Colorless Dream End

18

「いつまで寝てるんだ起きろ馬鹿」
「いっで!?」

 ごん、と鈍い音、同時に感じた衝撃と痛みに飛び起きる。何が起きたのか全く分からない。ここ最近のいつもの頭痛のような内側の痛みではなく、外側に感じる痛み。まるで、誰かに殴られたかのような。反射的に頭を押さえつつ、きょろきょろと周囲を見回して――恭は首を傾げた。
 その場所には見覚えも馴染みもある。しかしこのところは全く見なくなった、恭の部屋。現在住んでいる律の家の、ではない。実家にある、子供の頃を過ごしていた部屋。恭はどうやらベッドに寝ている状態だったらしい、足がはみ出ていることに気付いて布団の上に胡坐を組む形を取りつつ横にある学習机の方を向けば、そこに座っていたのは一人の女性。
 見覚えのある、けれどとても懐かしい。

「……え? あねき……?」
「おはよう」
「ええと……は? 何で?」

 彼女の顔を忘れるわけがない。死んだはずの姉――柳川 玲が椅子に座って、腕組みして恭のことを見下ろしていた。
 これは夢の中なのだろうか。もしかしたらさっきまでの出来事も夢だったのかもしれないと一瞬考えたが、そうだとしたらスケールが大きすぎる。死んだはずの玲が目の前にいる訳がない。けれど玲はここにいる。本当は玲は死んでいなくて、ずっと夢を見ていたのだろうか。しかし恭自身は玲が亡くなった頃より年を重ねているが、目の前の玲は恭の記憶そのままだ。

「あっはっは! 面白い顔してるなあ恭、混乱してますって顔」
「だ、だってだって」
「心配しなくても夢じゃないよ。私は死んだ人間だし、ついでにお前も死んだ。それだけの話だよ」
「……へ?」
「お前が死んだからお迎えに来た」
「……死んだ? 誰が?」
「恭が」
「……おれ?」

 言われた言葉が呑み込めない。死んだ、だから死んだはずの玲が今、恭の目の前にいる。その意味が分からない。
「……え、こまる……」
「いや、困るって言われてもな」
「いやいやすっげー困るよ!? 何で俺死んでんの!? 意味分かんねえし!? てか俺元気じゃん!?」
「黙れうるさいぶん殴るぞ」
「っでえ!? もう殴ってる!」

 殴られて痛む頭に眉を寄せながらも――本当に痛い。こんなに痛いということは、やはり夢ではなく玲はここにいるのだ。
 まずは思い出そう、と記憶を辿る。響と憂凛が戦っていて、しかし恭はそのとき憂凛のことが誰なのか分からなかった。そして響の攻撃が憂凛に直撃してしまいそうになっていて、それがどう考えても憂凛に大怪我を負わせるのではないかと思える状態で。気が付いたら動かない筈の足が動いていて、届かない筈の距離が届いて、憂凛の前に立っていた。そして嫌な感覚と音が全身に走って、その衝撃だったのか憂凛のことを思い出して――それから。
 それからのことは、覚えていない。気付けばこの場所にいた。
 あれが、死んだということなのだろうか。響の攻撃から憂凛を庇うことで、恭は致命傷を負ったのか。

「……いや死ぬのホントに困るんだけどどうしたらいい……?」
「聞くなそんなこと。納得させるのに死体見せてやろうか。背中から腹にかけて大穴開けて内臓ぼっとぼと出てるような状態の自分が見たいならだけど」
「なにそれぐろいいやだこわい」
「だろう。……ただでさえお前が死んだせいでちょっと目も当てられない地獄絵図が繰り広げられてるからな……」
「じごくえず」
「『カミサマ』が一人キレてヤバいことになってる」
「……わー絶対アリスちゃんだー……」

 詳しく聞かなくても何故かそれだけは想像ができてしまう。
 しかし死んだと言われても、死んでいられるような状況ではない。戻りたい。『アリス』のことも止めなければならないし、憂凛のことを泣かせてしまっていることも気に掛かる。庇った結果恭が死んだとなれば、彼女は自分のことをどれだけ責めるだろうか。考えるだけで胸が痛い。

「ねえ姉貴、何か生き返る方法ないの」
「……恭。何でそれを私に聞いた? そのお馬鹿の頭でよーく考えろよ、私生き返ったことあるか?」
「死んでる上に『彼岸』になってて俺はぶっ殺されるかと思った」
「お前だってそんな状況だよ。今恭がどんなに頑張って何とか戻っても、それは『彼岸』の存在だ。誰かがお前が生き返るための術を使ってくれない限りはどうしようもない」
「そんな術あんの!?」
「めちゃくちゃすごい『エクソシスト』か『ヒーラー』がお前のために寿命を削ってくれればの話」
「わお……」
「……いや、恭それは知ってるんじゃないのか?」
「え?」
「いや、知らないならいい」

 怪訝な表情になった玲はしかし、そのまま緩く首を横に振った。何だろう、と首を傾げながらも恭は考える。すごい『エクソシスト』か『ヒーラー』というのはどういった存在を指しているのか、というのが想像がつかない。モニカや琴葉がそんな術が使えるという話を聞いたことはない。そして恭が生き返るために誰かの寿命を削るというのは、どうにも嫌な気持ちが拭えない。
 そう言われてしまえば、生き返ることは諦めるしかないのだと理解してしまう。ここで、終わり。単純に嫌だな、と思ってしまう。まだやりたいこともある、絶対に死にたくないとも思ってしまう。
 しかし、あのときどうして憂凛を庇うのが間に合ったのだろうか。例え普段通り足が動いていたとしても、響と憂凛がいる場所までの距離は遠かった。とてもではないが間に合うような距離ではなかった。きっと間に合わないと思いながらも体が動いた。それに『アリス』が動いていたから、本来であれば『アリス』の方が早かっただろう。

「……姉貴、俺何で死んだの?」
「だからそれを何で私に聞くんだこの馬鹿弟は!?」
「いだいいだいいだいっ!?」
「というか恭。自分が何したか、覚えてるだろ?」
「ゆりっぺのこと庇ってうっかりひびちゃんに殺されちゃった、ってこと? 覚えてるし分かるけどー! でも! 何で俺あのとき間に合ったんだろ? 大体全然足動かなかったのにさあ、おかしいじゃん」
「お。ちょっとお利口になったじゃないか」
「これでも大学生になれたんだからな俺だって!」
「それは多分何かが大きく間違えてると思うけどな」

 間違いなく、何かがおかしい。それだけは理解できる。どうして間に合って、その結果死んでしまうことになったのか。誰かがあのとき、恭が間に合うように手を貸したということなのだろうか。その結果、憂凛が死んでしまうかもしれない状況で、代わりに恭が死んだということだとしたら。しかしその場合、あの状況で、誰が手を貸したというのか。
 そして今、恭はどうして実家の自室にいるのか。そしてどうして玲がいるのか。玲は恭のことを迎えに来たと言った。――つまり、成仏してこの世から消えるということなのだろうか。
 しかしこの死に方で、普通に成仏できるとは思えない。憂凛をまた泣かせてしまっただろうことも、――そして律のことを一人にしてしまうことも、気に掛かる。律を一人にしてしまうのは嫌だ。律を支えるということに関してはまだ力不足であることは重々承知しているが、律は恭のことを認めてくれている。相棒となって共に働くことを認めてくれている。その気持ちに、まだ何も応えられていない。
 そこまで考えて、ふと気づく。この未練は、もしかしたら。

「……なあ姉貴、実は姉貴ってば成仏してなかったりする……?」
「は? 何で」
「姉貴が本当に律さん置いてけんのかなーって急に思っちゃった」
「まあアイツは本当に手の掛かる後輩だからなあ」
「あと姉貴、俺のこともほっぽってく性格してないじゃん」
「死ぬほど手の掛かる弟だからなあ」
「姉貴って実はさ、俺とか律さんのことずっと見守ってくれてる系? だから今ここにいんの?」
「お前のそういう頭は悪いくせにカンの鋭いところは本当に誰に似たんだろうなー」
「図星?」
「……茅嶋には黙ってろよ。アイツ、うるさいし気にするから」

 はあ、と深い溜め息を吐いて、玲は困ったように笑う。その表情に、ああこの人は間違いなく姉なのだと確信する。疑っていたわけではない、最初からずっと玲ではあった。急に自分の中で合点がいって納得した、と言うべきだろうか。夢でも何でもなく、今、恭の前にいるのは玲なのだと。

「……まあ私は『彼岸』でも何でもないし、その辺うろうろしてるちょっとした幽霊みたいなもんで、恭や茅嶋に何か力を貸してやれるような存在じゃないし、本当に見守るくらいしかできないんだよ。現世に干渉したりするのは力不足だ」
「ゲンセニカンショー」
「本当にお前は誰に似てそんなに馬鹿なんだ? 恭に力を貸してやったり何か力を使ったりするのは無理って話だよ」
「ああ、なるほどー。……あれ? じゃあ今は?」
「だから。恭。人の話を聞け。お前は今死んでるんだって言ってるだろまだ分からないならもう5発くらい殴るぞ本気で」
「嫌ですごめんなさいやめてまじで!?」

 死んでいるとしても玲に殴られると痛いというのは、少し悲しい。
 恭が死んでいるから、今こうして死んでしまった玲と話すことができる。玲とこうして話せるというのは、どうにも変な感じだ。嬉しいと感じる反面、自分が死んでいるのだと思うと喜べない複雑な感情に支配される。
 しかし、玲が死んだ頃の恭はまだ何も分からない、ただの子供でしかなかった。今は違う。玲がいた世界のことをきちんと理解した上で、玲とこうして話ができる。それはやはり、すごいことだ。
 喜んでばかりはいられない。やはりどうにかして生き返って戻りたいという気持ちが抑えられない。その方法はないと言われても、玲が知らないだけかもしれない、と考えてしまう。
 ぐるぐると、振出しに戻ってばかりの思考に嫌気が差す。

「……あーもーどうにかして生き返れないかな……」
「あんまり思いつめるとその辺の悪い『彼岸』にとっ捕まって変な契約されて『ケンゾク』にされるぞ黙ってろ」
「ハイ」
「まあ、散々脅したが恭は生き返るよ」
「へ」
「さすが私の弟ってことにしたいところだな、人望があってよかったな」
「……どゆこと?」

 急に話が変わってしまって、よく分からない。理解が追いつかない。
 きょとんとして止まってしまった恭の頭を、玲は雑に撫で回して、そして笑う。心底嬉しそうに。

「恭。頼むから、私がお前を本当に迎えに行くときは、しわくちゃのおじいちゃんになってからにしてくれよ。お前までお母さんとお父さんより先に死ぬな」
「……えと」
「私の分もちゃんと生きてくれ。……あと、私の分も茅嶋のことを頼む」
「姉貴……?」
「ああ、言い忘れてた。恭、騙されるなよ」
「なに、意味わかんない」
「いいから。恭のことを利用したい奴はいっぱいいるから、絶対に騙されるな。自分の味方はきちんと自分の目で見抜け。お前は良くも悪くも、人のことも、それ以外のものも、何もかも惹きつける。それがどれだけ危ないことか、ちゃんと自覚してくれ。そうすればちゃんと答えも見えてくる。忘れるな」
「……いやまじで何の話!?」
「今は分からなくてもいいから。……ああ、そろそろか」
「いやいやいや!?」

 玲は一体何の話をしているのか。混乱する頭で、しかし何か文句を言おうと口を開けば、玲に口を押さえられた。何がどうなっているのか分からない。
 それでも、忘れてはいけない。その意味が分からなくても。きっと、しっかりと心に刻んでおかなければならないこと。

「大事な友達を死なせないようにな、恭」

 玲の、真剣な声音で紡がれたその一言と共に。急にぐい、と何かに思い切り引っ張り上げられるような感覚が、恭の身体を襲った。


「……うくん、恭くん!?」
「……ぁ……?」

 ずきずきと、頭が痛む。ぼんやりと歪んだ視界、それでも何とか焦点を合わせると、そこにいたのは律だった。

「……はれ? りつさんだ……」
「よかった……、大丈夫? 何があったか分かってる?」
「あ、れ……ッ、いっ……!?」
「ああ、体動かしちゃ駄目。じっとしてて、恭くんさっきまで心臓止まってたんだから」
「……はえ?」

 心臓が止まっていた――ということは、つまり死んでいたということか。
 どうやら先ほどまで玲といたのは、やはり夢ではなかったらしい。しかしそうだとすれば、今どうして生き返っているのか全く分からない。
 真っ青な顔色ながら、それでも安堵したように息を吐いた律が手早く魔術を発動させて、少しだけあちこちの痛みが楽になる。一体何が起きていたのか。目だけを動かす形で周囲を見回せば、どうやら場所は変わっているようだった。最初に目が覚めたときにいたような、普通の部屋に雰囲気は似ている。

「……律さん……ゆりっぺ、は」
「ん、大丈夫だよ。……まあちょっと俺の手に負える状態じゃなかったから、気絶させちゃったけど」
「え」
「ほんっとに、大変だったんだからね」

 馬鹿。小さく呟いて、律は少しだけ笑う。その表情に胸が痛みを覚えたのは、どれだけ律が恭のことを心配してくれていたかが分かってしまうからだ。

「……、ごめんなさい」
「いいよ。ただしこれ、本当にもう次はないと思うよ……恭くんが生き返れたの、本当にただの奇跡だし……」
「……何で、おれ、生き返れたんすか……」
「三条さんがね、助けてくれた」
「……さよちゃん……?」

 どうしてそこで、小夜乃の名前が出てくるのか。何よりどうして律が小夜乃のことを知っているのか。
 恭はずっと、小夜乃のことを律に黙っていた。『ディアボロス』の友人だということを、どうしても律には言いにくくて。怒られる、と思ったのが表情に出たのだろう、肩を竦めた律が首を横に振る。

「俺別に怒ってないよ。怯えなくても。……むしろ俺の知らない世界が広すぎて頭痛いなって感じ」
「……なに、があった、んすか? ひびちゃん、は」
「あー……どうかな……多分今三条さんが追いかけていってる」
「えと……アリスちゃん、は」
「今は憂凛ちゃんの傍についててくれてる。まあアリスちゃんも大暴れでそれも大変だった……」
「……まじでごめんなさい……?」
「いや本当にね、恭くん、お願いだから死ぬほどの無茶はしないで。……いや今回恭くんが死んだ責任の一端俺にあるかもしれなくて本当嫌だもう……」
「はえ?」
「とりあえず質問タイムはおしまい。全快したらちゃんと説明してあげるから。とりあえず意識も戻ったことだし、病院に戻すよ。本当はこのまま一緒についててあげたいんだけど、そうもいかなくてごめんね」
「……俺も、行くっす」
「駄目。そんな体の子連れていけません」
「律さん、」
「お願いだから俺にこれ以上心配させないで、今回は」

 まるで小さな子供に言い聞かせるように、優しい口調で律は言う。言われなくても分かってはいるのだ、体は全く動かせない。少しでも動けば死んでしまうのではないかというほど痛む、頭はくらくらと揺れている。こんな状況で律についていくことなどできないことくらいは、分かっているのだ。
 それでも、響と小夜乃は、友人だから。

「……律さん。ひびちゃんも、小夜ちゃんも、俺にとっては、大事な友達っす……」
「……うん、知ってるよ」
「えと、あの……助けて、あげられますか」
「……殺されたのにそれ言っちゃうところが本当に恭くん。……あのね、正直に言えば分からない、としか俺には答えられないよ」

 恭の質問に、律は呆れた口調で告げながら首を振る。恐らく本当は難しいことなのだろう、律の立場を考えてもそれはきっと簡単なことではない。
 響は本当に多くの人を敵に回してしまっている。それでもどうしても小夜乃に復讐したかった。大切な人の仇討ちをするために生きてきた。その犯人が本当に小夜乃なのかどうかは恭には分からない。本当に小夜乃が犯人なのだとしても、本当は違う人間が犯人なのだとしても、恐らく響はもう後には退けない。
 退けないからこそ、きっと苦しいのに。――自分は、何もできない。どうするのが正解だったのか、分からない。

「……恭くん。ひとつだけ聞いておきたいんだけど、今回のこと響くんから何か聞いてる?」
「あー……っと、えっと……ひびちゃん、施設出身らしくて……そこの、せんせい? が『エクソシスト』らしくて、んで、その人殺されてて、その復讐で、犯人が小夜ちゃん……?」
「三条さんが犯人?」
「よく、分かんないんすけど……ひびちゃんはそう言ってて、それで、何か、小夜ちゃんのこと殺せるの、ひびちゃんとしては俺だけだから、俺に殺させようと思って、堕としたら操れるだろうと思ったのに、全然堕ちねーむかつくーって……」
「ふうん……」

 恭のたどたどしい説明が通じたのかどうか。眉を寄せて考え込んだ律の頭の中で、一体何が想像されているのか。
 結局何も分からない。どうすることもできない。何も知らず、何もできなかった、玲が亡くなった頃の中学生だった自分と、何が違うのか分からない。最初からずっと何も気づかないまま利用されていて、下手をすれば何もできないより質の悪いものかもしれない。そう考えると、気分ががくりと落ちてしまう。

「……今回はどうにも全然読めなくて困るな。とりあえず鹿屋先生に連絡は入れるか……」
「……あ、律さん。松崎先輩に会いませんでした? 俺、ここ来たときに会って……」

 呼ばれて出ていった渚のその後が分からないことを思い出す。あの後、彼はどこに行ってしまったのだろうか。純粋な恭の疑問に、律が困惑した表情を浮かべて。

「……会った。渚くんのことに関しては全部見当違いでとんでもなかった」
「けんとーちがい……?」
「正直渚くん、とんでもないこと巻き込まれてて本当に困る……。俺の周りって何でみんなこう、手が掛かるんだ……嫌がらせかな……」
「……えっと」
「ま、渚くんのことはもう心配いらないよ。恭くんと一緒に病院送りです」

 一体何があってそんなことになっているのかの方が気になってしまう。しかし、律の様子からして渚は無事だということだ。それならよかった、とほっと胸を撫で下ろす。
 憂凛も、『アリス』も、渚も無事で。ならあとはやはり、響と小夜乃のことだ。
 響にとって、ずっと恭は友人ではなく利用すべき駒だったのだろう。しかし、響はずっと恭に優しかった。文句を言いながら、時には本気で怒りながら、ずっと恭と一緒にいてくれていた。いろんなことで一緒に笑いながら、共に時間を過ごしてきた。
 その時間は嘘ではない。だから、どうか。

「……律さん、無理しないでください、っす」
「うーん、ちょーっとそれ今の恭くんに言われたくないかなー?」
「あう」
「まあ大丈夫、ありがとう。……出来る限り何とか手は尽くして、響くんと三条さんは連れて帰ってくるよ」
「……あざっす」
「うん」

 よし、と恭の頭をわしゃわしゃと撫でてから、律はスマートフォンを取り出した。それを見た瞬間、恭の中で思い出した記憶。――病院で破壊された、スマートフォン。

「ぶんちゃん! ……ぐぁいっ……!?」
「……馬鹿。大丈夫?」
「い、いた……あの、律さん俺のスマホ、ぶんちゃん……」
「ごめん、俺にはちょっと。少なくとも俺のスマホには来てない。まあ多分どこかに逃げられてるとは思うんだけど、……ちょっとそこまで手が回ってない」
「……っすよね……」

 果たして『分体』はどこに行ってしまったのか。それほど力が強いわけではないとはいえ、一応『彼岸』の存在だ。消えてしまうということはないだろうが、どこにいるのか見当もつかない。ぼろぼろに壊れてしまった恭のスマートフォンの中に残っているのだろうか。電源が入らない状態どころか原型も留めていないスマートフォンに閉じ込められてしまい、出てこられなくなっている可能性も否定できない。
 律が琴葉に連絡している声を聞きながら、スマートフォンを修復することは可能なのだろうかと考える。本当に通常では考えられないレベルで壊されてしまっていた。買い替えなければいけないのは当然としても、データを移せるのかどうかも分からない。
 叫んだ際に腹部がひどく痛んだせいか、またぐらぐらと意識が揺れている感覚がする。電話の傍ら、恭の様子を見た律が仕方なさそうに笑って、恭の目の上に掌を置いた。真っ暗になった視界、途端襲い来る眠気は、律が何かしたのだろうか。

「……とりあえずぶんちゃんのことは俺の方でも何とか当たってみるから、今はとりあえずもう寝てて。本当に……意識、戻ってよかった」
「うー……」

 ああ、どうしてこんなに自分には力がないのだろう。そう考えてしまう、自分が嫌になる。
 意識を手放す直前に、ぽろりとこぼれた涙に、きっと律は気付いていただろう。