06 懐中時計

かたん、と音を立てて机の上に置かれたのは、古びた懐中時計だった。その盤面は、正確に時を刻んでいるように見える。
 棚の中を片付けていた手を止めて、店主はまじまじと懐中時計の持ち主を見た。焦った表情をしている冒険者は、その勢いのまま口を開く。

「助けてくれ、修繕屋……! アンタならこれ、直せるだろ!?」
「……と、言われましても……」

 さて、どうしたものか。
 困惑を隠せないまま、店主は机の前に腰掛けた。置かれた懐中時計に触れてみたものの、どこかが壊れているという様子は全く見受けられない。その盤面は長針も、短針も、そして秒針さえも正確に時を刻んでいる。
 そうであれば、外側か。念入りに細部まで確認したものの、細かな傷や経年劣化こそあれ、割れていたり歪んでいたりといった様子もない。
 どこも壊れていないものを修繕してくれと頼まれても、店主にはどうすることもできない。

「もうアンタしか頼れる相手がいないんだ、頼むよ……」
「この時計は壊れていませんよ。故に、私にできることはございません」
「そんなはずは」
「正確に時は刻まれ、外装にも不備はない。何をどう修繕しろとお望みでしょうか」
「……いや、絶対、壊れてるはずなんだ。だって正常だったら、教えてくれるはずだ」
「何を、でしょうか」
「……これだよ」

 苦々しげに呟いて、冒険者は羽織っていたコートを脱いだ。更に捲りあげられた服の裾から覗くのは、まだ生々しさの残る大きな傷痕。見えていない範囲にまで広がっていることが、容易に想像できるほどのものだった。

「危険地帯に潜る仕事をしてるからな。その時計は、これ以上は危険だってときは必ず知らせてくれてたんだ。だから、鳴ったら引き返すことはずっと徹底してきた」
「しかし今回は鳴らなかった、と」
「そうだよ。アンタならその原因が分かるんじゃないかと思って……」
「なるほど」

 怪我をすることなど、冒険者としては考えていなかったのだろう。危険であれば時計が教えてくれる――今までそうだったのだから、今回もそのはずだった。しかし鳴らなかったのだから、その結果怪我を負ったのだから、壊れているに違いないという冒険者の話は、理解はできる。
 しかし、店主の目から見ればこの時計が壊れている――とは、やはり考えられない。それでも、この冒険者にはきちんと説明しなければ、納得しないだろう。
 ポケットに手を入れて、眼鏡を取り出す。透明な星空のレンズ越しに見える時計は、やはり正常に動いている。ならば、時計が鳴らなかった原因は他にあると考えるのが妥当だろう。
 では、原因は何なのか。懐中時計に触れたまま、店主は暫しその盤面を見つめ――大きく息を吐いた。

「この時計は壊れていません」
「いや、だからそんなはず」
「貴方は、進めると思っていた。だからそのまま進むつもりでいた。だから時計は鳴らなかった。ただそれだけのことです」
「は……?」
「貴方は本当に、時計が鳴ったら引き返すつもりだったのですか」

 現実世界の迷い人と、魔術世界の客人では話が違う。物自身の意思が大きく反映される魔術世界では、持ち主によってその性質が歪むことも多々ある。
 この懐中時計は、確かに今まで、冒険者に対して危険を知らせてきたのだろう。そして、冒険者もそれに従ってきた。だから今まで、彼は大きな怪我をすることもなく、無事に生還し続けた。
 しかしそれが、慢心になっていたら。
 本当はまだもう少し先に進んでも、別に危険はないのではないかと疑っていたら。

「鳴らなかった原因は、貴方ではないでしょうか」
「……なん、だよそれ」

 店主の言葉に、ふらりと冒険者の身体が揺れ。そして力を失って、椅子に座り込んでしまった。壊れていないものを直すことは、店主にはできない。直すべきところが、その目には映らない。
 眼鏡をはずし、元通りポケットへと仕舞い込む。机の上の懐中時計は、冒険者の前へと滑らせ。

「ご来訪いただいたのに申し訳ございませんが、こちらは修繕不要です」
「……修繕屋」
「何でしょう」
「……ここで俺が、この時計を壊して直してもらっても、結末は同じか」
「もっと酷くなるのではないかと推測いたしますが」
「……そっか、そうだよな……」

 故意に壊されたものが、その後持ち主のために働くとは思えない。率直な店主の指摘は、冒険者にも予想できた返答だったのだろう。
 冒険者の指先が、するりと懐中時計の盤面を撫でていく。

「……疑ったつもりはなかったんだけどなあ……」
「何か御事情が?」
「さあ。いや、俺のただの慢心なんだろうな……今の俺の実力なら、もう少し先までいける。そう思ってたのが、コイツにはバレてたんだろうなあ」
「……その子は貴方にとても忠実ですよ」

 店主の言葉に、冒険者は笑う。それは諦めのようで、自嘲のようだった。
 物は嘘を吐かない。その必要を持たないからだ。ただ、自らの役目を全うする。そして今回、この懐中時計はただ、持ち主の意思を尊重しただけだ。役目を放棄したわけではない。

「貴方のことを大切に想っている、それだけのことです。その結果は、貴方なら分かるのではないでしょうか」
「……そうだな」

 どんな理由があれ、事象を引き起こしたのは物ではない。それを使っている冒険者自身だ。
 溜め息を吐いて、冒険者は懐に懐中時計を仕舞い込んだ。しばらく躊躇うように視線を泳がせ、それからその瞳が店主を見つめる。

「……本当に壊れたときは、直してもらえるか」
「勿論。私は修繕屋ですから」
「そっか。……うん、そういうことなんだろうな。でも修繕屋、それならお前はどうするんだ」
「私は私の役割を果たすのみです」
「……そっか」

 冒険者が言外に滲ませた言葉が、分からないわけではない。それでも淡々と返答した店主に、冒険者は何も言わなかった。


 そうして冒険者が去り、机の上には空の小瓶がひとつ。それを手に取った店主は、きらきらと輝く小瓶が並ぶ棚の下へと仕舞い込んだ。今回は修繕が発生しなかった――故に、得るものは何もない。

「……あの子、困っていましたね」

 思い出したのは、冒険者が持ってきた懐中時計のこと。正常に時を刻み、正常に機能していたにも関わらず、修繕に持ち込まれたもの。
 あの懐中時計とて、持ち主である冒険者に怪我をさせたかったわけではない。ただ、持ち主の気持ちに寄り添っただけ。魔術世界の物であれば、そういった事例は珍しいことではない。
 ごめんなさい、と弱々しく謝っていた声が、まだ耳に残っている。
 この先、彼らは上手くいくのだろうか。一度損なわれてしまった信頼関係は、そうそう上手く元には戻らない。次の機会には、あの懐中時計はきっと、冒険者に怪我をさせないように早めにアラートを鳴らしてしまう。それが積み重なってしまえば、また同じことが起きる。そうなってしまっても、修繕屋として店主が修繕できるものは何もない。他者が不可侵の領域だ――手助けすることはできても、本当にそれが手助けになるかも分からない。
 それでも。店主はただ、この場で己がすべきことをするだけだ。

『後は頼んだよ、ヴァレリアノス』

 思い返すは懐かしい、優しい声。
 胸の中に大切に仕舞い込んで、店主は棚へと背を向けた。

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