Colorless Dream End
19
怪我人をひっそりと病院に搬送し終えて、律は大きな溜息を吐いた。さて、ここからどうしたものか。事態はどんどん、思ってもいなかった方向に動いている。面倒で深刻なそれに、どう対処していくか。
渚と戦った後。『彼岸』の『領域』から抜け出して尚、何とか律を止めようとする渚から事情を聞いていた。そうしている間にふらりと現れたリノが、「ユリを助けたらキョウ死んじゃったけど、君はどうする気だい?」などと言い出し。直後に大爆発が起きて、何もかもうやむやになった。
恭の死体を見た瞬間のことは、あまり思い出したくはない。目の前が真っ暗になったというのはああいうことを言うのだろう、と今なら思える。その傍らに、悠然と彼女は立っていた。
彼女――『シャロン=マスカレード』。三条 小夜乃の本来の姿。白き仮面の『ディアボロス』。そして彼女は律の目の前で、『ディアボロス』でありながら――『エクソシスト』の能力を行使して見せたのだ。
あの威圧感は、敵としては相対したいものではない。律にとっては本気の雪乃を相手にしているのではないかと錯覚してしまうほどの威圧感で、彼女は立っているだけでその場を制圧していた。全員の動きが、完全に止められていた。動けば殺される、というよりは、動いた瞬間に何が起こるのか、全く予測が立たない状況だったと言える。
『どうしても『私』を引き摺り出さなければならない状況まで持ち込んだことは褒めて差し上げますわ、響――その代償は、分かっていますわね?』
そう言って仮面の下で、彼女は笑って。満足そうな表情を見せた響が姿を消して、彼女はそれを追っていった。律に『この場は任せます』と、拒否権なく言い残し、恐らくリノから奪い取ったものであろう漆黒の翼を羽ばたかせて。
「……どうしたものかなー……」
恭は小夜乃――シャロン=マスカレードの力により一命を取り留めた。というよりは、彼女の生命力を分け与えることで息を吹き返した、というのが正しい。後のことは琴葉に任せておいて問題ないだろう。ぼろぼろの渚はどうにか逃げ出す気力もないと思いたいところだ。
問題は柑奈のことだ。渚と『彼岸』の『領域』から戻ってきたときにはもう、彼女の姿はなかった。リノは現れてはすぐに消えて、大した説明をしてはくれない。あの男の介入が更に事態をややこしくさせているとも思える。
そもそも、恐らく律が『憂凛を助ける』と口にしたからという理由で、リノは憂凛を助けるために恭を死なせる選択肢を選んだということになる。リノが介入したことで、到底間に合うはずのなかった恭が憂凛を庇うことができた、その結果として命を落とすことになった、というのがあのときのじょうきょうだった。この場合は手を下した響が悪いのか、それとも介入したリノが悪いのか、そもそも憂凛を助ける選択肢を選んだ律が悪いのか、全く理解できない。
分からないがしかし、答えは一つしかない。
――何にしろ気に喰わない。
「……あーめんどくさいなほんっと、最悪」
口からぽろりと漏れる本音。考えるのはやめよう、と息を吐く。これ以上考えるだけ無駄だ。予想など、現実は軽々と超えていってしまっている。元より律がスペインへ足を踏み入れたことさえ、『茅嶋』にあの依頼が来たことさえ、既に仕組まれていたことだった可能性もあるのだから。
「どうせその辺にいるんでしょう? リノさん」
「適当に呼びかけるのは感心しないねえ」
声が聞こえたのは、頭上から。見上げれば、樹の上に腰掛けるリノの姿があった。食えない笑みを浮かべて律を見下ろしているリノは、知れば知るほど『此方』というよりは『彼方』なのではないかと考えてしまう。楽しければいいという考え方をしているのだと言ったアレクのその言葉は、どうにも嘘ではないようだ。
「若宮 柑奈はどこに?」
「カンナ? さて、俺は知らないな」
「貴方が気絶させたところまでしか俺は知らないんですが」
「まあヒビキといるだろうね。シャロンに追い掛けられて逃げ切れるとでも思っているのかなあ、あの子」
「……リノさん」
「文句は俺をこの場に呼び戻した相手に言った方がいいだろう?」
「貴方がここに戻ってくることによって響くんたちに多少抑止力になる予定だったんじゃないかと思うんですけどね、俺としては。事態をかなり悪化させた上に若宮 柑奈が何処にいるかすら知らないって何しに帰ってきたんですかそれ」
「俺には彼女を殺す理由こそあれ、手助けする理由なんて全然ないよ」
あっさりと、当然のことのように告げてリノは笑う。本当に、彼はどうにもやりにくい。嫌な相手だ、としみじみ思う。できれば一生関わり合いになりたくなかったタイプだ。とはいえ、律が正式に『茅嶋』の家を継ぐことになれば更に一癖も二癖もあるような相手と仕事をするようになることは目に見えているので、今のうちに知り合えたことは長期的に見れば悪くないことなのかもしれない。
改めて考えると、恭は一体どれだけの人間と知り合っているのだろうか、と思う。知らない間によく分からない人脈を持っているのは、恭らしくもあるのだが。
「ああそうだ。俺相手に『カヤシマ』に喧嘩を売ったと因縁をつけるのは勘弁してくれよ、リツ。俺は君とちゃんと取引はしたからね」
「……分かってますよ。俺は憂凛ちゃんのことを助けるって言った、だからリノさんはそれに応じただけ、って言いたいんでしょう?」
「そうだよ、ご名答」
「貴方本当に嫌な人ですね」
「はは。褒め言葉として受け取っておくよ」
1ミリたりとも褒めたつもりはないが、これ以上は不毛だ。一旦この件は置いておく方がいい。
やらなければならないことは多い。律には今回の件の顛末を見届ける義務がある。巻き込まれた者たちの代理として。そして『茅嶋』の次期当主としては、有耶無耶にしておけるような問題ではない。
「……さて、リノさん。俺を送って貰いましょうか」
「んー? 何処にだい?」
「分かっているでしょう? 響くんとシャロン=マスカレードのところに、ですよ」
「はは。死にに行くつもりかい?」
「死にませんよ、俺は。……どうせ貴方も行くんでしょう? ついでに連れてって貰えれば文句は言いません」
その言葉に、どうしようかな、などと嘯いて。その肩にふわりと一羽の鴉――『ネヴァン』。
紫の瞳が値踏みをするかのように律を眺めているが、律は気に留めず真っ直ぐにリノを見る。リノを相手にするのであれば、決して一歩も引くべきではない。引けば、その時点でいいようにされるだけだということはもう見えている。
「……仕方ない。では死地へ連れていってあげよう、リツ。……何が起きても文句は言わないでおくれよ?」
「言いませんよ」
自分がするべきことをするだけだ。死ぬつもりもなければ、誰かに責任を押し付けるつもりもない。自分の身は自分で守る――それくらいのことは、何とかなるはずだ。
ばさりと鴉が羽ばたく。瞬間、視界が塗り替わっていった。
「誰がついてきていいと言いました? お馬鹿さんたち」
視界が開けた瞬間、律の耳に届いたのはそんな言葉だった。最初に視界に入ったのは、家。視界を動かせば、律が立っているのは公園のような、それでいて庭のような場所であることが分かる。そして最後に、燕尾服を着た女性の――シャロン=マスカレードの後ろ姿。
「……此処は」
「響が育った施設ですわ。まあ今はただの空き家ですけれど。……どうして来ましたの?」
「俺は恭くんが巻き込まれている以上、この事態を黙っておく訳にはいかないんですよ」
「成程。しかし鴉、貴方はこの場を引っ掻き回すおつもりでしたらお帰り願いたいところなのですが」
「こんな面白い見世物はないからね、それは出来ない相談だな。しかしまた珍しいな……、君がボロボロになっている理由を是非知りたいね、シャロン」
彼女の後姿からは、何も窺い知ることはできない。律の目には彼女がどうぼろぼろなのかは分からない。リノの言葉に、シャロン=マスカレードは答えなかった。ただ真っ直ぐに、眼前の家を見つめている。恭とリノを振り返ることもせず。
「……恭は、大丈夫でした?」
「無事に意識も戻りました。病院に搬送済みです」
「そう。……、鴉、私と取引をするつもりはあります?」
「ほう? 珍しいことを言い出すね」
「恭なら私を殺せる、は本当に正しい……腹立たしいことこの上ないですわ。貴方のせいですわよ、鴉」
「はは、ちょっとした与太話をよく覚えているよねえ、あの子。それで? 俺と取引って? 何をする代わりに何をして貰えるのかな?」
「……私は響をなるべく生かしておかないといけませんので、若宮 柑菜をどうにかしなさい。大体アレは貴方の所有物でしょう、監督責任がありますわよ」
「カンナがどうかしたのかい」
「あの『憑物筋』を媒介にする形でとんでもないものが呼び寄せられて非常に困ってるんですのよ。『荒人神』になりかけてるとしか思えませんわ……なにぶん私とはどうしても相性が悪い。『リコール』では禍根を残しかねませんので、根絶する方向でお願いしたいですわね」
「ほう。それで対価は?」
「翼は返してあげます。それでお姉様の記憶が戻ることは貴方も分かっているのでしょう?」
「……!」
その言葉に、リノの表情が一変した。変わらずシャロン=マスカレードの後ろ姿しか見えない律には、彼女が今どんな表情をしているのか、全く見えないままだ。
「――受けた」
「そう言うと思っていましたわ。……では、お互い無事に生き残れることを願いましょうか」
律には分からない。琴葉の記憶というものが、リノにとってどれだけの価値があるものなのか。しかし、大切な記憶を失って、その中にリノが大切に想っている記憶があるのなら。何が何でも取り返したいものを、どうしても取り戻せない理由を知れるというのなら。その価値は、他人には絶対に分からない。
――律にとっての、玲のように。
「……俺に出来ることって何かあります? 三条さん」
「この『状態』の時はシャロンで構いませんわよ、茅嶋 律。……とはいえ、あまりこの姿では貴方にお会いしたくないものですけれど。残念ながら貴方の母親であるならばともかく貴方に出来ることは非常に少ないと言わざるを得ません。ただ最悪の場合、本当に最悪の場合、つまり私と鴉が死ぬような事態に陥った場合、貴方は即座に『リコール』を行い、どうにか場を収拾して頂けますか。保険扱いで申し訳ないのだけれど」
「その状況で俺に場が収拾出来ればいいですけどねー……」
「大丈夫でしょう。貴方も『茅嶋』の『ウィザード』なのでしょう?」
「一体『茅嶋』は何だと思われているんですかね」
「ユキノが恐ろしいからね、仕方ないねえ」
くつくつと可笑しそうにリノが笑う姿に、律は肩を竦める。茅嶋家当主である雪乃は、一体どれだけ世界に名を轟かせているのだろうか。考えると気が重い。恐らくこの場合、最悪の状況に陥ったときは雪乃がここに出てくる可能性も二人は考慮しているのだろう。この場にいる律のことは、全く戦力としては考えていない。こんな状況は久しぶりだな、とぼんやりと思う。このところは頼られることの方が多かったこともあるのだろう。こういう状況に置かれると、逆に身が引き締まる。
不意にぐわりと押し寄せてくる威圧感は、家の方から。視線をそちらに向ければ、ふらふらとした足取りで響が姿を現した。その姿はあまりにも痛々しく、立って歩いているのが不思議なほどだ。度重なる戦闘で身体をずたぼろにして、傷だらけで、血まみれの。しかしそれでも、彼は歩みを止めない。
「……あー。お客さん増えてんな、てかリノさんまでいるじゃん……最悪……」
「響くん、」
「まあいいや、邪魔するんだったら全員殺すだけだよな……」
「……響。もうやめなさい、死ぬ気ですか」
「死んでもいい……俺の命がどうなったって、ぜってーお前を、殺す……」
「……そう」
響の背後から、何かの存在が膨れ上がる。一瞬一歩引いてしまったのは、あまりにも強い殺気のせいだ。
それが何なのか、律には見当もつかない。多くの負の感情を詰め込んで、膨れ上がって、手のつけようがないもの――というものにしか、見えない。あれはあれで、『彼岸』であることは間違いないだろう。存在も、そしておそらく成り立ちも、最悪だろうが。
「……手に余る『カミ』を従えようだなんて、本当に無謀な子。あの『エクソシスト』がどんな人間だったか、あなたは知らないでしょう。あなたがそんなふうに命を懸ける価値はありませんのに」
「……は? ふざけたこと言ってんじゃねえよ……」
「まあ、何を言ってもあなたは聞かないでしょうから。……ひとまず、始めましょう」
その声と共に、シャロン=マスカレードの隣に現れたのは白い羽根の翼を持つ者。その姿はどう見ても天使だ。禍々しさなどなく、神々しい清廉な雰囲気があるその『彼岸』は、当然のようにシャロン=マスカレードに寄り添っている。『悪魔憑き』である筈の『ディアボロス』に、『天使』の組み合わせなど聞いたことがない。
混乱したところで、今話が聞けるわけではない。今はもう、これはそういうものだと考えるしかない。
自分の身を守るためのあらゆる魔術を構築する用意をしながら、深呼吸。絶対に二人の足手まといになるわけにはいかない、そして律が足手まといになってしまった場合、二人とも律のことは容赦なく切り捨てるであろうことも理解している。
ここは死地の戦場――情けも容赦も存在しない。