況に持っていくつもりです」
「よろしい。久々のでかい仕事になりそうだな」
「仕事ついでに修行をする気があるのなら、ちょうどいい仕事が何件かありますよ、リツ」
「え」
いつもと変わらない無表情で、モニカがすっと律に書類を差し出した。受け取ったそれに書かれている文面に目を通して、一瞬背筋が凍る。書類を横から覗き込んだ雪乃が、楽しそうに笑って。
「確かにこれはいいね。そうだな、一緒に行くならやっぱりアレクだろうな。何があってもアレクがいれば多少の怪我は心配いらないし」
「……いや俺のこと殺す気満々じゃないですかこれ」
「それで死ぬようなら、今から相手しようとしているものには絶対に勝てないでしょう。ちょうどいいんじゃないかと私は思いますが」
「……手厳しいなあ」
苦笑い。休んでいる時間などない。手厳しい仕事ではあるが、雪乃とモニカの二人であればあっさりと片付けてしまうのだろうことは想像に難くないことだ。律では手こずることは目に見えているが、やるしかない。
ふと思い出したのは、悠時と芹のこと。お祝いに行きたいが、そんな時間を取れるのはいつになるだろうか。子供が生まれる前に一度顔を見に行くくらいのことができれば、とは思うが、律の事情を持ち込んで芹を巻き込むことになってしまうのは避けたい。
ひとまず、後で電話は入れておこうと心に決めて。律は再度、受け取った書類に目を通し始めたのだった。