Colorless Dream End

11

 これ以上のスピードで仕事が出来る日は来ないのではないだろうか。
 そう考えてしまうほどにはかなり無茶なスケジュールで仕事を片付けて、一路律は日本へと戻ってきていた。すべての仕事が片付いたわけではないが、残りはアレクに任せてきている。何より事情を聞いたアレクが「後は何とかするから帰った方がいい」と背中を押してくれた。持つべきものは頼れる仕事仲間といったところか。

「律兄様!」
「ただいま、桜ちゃん。ごめんね、遅くなっちゃって」
「いえ、お仕事中だったのに大丈夫ですか?」
「恭くんのことだし放っとけないから。桜ちゃんが気にしなくて大丈夫だよ」

 空港に着いて到着口から出るとすぐにぱたぱたと桜が駆け寄ってきた。その表情にどこか安堵を感じて、心細かったのだろうなと推察できるそれに恭の現状を憂う。おおよそのことは『分体』から報告は受けているが、律に報告する前に途中の記録は抜け落ちていて、何が起きたのか肝心の部分が分からない。ひとまずは直接現状を見ている桜にも事情を聞いた方がいいだろう。
 ひとまず桜を連れてきてくれた伊鶴の車に乗り込んで、一息。――状況を整理しなければならない。

「ぶんちゃんからおおよその報告は受けたんだけど。足が動かなくなって話せなくなってるって?」
「はい……、足は本当に全然動かないというよりは、恭さんとしては『そこに足がない』という感覚だそうです」
「足がない?」
「実際足がないわけではなくて、怪我をされたわけでもないんですが、感覚としては『動かそうとしてもないものは動かせない』という感じだと……」

 その感覚に、律は覚えがある。右手に怪我を負った当初、そこに右手がないのではないかと思ったあの感覚。それが今、恭の足に起きているということになる。しかし、恭が怪我を負っていないというのであればどうしてそんな感覚に陥ってしまっているのかが分からない。恭の足の怪我といえば昨年の陸上の練習の最中に靭帯を切ったことは覚えている。その怪我をした当時は律は海外にいて直接傍にはいなかったのだが、大丈夫だと笑いながらも暫く足を引きずっていたし、それがきっかけで競技としての陸上を辞めることになった。走ることを辞めたわけではないこともありそれほど気にしてはいなかったのだが、もしかすると何か関係があるかもしれない。

「話せない方は?」
「鹿屋先生たちが診てくださっているんですが、恐らく極度のストレスに晒されたことによる一時的な失声状態だろうとのことでした」
「極度のストレス……となると、『彼方』に引き摺られる寸前まで追い込まれてる感じなのかな、もしかして」
「かもしれません。でも恭さん、話せないし動けないという状態ではあるんですけど、見た目はいつも通りなんです。私の前では心配させないように元気に振舞ってくださってるだけなのかもしれませんけど……」

 心配そうに桜が目を伏せる。こんなときに気を使わなくてもいいのに、とは思ってしまうが、恭の性分ではあるのだろう。話せなくなるほどの負荷を受けながら、そういうところは変に強くて困ってしまう。
 問題はどうしてそんな状況に陥ったのかだ。頭痛の件もある。そしてシャロン=マスカレードの件も恭に聞かなければならない。『分体』の記録が飛んでしまう前に恭が出会った黒い巫女装束の『憑物筋』が誰だったのか、どう関係しているのかも分からない。恭だけではなく、事情を知っている人間に直接話が聞けるといいのだが。
 考えている間に、伊鶴が運転する車は病院へと到着する。桜の先導で病室へと向かうと、病室の入り口にモニカが立っていた。律を見た瞬間にすっと姿勢を正して一礼する姿がモニカらしくて、こんな状況でもいつも通りであることにほっとしてしまう。

「お帰りなさい、リツ」
「ただいま。恭くん、どう?」
「中に居ますし、起きていますよ。状況はサクラに聞いていますか?」
「うん、一応。何が起きてたかはちょっと情報足らないけど」
「その辺りは後程、コトハの方から話があるかと思います。……どうぞ」
「ありがとう」

 モニカが開いた扉の向こう、音に反応したのかぱっとこちらに視線を向けた恭の驚いた表情が見える。その唇がぱくぱくと動いて、恐らくは何か言葉を発そうとしたのだろうことは分かるが、確かに声が聞こえない。あ、と気付いたように自分の喉元に手をやった恭は、そのまま困ったように笑う。
 ――ああ、本当にこの子は。内心そんなことを考えながらベッドの横に腰掛けて、恭としっかりと視線を合わせてから、律はその頭を撫でた。

「……大丈夫?」

 思わず子供をあやすような声が出た。恭はしっかりと頷いて、続いて何か言おうとして、慌てて手に取ったのはスマートフォンだ。ふわりと出てきた『分体』が、律の前でうなだれる。

『すまん茅嶋、全部ちゃんと報告できんくて……』
「いや、気にしないで。色々報告してくれてありがとうね、ぶんちゃん」
『恭も心配かけてごめんなさい、やって』
「本当だよ全く。……何があったのか聞ける?」
『ちょうど琴葉が茅嶋帰ってくるのに合わせて当事者集めてくれてる。そっちに聞いた方が早いと思う』
「当事者?」
『黒い巫女装束の『憑物筋』と会った話までは送れてたやんな?』
「うん」
『碓氷とおるときに遭遇したんやけど、そのとき憂凛と『アリス』が助けてくれてん。でも、恭のやつその辺は覚えてへん』
「え?」

 思いがけない名前に、律は目を瞬かせた。覚えていないのは恐らく以前から話に出る頭痛のせいなのだろうが、現状に憂凛と『アリス』の名前が出てくるのは想定外だ。
 恭から話を聞いたとき、確かに最初に憂凛のことを考えた。恭が忘れてしまっているのは憂凛のことではないかと推測はした。しかしその当の本人が恭を助けに来たというのは、一体どういう状況だったというのか。

『憂凛は別口でその『憑物筋』追ってたらしくてな。たまたま恭と碓氷が巻き込まれててかち合った感じやねんけど』
「ああ、なるほど……? で、鹿屋先生が当事者の一人として憂凛ちゃんを呼んでくれてるってこと? そうだ恭くん、憂凛ちゃんのことって」

 問いかけようとしたがしかし、恭の表情がきょとんとしていることに気付く。何を話しているのだろうとでも言いたげな、不思議そうな表情。

『茅嶋、あかんねん。恭のやつ、多分憂凛の名前を認識できてへん。何せ喋られへんから分からんけど、ほぼ間違いなく』
「……ああ、聞こえないのか」

 恭の頭痛を引き起こしている術の弊害と見るべきだろうか。となればその辺りの話は恐らく琴葉からきちんと説明があるだろう。
 断片的に情報を入れても、何も分からない。現状優先されるべきは、状況をきっちりと把握することだ。そうしなければ、解決の糸口が見つからない。

「……分かった。恭くん、とりあえず、大人しくしとくんだよ。動けないから、大人しくしとくしか出来ないだろうけど」

 律の言葉に、恭がへらりと笑う。その笑顔はいつもの明るい笑顔ではなく、どこか辛そうに見えて胸が痛い。
 知っている。それなりに長い間、恭の面倒を見てきているのだ。何よりも走ることが、そして身体を動かすことが好きな恭が、足が動かないという状況に陥るのは本当にストレスだろう。失声状態に陥るほどのストレスまで受けているというのに、平気で笑っていられるわけがない。泣き喚きたくても、不安を訴えたくても、それを直接伝える手段を奪い取られている今の恭の精神状態はとても危ういものだ。いつ『彼方』に引き摺られてもおかしくない。
 ――恭のことを、この世界に巻き込んだりしなければ。一瞬そんなことを考えて、しかし止める。そのことを後悔してはいけない。

「……助けるからね、絶対」

 今するべきは、その約束だけだ。


 病室を出ると、近くでモニカと桜が待っていてくれた。二人の顔を見た瞬間に一気に気が抜けて、律はその場に座り込む。遅れてずきんと胸が痛んで、ゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着かせる。

「……律兄様」
「だいじょうぶ……って言いたいとこだけどごめん、ちょっときついな……」

 いつかはこんなことが起こる日も来るのだろうとは考えていたし、その可能性を頭の中から排除したことはない。それでもどこかで恭なら大丈夫だろうと考えていたのも確かだ。今回はあまりにも色々な出来事が一気に恭に降りかかりすぎている。本腰を入れてどうにかしなければならない。
 気落ちしている場合ではない。しっかりやるべきことをやらなければ進まないのだから。

「とりあえず、桜ちゃん。恭くんと一緒にいてあげてもらっていい?」
「はい! 任せてください!」
「ありがとう。モニカさんは仕事に戻ってもらって大丈夫、あとは俺が全部引き受けます」
「……大丈夫ですか」
「分かんない。でも、頑張らなきゃね。……ていうか俺の方こそごめんなさい、一応当主代行っていう立場で動いてたのに。抜けたら穴埋めとかいろんな仕事投げちゃうね……」
「そんなことをリツが今心配する必要はありませんよ。ユキノもそろそろ仕事に復帰できそうですし、こちらとしては問題ありません」
「……うん。いつもありがとう」

 一度きちんと引き受けた分に関しては片付けているとはいえ、今後の仕事に大きな穴を空けてしまっていることは事実だ。こんな状況だから仕方がないと言ってもらえるとはいえ、やはり気に掛かる。正式に当主を継ぐことになれば、そのときはこうはいかないことも理解している。
 今だから甘えていられると考えれば、今でよかったのかもしれない。一つくらいポジティブに考えていなければやっていけない。
 考え込んで落ち込んでいる時間があるなら、早急に解決してしまえばいい話だ。解決しないことには、何も動けない。ぱん、と自分の両頬を挟むように叩いて気合を入れ直してから立ち上がる。

「よし。俺は鹿屋先生のところ行ってくるね」
「はい。あのっ、律兄様、あまりご無理はなさらないでくださいね。私に出来ることがあれば、何でもお手伝いしますので!」
「ふふ、頼もしい。ありがとう」

 桜にまで心配を掛けているのは本当に申し訳ない。だが、大丈夫だと笑える余裕は戻ってきた。
 恭が『彼方』に引き摺られてしまったわけではない。だからまだ、最悪の状況に陥っているわけではない。そもそも万が一恭が『彼方』に引き摺られてしまうようなことになれば、それはさすがに玲に申し訳が立たないというものだ。それに恭まで、あんな思いをする必要はないと思うから。
 だから絶対に、何とかしなければならない。それは、律がやらなければならない仕事だ。
 モニカに琴葉がいるというカンファレンスルームの場所を教えてもらい、二人と別れてそちらへと足を運ぶ。入る前に一度深呼吸。こんこんとノックをすると、どうぞと聞き慣れた琴葉の声が返ってくる。
 中に入れば、そこには琴葉と響。そして律の記憶の中の姿よりは随分と大人びた憂凛。そして知らない女性が二人。片方は『陰陽師』であることから碓氷 奈瑞菜だろうと察して、もう一人に目を向ける。――『ディアボロス』。

「……初めましてですわね、茅嶋 律さん。三条 小夜乃と申します。……私のことはご存じかと思いますが」
「初めまして。別件でお名前をお伺いしてます」
「そうでしょうね」

 少しだけ、困ったように小夜乃は笑う。彼女は既に律がリノと話したことを把握しているのだろう。――彼女の『正体』を知ってしまったことまで。

「茅嶋さんっ、あのっ、ごめんなさい! 恭ちゃんがあんなことになっちゃってるの、憂凛のせいでっ……!」
「こーらゆりゆり落ち着いて!」
「でも、でもっ……ごめんなさい……」
「……あー、ええと? 俺は誰からどう話を聞けばいいかな?」

 何せ当事者の人数は多い。半分泣いているような状態の憂凛と、それを宥める奈瑞菜と。響は困った顔をしてうろうろと視線をさまよわせているし、琴葉は状況に苦笑いしている。小夜乃に関しては個人的に聞きたい話もあるが、この場であれこれと情報を開示するわけにもいかないだろう。

「……ええと、じゃあまず。茅嶋さん、憂凛と柳川くんの間に何があったかあまりご存じじゃなかったですよね」
「ああ、そうですね。何かあったことは分かってるんですが、詳細は聞かないようにしてたので……」
「ではそこからですね。とりあえずどうぞ、お掛けになってもらって。……話も長くなるでしょうから」

 琴葉に促されるがまま、律は椅子に腰掛けた。それを見てから、琴葉は静かに口を開く。
 語られたのは、律が知らないままで通していた恭が高校2年生の冬の話。どうして憂凛に「二度と会わない」と言われたのか、その事件の全容。少しだけ関わりはしたが、当時恭から『解決したっすー』という軽いメールが送られてきて、その後に会った日が帰ってきて号泣した日だったので、そのまま聞くことが出来ずにいたのだ。
 その事件で憂凛が『彼方』に引き摺られてしまっていたこと、その結果恭に大怪我を負わせることになったこと。それ自体は小夜乃の助けと琴葉たちの治療の甲斐もあって特に大きな問題はなかったものの、憂凛の心に大きな傷として残ってしまったこと。憂凛のために、恭が『アリス』を喚び出す媒介であるチェシャ猫のキーホルダーを渡したこと。そして憂凛が二度と恭を傷付けないために、二度と会わないと告げるに至ったこと。
 途中に憂凛の補足も挟みながら、琴葉から話されたその事実は律にとってはほぼ全てが初耳のことだった。

「……いや本当にあの馬鹿……」
「怒らないであげてくださいね。柳川くん本当に結構大変だったので」
「……そんなことがあったから、あの頃うちに来なかったんですね」

 当時は特に――だろう。今でこそ少なくなったが、あの頃恭が『彼方』や『彼岸』に関わる事件に首を突っ込む度に怒っていた律にこんな話がしにくいというのは分かる。何かが起きていたのは知っていたから、会っていれば律は恭にその理由を問いただしていたかもしれない。
 律のところに久しぶりに来た、あの日。憂凛に別れを告げられた日、見たことがないくらいにぼろぼろになっていた恭のことを、律はよく覚えている。

「……憂凛ちゃんはその後どうしてたの?」
「ええと、憂凛は……『狐』の力を使うの、怖くて。また同じことしちゃうかもって思って……ずっとそんなのだったけど、なぎちゃんやアリスちゃんとか、皆が助けてくれて、何とか……」
「そっか。頑張ってたんだね」
「でも、恭ちゃんが……ごめんなさい……」
「憂凛ちゃんを責めたりしないよ。俺だってこの数年で『彼方』に引き摺られて恭くん殺しかけたりしてるからね」
「え!?」
「色々あったんですよ、俺たちも」

 色々あった――そう、本当に色々。それでも今笑っていられるのは、きちんと解決してきたからだ。恭が真っ直ぐなままで居てくれて、燻ぶったままだった律に前を向かせてくれて、そして一緒に乗り越えてきたから。
 しかし、恭と憂凛の間にはそれがなかった。だから今も乗り越えないまま、変に燻ぶっている。

「で、その件があって今回恭くんの足がどうこうなってるってこと?」
「それは私から説明させていただきます」
「小夜」
「これは私が責任を持って話すことでしょう? 響」

 口を開いた小夜乃を制止しようとした響に、小夜乃は首を振った。『分体』が律にしてくれていた報告の一端を思い出す。――響は恭の頭痛に関して、明らかに何か知っている様子だった、と。

「この件は私と響が当事者です。『ディアボロス』である私の話を貴方が信用してくださるかどうかは分かりませんが、内容に一切嘘はないと誓約いたしましょう」
「……分かりました」
「昨年、恭が靭帯を損傷して陸上を辞めることにしたことは、茅嶋さんもご存じのことですね?」
「勿論」
「怪我をした当日、家へ一人で帰るのはしんどいだろうと私と響で迎えに行きました。2、3日は全く動くこともできないレベルの怪我でしたので、ついでに泊まって面倒を見ようという話になりまして……実は恭が怪我の報告を貴方にしている電話の際私たちも隣にいたのですけれど、まあ、怪我をした割には元気なものでした」
「……うん。まあいつも通りの感じでちょっと怪我したー、みたいな雰囲気であっけらかんとしてた」
「話が一変したのは寝静まってから、その日の深夜の話です。恭の悲鳴で私も響も目が覚めました」
「悲鳴?」

 その言葉にびくりと身体を震わせたのは憂凛だ。奈瑞菜が肩を抱き寄せるようにして寄り添って落ち着かせようとしているのが分かる。当然ながらいい話ではないだろう。

「恭にとって『狐娘に足を吹き飛ばされた』というのはそれなりにトラウマだったのでしょう。足が動かない状態で眠ったことでそのときのことを夢に見て、飛び起きた」
「……あ」
「目覚めた恭は完全に錯乱状態になっていて、私たちがいることも分かっていませんでした。それでも何度も何度も狐娘のせいではないと譫言のように呟いていて……あの恭を、私たちは見ていられなかった。ひとまず必死で落ち着かせているうちに疲れ切ってしまって、眠ってくれたのですけれど」
「そんなことがあったから、憂凛ちゃんに関する記憶を消したってこと?」
「いいえ。彼女の記憶を消したのは、元々は恭自身です」
「……?」
「翌朝起きたときには、恭は狐娘のことを完全に忘れていた。夜中のことがありましたから、大丈夫かと心配して聞いた響にきょとんとしていました。夢を見て飛び起きたことさえ、もう恭は覚えていなかった」

 急激なストレスを受けたせいだろうという想像はつく。誰かの術のせいではなく、自分の意思で。それは恭が自身の心を守るためだったのか、それとも。
 憂凛の方へと視線を向ける。堰を切ったようにぼろぼろと泣きじゃくる憂凛は、誰よりも何よりも責任を感じているのだろう。今この場にいる誰よりもつらい思いをしていて、謝ったところでどうすることもできないことも、彼女は理解している。

「だいじょーぶ、大丈夫だよ、ゆりゆり。落ち着こ、ね」
「……だって、だって、憂凛のせい、憂凛のせいでっ……」
「思い詰めたら駄目だってば」
「ごめんなさい……、ほんとに、ごめんなさい……」
「大丈夫だよ、憂凛ちゃん。落ち着いて。……えっと、三条さん、『元々は』ってどういうことですか」
「……翌日も同じことがあったのですよ。夜中に悲鳴を上げて飛び起きて錯乱状態に陥る恭を見てしまったら、もう私が術を重ねることでしかあの子を助けてあげる方法が思いつかなかったのです。実際、術を掛けた次の日からは夢を見ることもなく眠っていましたし、茅嶋さんもそんな恭を見た覚えはないでしょう? 思い出さないようにぶんちゃんからも一旦狐娘に関することは忘れて頂いたんです。……現在は、というか、彼女に会った時点で私が掛けた術は解けている筈です。ぶんちゃんは彼女のこと、分かっていたでしょう?」
「……そう、だね」

 今回恭が変な形で憂凛のことを思い出してしまったことで、恭には強いストレスになったということになるのだろうか。その結果として失声状態に陥って、足も動かなくなってしまった。だがしかし、どうにも何かが引っ掛かる。言いようのない気持ち悪さの原因について考え込んだところで、すぐにその原因が分かるわけでもない。
 解決する方法としては、恭と憂凛をどうにかするしかない、ということだろうか。今の恭が憂凛の名前すら認識できなくなってしまっているのは、小夜乃の術の結果ではなく恭自身の問題だということになる。

「響くん、確認するけど三条さんの話に嘘はない?」
「ないです。茅嶋さんにとって小夜は『ディアボロス』だし信用できない相手かもしれませんけど、この2年半こいつらと一緒にいる俺としては、小夜が恭を傷付けるようなことはないって断言できる」
「……そっか。じゃあ信じるよ」

 響の回答には全くと言っていいほど淀みがない。だがこの場合響の記憶が改竄されている可能性がないとは言い切れない。そこまで考えて、首を振る。疑い出せばキリがない。一旦信じるのが正解だろう。
 信じて、その上で解決策を見出すしかない。

「……ねえ憂凛ちゃん」
「……っ、はい」
「憂凛ちゃん、恭くんと向き合える? 多分恭くん、憂凛ちゃんのことを守るために憂凛ちゃんのこと忘れてるんじゃないかなって思っちゃうところもあるんだけど」
「……憂凛を、まもる、ため?」
「うん。あの子ってば馬鹿だからね。知ってると思うけど」

 本人が何も話せない以上、そして何も覚えていない現状では、これはただの仮説のひとつだ。恭の性格を考えれば、可能性が高い方に分類される仮説。
 トラウマになるほどのものを抱えて、それでも恭はそれを憂凛のせいにはしたくなかったのではないか。憂凛のことを責めるようなことはしたくなかったのではないか。そうすることでしか、恭は憂凛を守る方法が分からなかったのではないか――二人は会えない状況にあったのだから。二人で話し合って解決することは、できなかった。
「一回ちゃんと話してみる勇気はある? 俺はそれが憂凛ちゃんのためにも、恭くんのためにもなると思う」
「……でも、でも憂凛は」
「大丈夫。恭くんは強い子だよ。……俺に殺されかけといて、ブチギレして向かってきて乗り越えてくれた子だから。憂凛ちゃんのことだって、ちゃんと向き合って話し合うことができれば解決の糸口はあるかもしれないでしょ?」

 不安そうに揺れる憂凛の瞳から、視線は逸らさない。真っ直ぐに見ることで伝えることしか、今の律にはできない。
 恭ならきっと乗り越えていくだろうと信じている。それだけのポテンシャルを持っていることは知っている。時間を置いた結果色々なことが起きてしまって、悪化してしまっているが、しかし。それでも何とかなると信じたいのは、ただの願望でしかないのだろうか。

「……、がん、ばる……」
「うん」
「……憂凛、ちゃんとできるかな……」
「大丈夫だよ、憂凛ちゃんなら。……恭くんとちゃんと話すことが、憂凛ちゃんが自分を許すきっかけになるって思ってる」
「!」

 目を見開いた憂凛の表情が、揺れる。それを見ながら、律は笑う――安心させるように。
 憂凛の気持ちが、律には痛いくらいによく分かる。いや、恐らく憂凛の抱えているそれは律の中にあるものよりも酷いだろう。何年もずっと自分のことを責め続けていたであろうことは想像がつく。
 それは難しいことかもしれない。すぐには上手くいかないことかもしれない。それでも律としては大丈夫だと信じることしかできないし、言い聞かせることしかできない。律がどうこうして解決できる問題ではないが故に、手助けしかできない。

「……、がんばる。ちゃんと」
「うん。頑張ろう」

 ぎゅ、と強く唇を噛み締めて。涙を拭って頷いた憂凛は、確かに大人になっていた。