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Selfish Wishes
どうしてあんなにも「食べたい」と思ったのか、今でも憂凛には分からない。
普通ではない状態だったから。『彼方』に――『半妖』に引き摺られていたから。それはそうなのだろう。ただ嫌になるくらいに鮮明に、憂凛はあの時の衝動を覚えている。それがお前の本性だと糾弾されれば、反駁するすべはない。
あのとき、隣にいた何者かの存在など、憂凛の目には入らなかった。ただただとても、どうしようもなく、彼だけが極上の御馳走だと感じた。この世にふたつとない、とても貴重でとても美味しいものに。
食べたかった。だから噛みついた。だから噛みちぎった。だから咀嚼した。甘くて美味しくてたまらなかった。逃げようとした。だから潰した。ああもったいない、あの部分も食べられたのに。潰してしまったら食べられない。ならばどうしようか。赤いマフラーの向こう側、どくどくと脈打つ首筋が見える。美味しそうな血がそこに流れているのがよく分かる。その血を飲み干したら、どれだけ甘美だろうか。それにあの部位を噛んでしまえば彼はもう動けなくなる。そうすれば全部、残ったところを余すことなく食べることができる。
だから殺した。
「……ああ、」
目を開けるとぼろぼろと涙が零れているのが分かって、憂凛は小さく笑った。自分がやってしまった行為にいつまで泣いているのか。泣いていいのは自分ではないのに。泣いたところで自分がやってしまったことは何一つ変わらないのに。
彼を殺した自分は糾弾されるべきだ。彼を食べた自分は断罪されるべきだ。確かに殺してしまったはずの彼は皆の尽力もあり何事もなかったかのようにその命を取り戻したけれど、この血肉の中には今も彼を食べて得たものが残っているのだろう。
「ッ……!」
かっと胃が熱くなって、洗面所に走る。ごふ、と溢れたものを洗面所にぶちまけて、またぼろぼろと涙が落ちる。
苦しい。痛い。彼はもっと苦しかった。彼はもっと痛かった。自分が苦しいと思う資格も、痛いと感じる資格もない。
苦しむべきだ。未来永劫地獄の果てに堕ちるまで。どんな理由があったとしても、誰かの謀略の結果だとしても、自分はそれだけのことをしたのだから。
顔を上げて鏡に映った自分の姿は酷く醜悪に見える。この世に生きてはいけない化け物のように見える。ぼおっと鏡の中の自分の目を見ているとまた引き摺られていきそうな気がして、憂凛は弱々しく首を振って鏡から目を逸らした。二度とあんな存在になってはいけない。
たすけてくれなくてよかったのに。
そのままころしてくれればよかったのに。
またいつか、おなじことをしてしまうかもしれないのに。
このばけものとののしって、みんながきらいになってくれればよかったのに。
こんな自分は正しくない。生きている価値がない。道端に捨てられてしまった、用済みの再利用もできないゴミと何も変わらない。それなのに皆が優しくて、それがとても怖い。
水道の栓を開けば、透明な液体がきたないものを排水溝に流し込んで消していく。口を漱いでから、憂凛はのろのろと自室に戻った。部屋の扉を閉めた瞬間に、糸が切れたようにその場に座り込んでしまう。時刻はまだ深夜、家の中はしんと静まり返っている。
このところ、ろくに何も食べることができていない。食べたところで何もかもこうして吐いてしまう。食事という行為自体がどうしても怖かった。『あのとき』の方が美味しかった、と思ってしまうのが怖くて堪らない。普通ならこんな状態であれば衰弱する一方の筈なのに、無駄なくらいに頑丈な自分の『半人』の体が恨めしい。
自分に流れる、獣の血。忌まわしいと思いたくない。大切な『狐』の家族がいるから。そのことを恨みたくはない。あのときそうなってしまったのは自分の責任であって、この体に流れる血のせいではない。
「憂凛。夢見悪かった?」
「……アリスちゃん」
ふわり。現れた女子高生――『アリス』を見上げる。知らない間に家を訪れた彼が、自分のためにと父に預けていってくれたもの。そんなことをしてもらえるような資格はないのに、いつだって彼は優しい。自分がどんな目に遭ったのかを理解していて、それでも憂凛のことを心配してくれている。彼はそういう人で、そういう人だったから。
「……寝るのやだな……また夢見ちゃう……」
「大丈夫よ、それはただの夢。体はちゃんと休めなさい」
「……でも」
何度も何度も夢に見る。あのときの情景を。あのときの感情を。あのときの感覚を。
――ああ、なんておいしい!
いつもそう思って目が覚める。どうしようもない劣悪な感情が顔を出す。もう一度食べたい。もう一度味わいたい。一度食べても元に戻ったのだから、もう一回くらい食べたっていいんじゃないの。そんなよく分からない理屈が頭に浮かんで、そんな自分がどうしようもなく気持ち悪くて受け入れられない。
小夜乃の力を借りても、斯道の力を借りても、一時的に落ち着くのが精いっぱいだ。学校に行って帰ってくる程度の時間しか、『いつも通りの自分』を保てない。小夜乃からは「つらいならいっそ彼のことを忘れてしまいますか?」と聞かれて、それには首を振った。忘れるなど許されない。これは憂凛が犯した罪だ。忘れて楽になろうだなどと、そんなことはあまりにも虫が良すぎる。
「……ずっと、どうしたらいいのか分からないの」
「そう。今憂凛は何がしたいの?」
「本当は……恭ちゃんに、謝りに行きたいの」
謝っても許されないことをした。謝ったからといってどうなる問題でもない。彼を食い殺したという事実は一生消えることがない。それでも、謝らなければいけないこと。
きっと彼は笑うだろう。今は元気だし気にしなくていいよ、と言うのだろう。彼はそういう人だ。知っている。謝罪を口にすればあっさりと許しは得られる。許されないことをした自分に、あまりにも簡単に。恐らく自分はそれが欲しいのだ。けれどその許しを得たところで、憂凛は一生自分を許すことはないだろう。
何より、彼に会うのが怖い。また食べたくなってしまうのではないかと、そう考えてしまうのが怖い。
「それなら行くべきよ」
「……こわい」
「大丈夫。何より恭くんに何かしようとするのなら、私は例え相手が憂凛でも許さないもの」
「……そのときはアリスちゃんが憂凛を殺してくれる?」
「殺したら恭くんに怒られちゃうから……、……殺さないようには善処する……かしらね……?」
「なんで疑問形なの?」
ふ、と小さく笑みが漏れる。同じように困ったように小さく笑った『アリス』が優しく憂凛の頭を撫でた。その気持ちの温かさが、恐怖に強張る心を少しだけ和らげていく。
きっと、必ず『アリス』は止めてくれるだろう。言葉にはしないが、彼女とて交戦後で弱っていた影響も手伝って、『あのとき』彼に同行することを選ばなかったことを悔いていることを知っている。だからこうして彼の願いに応えて憂凛の傍にいてくれるのだ。『アリス』なりの彼に対する贖罪でもあるのだろうと、憂凛は思っている。
「……小夜乃ちゃんと院長先生の力も借りて、アリスちゃんにもついてきてもらって……、……そうしたら、行けるようになるかなあ」
「行けるわよ。憂凛がその気にさえなれれば」
「……一回は、会わなきゃ駄目だよね。きっと恭ちゃん、憂凛のこと、気にしてる……」
「……そうね」
「憂凛のこと、忘れてくれればいいのに……」
「恭くんがそんな人間じゃないの、憂凛もよく知っているでしょう?そんなに駄目そうなら私が手を引っ張っていってあげましょうか?」
「自分で行かなきゃ、駄目だよ……きっと」
もう一度。もう一度だけ、なんて。
そんなことを望むのも烏滸がましい。気持ちが悪い。許されない。どんな顔をして会えるというのか。先ほど鏡に映っていた自分の顔を思い出す。あんなにも醜悪な化け物の顔を、彼には見せられない。見せたくない。
だから、そう――だから、今のままでは駄目なのだ。もう少し立ち直らなければ。もう少し自分をどうにかしなければ。そうしないと謝りに行くことさえできない。ほんの一日、数時間、数分だけでもいい。楽しく過ごせていたあの頃の自分のままで、どうにか彼に会うことができたなら。
その先はもう、もう一度なんて我儘を言わないから。――一生、もう、会わないから。だからどうか、己の中のどうしようもない劣悪な感情を、殺して。
おいしいものだなんて、かんがえないでいさせて。
「……院長先生に、相談してみようかな」
「いいんじゃない。第一歩はそこからかしら」
「……がんばれたら、いいな……」
今はそう思っても、きっと一秒先ではまた足が竦む。ずっとそれを繰り返している。飽きもせずにそれに付き合ってくれる『アリス』の優しさに、甘え続けている。
繰り返して繰り返して繰り返して。自分のきたない部分を何もかも吐き出して。その先に、彼の笑顔にもう一度だけ会えたなら。
「もう一度寝ましょう、憂凛。子守歌歌ってあげましょうか」
「……ふふ。手、握っててくれる?」
「勿論」
もう一度ベッドの中、布団に身を預けて。
どうか、どうか、いつか。こんなことになっても変わることのない、どうしようもないただひとつの我儘を。