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26
ぼんやりと意識が浮上する。目を開いたはずなのに、視界はぼやけていてよく見えない。世界がぐらぐらと揺れているような気がする。どこにいるのかさえ、見当がつかない。
「……やっと起きたね、馬鹿息子。全く……身の丈に合わない魔術を使うからだよ、この馬鹿」
聞こえてくる声は、雪乃のものだ。呆れたような、安心したかのような、柔らかい声音だった。恐らく視線を動かすことはできた筈だが、やはり何も見えない――分からない。寝てろ、と雪乃が小さく笑う。
「……アンタに話をしないといけないことが山のようにあるけれど、まあ、何はともあれ仕事の完遂お疲れ様。もうちょっとマシな状態で帰ってきて欲しかったね。死にかけじゃないか、本当に馬鹿だよお前は」
記憶がぼんやりしている。どうして死にかけたのかも思い出せない。果たして、何がどうなったのだろう。
「気になることは多いだろうけれど、アンタはまず自分の身体の調子を元に戻すことが最優先だよ」
4年前に死にかけた時よりも遥かに酷い状態なのだろうということは、想像がつく。無茶をし過ぎている――宗一郎の力を借りたとはいえ、己の力量を遥かに超えたことをするのは本当にただの無茶でしかない。あまりにも身体に負担が大きすぎる。そう、それだけのことを、自分はしたのだ。
「ああそうだ、ひとつだけ。恭くん、無事だから。安心しなさい」
――恭。酷い怪我を負わせてしまったことを思い出す。きちんと治療は出来たのだろうか、大丈夫だろうか。それが心配ではあるが、ひとまず無事ならばよかった、と思う。恭まで死なせてしまうようなことにならなくて、本当に良かった。とはいえ、ほとんど恭のお陰で、律が何かできたわけではない。どちらかと言えば、情けないが恭の人望のお陰でこちらが守られたというべきだろう。
それでも恐らく、それでよいのだろう。きっとそれが、玲が律に恭を託していった、その意味だ。
「……もう少し寝てなさい、何も考えずに。おやすみ、律」
律の意識が完全に戻ったのは、それから2日後のこと――奈南美との戦いから一週間が経過した頃。生死の境を彷徨っていて、琴葉の病院で様々な治療を受けている状態だった。目が覚めた時、律の隣にいたのは一人のシスター姿の女だった。
シスター――現在の雪乃の相棒である『エクソシスト』、モニカ=カルネヴァーレ。『祝福』と呼ばれているものの影響で律が知る限りずっと20代前半の外見のままで時を止めている彼女は、いつもと何ら変わらない無表情で律と目を合わせる。
「……もにか、さん」
「おはようございます、リツ。気分の方は如何ですか」
「……わっかんね……てか、酸素マスク、邪魔……」
「それがなければ貴方はとっくに死んでいますよ。感謝すべきです」
「マジで……」
それだけでも本当に瀕死だったのだということがよく分かる。よく生きてたな、と思いながらマスクに手をやろうとして――気付く。
右手の感覚がない。
右手の方へと視線を向ける。肩から下を全て包帯で巻かれている右手。動かそうとしても、全く動く気配がない。まるでそこにあるのは自分の手ではないかのような、妙な感覚。
「……ああ。やはり動きませんか」
律の視線の動きで気づいたのだろう、モニカが代わりに酸素マスクを外してくれた。やはりという言葉を使うということは、律の右手が動かないことは既に予想されていたことだということだ。
律の右手。何があったか、思い出さなくても覚えている。折れた剣が深々突き刺さった右肩、そして奈南美が取り出したナイフで貫かれた右手。それらが今も、律の右手を殺している。
「……どうなって……」
「最善は尽くしました。コトハと色々な手段を試しはしたのです。けれどリツの右手にかけられたのはあまりにも強い『呪い』で、……私達では軽減することは出来ても、どうしても解くことができ「ませんでした」
「『呪い』……」
「右肩の方は手よりは酷くありませんでしたから、治療を続けていけば近いうち完治するかと思います。右手の方は病気等ではありませんので、時間を置いて少しリハビリすれば日常生活に支障のない程度までは回復すると思いますが、」
そこで一旦、モニカは言葉を切った。無表情だったモニカの表情が揺らぐ。複雑そうに。それだけで、その次の言葉が予想出来てしまう。
「……恐らく、リツ、貴方の手はもう、前のようにピアノを弾ける程には回復しないでしょう」
――あの時、奈南美は律の心臓を突き刺すことも可能だった。
それをしなかったのは。律を、生かしたのは。
『最期に貴方が大切なモノを未来永劫奪ってあげる』
狂気に満ちた笑みを浮かべた『魔女』は、律を生かす代わりにピアノを奪っていった。――もしかしたらこの先、それだけでは済まない『呪い』を掛けられたのかもしれない。それが分かるのは彼女だけだ。
「……そっか」
何の言葉も出ない。どう受け止めていいのかも分からない。今のところは、全く現実味がない。家を継げば辞めるつもりではいたとはいえ、気分転換に時々弾く程度のことはしていただろうから。それを奪われたという実感は、時間が経たなければ分からないものだ。
今は何も、想像がつかない。
「ええと……新藤 奈南美はどうなったの?」
「……彼女は亡くなりました。キョウから、自殺したと」
「自殺……」
「貴方を刺したナイフで、己の心臓を一突き。止める間もなかったそうです」
あの時既に、恭も動けるような状態ではなかった。きっと動くことが出来たなら、どうしたって止めていただろうことは想像がつく。あの場で動くことが出来たのは奈南美と、そして恭を助けに来ていたあの黒豹だけ。
嫌なものを見せてしまったことに、胸が痛くなる。人が命を絶つ瞬間など、見なくてもよいものだ。恐らく心の傷は、深い。
自ら命を絶った奈南美は、何を思っただろうか。律と恭に、消えない刻印を残して。復讐を完遂させることは出来なくても、奈南美が遺していったものを、律はこれから引き摺っていくことになる。
恭に、恐らく一生消えないであろうトラウマを刻んでしまったこと。二度とピアノが弾けなくなること。その原因が、奈南美であること。
――玲を死なせてしまっただけではなく、それらのことも、これからの律は背負っていかなければならない。
「……恭くんは、どうしてる?」
「コトハの治療を受けて、ほぼ全快です。もう学校にも行っていますから、元気なものですよ。……が、夢見は良くないようですね」
「……そっか」
「本当に、元気にはしていますよ。毎日貴方に会わせろと騒いでいるくらいですから。……まあ、誰も彼をこの部屋には入れませんが。今のリツの状態を彼に見せるのは、少々ショックが大きすぎると思いますので」
「だよねえ……」
「それでは私はリツが目覚めたことを報告してきます。意識ももうはっきりしているようですが、しんどいでしょう。余計なことは考えずゆっくりしてください」
「うん……ご迷惑おかけしました」
「いいえ。……ああリツ、ひとつ面白いことを教えてあげます」
「ん?」
「ユキノが泣いていましたよ」
「え」
さらりと想像もつかないことを口にして、モニカは立ち上がる。その表情はもう、いつもと変わらない。無表情のままで、淡々と告げる。
「私とユキノの付き合いは長いですが、あんなに弱々しいユキノというものは初めて見ました。……家族というものはやはり良いものですね。貴方はとても幸せです、リツ」
「……モニカさん」
「あまりユキノに心配を掛けてはいけませんよ」
――きっとこれも、奈南美の復讐のひとつなのだろう。
雪乃と奈南美の因縁が律に及び、そしてその結果がこうなってしまうこと。それは確かに雪乃への復讐だ――もしかしたら、律が死ぬよりも効果的な。
きっと雪乃は顔には出さないだろう、律に対して何かを言うこともないかもしれない。しかしこの先ずっと、自分を責め続けるのだろう。律の右手を見る度に、どうしようもない想いを抱えることになるのだろう。
殺さない代わりに、一生苦しんで生きていけと。そういうことなのだ。それが何十年も雪乃に復讐する為に生きてきた『魔女』の最期の足掻き。
死んだとて、雪乃を許すことはない。そう告げるかのような彼女の意志の表れのように感じた。
「りっちゃんさあああああああああん! 目ェ覚めてほんっと良かったっすううううううええええええええええ」
「うるっさ……ねえ恭くん此処病院だよ……? 音量下げて……」
「だってええ……」
律が恭に会うことができたのは、その翌日のことだった。容態の安定を確認した上で機器が取り外され、ひとまずベッドから動くことは出来ないものの、普通にベッドの上でなら過ごせる状況になってから、ようやっと恭に入室許可が出たのだった。
制服姿のまま飛び込んできて律のベッドに突っ伏して、顔をぐしゃぐしゃにして泣く恭を宥めるのに1時間はかかった。本当に心配を掛けてしまったのだと思うと、申し訳ない。恭はあの場に居たのだから、一番酷い状態だった律のことも見ているのだ。
ごめんね、と謝罪を口にすれば、何も悪くないのだと、首を横に振られた。
「えっと、あの後とにかく、琴葉先生に連絡しなきゃと思って……んで、ぶんちゃんがいっぱい琴葉先生に説明してくれて、あ、えと俺が説明してたら何言ってっか全然分かんないから頼むからぶんちゃんに代わってくれって琴葉先生に言われたんすけど」
「うん、その鹿屋先生の判断はものすっごく正しいと思うよ、俺」
「で、夜だし病院にいる人が少ないから、知り合いに『エクソシスト』いたら呼んでくれって言われて、ジッポ先生に連絡して」
「は!? 誰に!?」
「いやだからジッポ先生……だって『エクソシスト』って言われて真っ先に思い浮かんだのあのひとだったんですもん」
あまり連絡してほしくない相手に連絡がいっている、と律は苦笑いする他ない。ジッポ先生こと丁野 英二は、かつて律が教育実習に行った高校教師の『エクソシスト』である。当時はお互い『ウィザード』と『エクソシスト』であることに気づいていながらもそういった部分で交流はなかったのだが、2年ほど前に縁あって再会し、そのまま何かあれば共に仕事に出向く間柄にはなった相手だ。
「電話でわーわー言い過ぎたっすかねえ、ジッポ先生にキレられたっす」
「……そりゃね……」
「で、今何かちょっと遠いところにいるらしくってすぐには行けないって言われて、ぶーぶー文句言ったらお前ら2人そろって俺を役立たず扱いするなってキレてたっすよ」
「……あー。いやまあ丁野先生用事ある時に居ないから……」
「でもジッポ先生が、りっちゃんさんのお母さんがもし日本に帰ってきてたら、一緒に『エクソシスト』がいるはずだから連絡してみろー、って教えてくれて、んで、悠時さんに連絡して、りっちゃんさんの実家に連絡してもらって」
「ああ、モニカさんのこと丁野先生に聞いたんだ」
「すっげー嫌そうな声だったっすよ」
「あの2人仲悪いんだよ」
モニカは『エクソシスト』たちの総本山である『エクソシスト協会』に属する人間であり、英二もそこから派遣されている『エクソシスト』であるため、2人は旧知の仲だということは知っていた。モニカは英二の名前を聞くのも嫌がる程度には毛嫌いしているようで、そういう形の知り合いなのか、あまり詳しく理由は聞き出しにくい。
琴葉が『エクソシスト』を呼ぶように依頼したのは、恐らく奈南美の『呪い』を危惧したからだろう。実際、律の右手は呪われていたのだから正しい判断だ。『ヒーラー』では『呪い』を解くことは出来ない――そういった部分は『エクソシスト』の専門分野だ。そしてモニカが手助けを行ったが、結局律に掛けられた『呪い』は解けなかったということ。
それだけ強い感情が、それだけ強い憎悪が、あのナイフには宿っていた。
起きたばかりの昨日に比べれば律の右手は少しは動くようになっているが、それでもやはり感覚は鈍い。麻酔のせいもある、と琴葉には言われたものの、それだけではないことは分かる。指先まで神経が通っているとは思えなかったし、勿論ピアノが弾ける気もしない。日常生活を送ることが出来るなら訓練を重ねれば多少弾ける程度にまでは回復するだろうが、それでも前ほどこの手が、指が動くことはないだろう。
律がこの先、抱えていくもの。背負っていくもの。
「あの。りっちゃんさん」
「ん?」
「……あの『魔女』さんが言ってたっす。俺が苦しんだらりっちゃんさんが苦しむ、んで、りっちゃんさんが苦しんだらりっちゃんさんのお母さんが苦しむって。だから俺の目の前で死んであげる、って」
「……」
「……あー。やだな……ほんっと見たくなかったっす。出来れば忘れたいのに、馬鹿なのに忘れらんないんすよねえ……夢にも見るし、俺、きっと一生忘れないんだと思う。んで、そんな俺見て、りっちゃんさんはきっと自分のせいだって責めるんだろうし、でも、だから、りっちゃんさんに言っておかなきゃって、思って」
「……何を?」
「俺は、自分で首突っ込みました。自分でりっちゃんさんについてくって言った。だから『魔女』さん死ぬトコ、見ちゃって。でもそれはりっちゃんさんのせいじゃなくて、止めらんなかった俺のせいでもあるし……えーっと、あの、色々わーってなるんすけど、でも、絶対りっちゃんさんのせいじゃないっす」
それはあまりにもたどたどしく、混乱しているかのような言葉ではあった。恭自身がどう律に伝えていいのか、全く分からないまま口にしている――それでも一生懸命、律に伝えようとしている。
律の責任ではなく、自分の責任なのだと。
そんなことはない、と言いたくなってしまう。律が連れて行かなければ、見なくて済んだものだ。そもそも律と恭が関わっていなければ、『此方』の世界に踏み込ませていなければ。しかしそれは今口にするべきことではないことだということくらいは、分かる。
「……俺、大丈夫っすよ! だから、俺にもう二度と『仕事』ついてくんなっつったら怒りますからね!」
「……でも恭くん、また同じ目に遭うかもしれないのに」
「いいっす。……りっちゃんさんが死んじゃったりするよりぜんっぜんマシっすよ、きっと。今回だってりっちゃんさん俺いなきゃ死んでたでしょ! だから俺は、りっちゃんさんと一緒に戦いたいっす。これからも」
恭は言っていることは、何も間違っていない。律は恭に助けられて、今ここにいる。恭がいたから、『彼方』に引き摺られても戻ってくることができた。もし律が一人だったら、恭がいなければ、奈南美との戦いの結果は絶望的だった。感謝してもしきれない――本人に言うと調子に乗るのが目に見えているので、口には出さないが。
怖い筈だ。本当はもう二度とこんな目に遭いたくないと思っていても、何も不思議ではない。それでも恭は、真っ直ぐに前を向くことができる。
その強さは、律には到底真似できない。羨ましい、と心から思う。
「恭くん」
「何すか?」
「本当に、ありがとうね」
「……俺の方こそありがとうございます。姉貴のこと、ちゃんと助けてくれて」
「……まあ、玲先輩のことはいつか俺が決着つけなきゃいけないことだったし。それにこれで精算出来た訳じゃあないから」
「いっぱい抱えて生きていくー、ってやつっすか」
「そういうこと」
「俺も抱えて頑張るっすよ。姉貴のこともー、……今回のことも、他の色んなことも」
「そっか」
「そうっす」
恭は笑う。いつもと変わりなく、笑う。屈託のないその笑みが変わらないことに、安心する。
ぼんやりと考える。この先、律の状態が落ち着いて日常生活に戻れるようになった頃に、恭ときちんと話をしてもいいのかもしれない。近い将来、恭が大学を卒業したら、正式に律の仕事を手伝わないかどうか。今言ってしまうと、勢いで大学進学を辞めると言い出しかねないから、時期の見極めは必要だ。そしてその答えを聞いてから、雪乃に紹介するのも悪くない。律の意識がない間にもう会っているかもしれないが。
「あ。そうだ恭くん、ひとつ確認しておきたいことが」
「はえ? 俺にっすか?」
「あの黒豹の『カミ』、なに? 誰?」
「……あー……いやちょっとそれは話すとぶん殴られるんでナイショっす……」
「……ねえ俺の知らない間に何してるのねえ怒るよ?」
「もう怒ってるじゃないっすか!」
「助けて貰ったからちゃんとお礼もしたいし」
「駄目っす言わないっす俺がちゃんとお礼しとくんで勘弁してください」
「恭くーん……?」
「まーじで勘弁して!?」