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02
翌朝、6時半。
朝方に帰ってきた律と2人、夕飯の残りのシチューを食べる。そして律が寝るタイミングで、恭は家を出た。早朝にジョギングをするのは、恭の中で習慣として根付いている。雨でも降っていない限りは、毎日走っておきたい。怠けると筋肉が落ちるのも分かっているので、トレーニングの一環だ。
何より、律は眠りが浅い。家で恭がごそごそしていたら眠れないだろうという配慮もある。それくらいの気遣いはするべき立場だ。
「うー、さみい」
ジャージ姿で、コートとマフラー、タオルと水とスマートフォンを放り込んだスポーツバックを手に外に出る。今回はどれくらいの距離を走るか。恭の専門は短距離であることもあり、あまり長距離を走ると筋肉の付き方が変わってくるのでよくないとは言われているが、恭自身はあまり気にしていない。将来陸上選手になる予定もないので、そこまでしなくていいのではないかとも思っている。
ストレッチをしながら行き先を考える。憂凛の家である喫茶店、喫茶『たちばな』のオープン時間は7時。ここからゆっくりジョギングをするとして、おおよそ1時間。タイミングとしては悪くなさそうだ。
「ぶんちゃーん。『たちばな』行くよー、距離だけ測ってー」
『りょーかい!』
スポーツバッグの中のスマートフォンから聞こえる、元気な声。恭の相棒である『彼岸』、『分体』――通称『ぶんちゃん』は恭のスマートフォンの中に住んでいる。ネットを介してどこにでも行くことが可能な『分体』は、スマートフォンを住処にしているお陰か、その機能を余すことなく使える。トレーニングのときは色々と計測してもらっているのが常だ。自分でスマートフォンを触ってあれこれと設定する必要がないので非常に助かっている。
「うっし、じゃあ行くかー」
喫茶『たちばな』までのコースは、今までも何度も走っている。迷子にはならないだろう。道を間違えたとしても『分体』がナビゲートしてくれるので、あまり心配もしていない。
冬の朝の風は冷たい。それでも走っていると気持ちいい、と感じてしまうのだから不思議なものだ。子供の頃から走るのは好きだったし、陸上に打ち込んでいるのは楽しい。頭が良く音楽の才能もあった姉の玲とは違って、恭自身にはそういったものは何もなかった。『ヒーロー』としての力も、使うようになったのは最近だ。
何もない、と思っていた。しかし走るのが好きで、気が付けば速くなっていたから。だからこうしてずっと陸上に打ち込んでいる。何かに夢中になれるっていうのは、単純に楽しい。陸上で生きていくことは考えていないし、その道に行くつもりもないが、恭の日常に欠かせないものになった。
ただ楽しいから、走るのが好きだ。他に理由はない。――とりあえずは、楽しければいい。
『恭!きょーう!お前もう道間違えてんぞ!逆や逆!』
「うっそお!?」
道を間違えたついでに、少し寄り道もして。喫茶『たちばな』に辿り着く頃には8時を過ぎていた。
「おっじゃまっしまーす」
「おはよう、恭くん。いらっしゃい」
「おはよーございます! 一斗さんー、俺サンドイッチ!」
「はいはい」
憂凛の父――橘 一斗が、にこやかに恭を出迎えた。どうぞ、と指示されたのはいつも座る窓際の端の席。今のところ他に客はいないようだ。のんびりしていいかな、と思いながら、不意に目に入ったのは恭のスポーツバッグについている、チェシャ猫のキーホルダー。
「……アリスちゃんたちもたまには一緒に食べる?」
一斗のサンドイッチは美味い。一人で食べるのも、と思って声を掛けたのだが、キーホルダーは何も反応しなかった。遠慮なのか、他の理由があるのか、恭には判別がつかない。
チェシャ猫のキーホルダー。このキーホルダーを媒介にして、恭は『彼岸』を喚び出すことができる。それが『黄昏の女王』だ。
とある事件に首を突っ込んだ際――別口で同じ事件に関わっていた律にかなり真剣に説教された――恭が助けた『彼岸』が、『アリス』だった。延々とループに囚われて、抜け出せなくなっていた、見た目は普通に女子高生。何がどうなったのか恭にはよく分かっていないのだが、『アリス』曰く「だって放っておけないから」という理由で恭のところにやってきた。
「何だ。フラれちゃったか」
「気分じゃないんすかねえ」
「まあそんな日もあるよ。はいサンドイッチどうぞ。と、カフェオレおまけね」
「ありがとーございまーす!」
呑みやすいミルク多めの甘いカフェオレと、皿に大量に盛られたサンドイッチを見ると、恭のテンションも上がる。つい数時間前に朝食を取ったところではあるが、結構な距離を走ったからか腹も減っている。がっつくように食べる恭に、一斗が笑った。
「恭くんはいつも美味しそうにいっぱい食べてくれるからなあ。作り甲斐があるよ」
「いや、一斗さんのサンドイッチが美味いんすよまじで! あ、カフェオレも!」
「そんなに褒めても何も出ないぞー?」
「出してほしくて褒めてるんじゃないっす!」
恭にお世辞のつもりはない。本当に美味しいと思っているし、これが食べられるのは幸せだ。
無心でサンドイッチを食べていると、がちゃり、と『たちばな』の扉が開いた。いらっしゃいませ、と来客を出迎えた一斗が笑う。
「渚、頭ぼさぼさだぞ」
「……はよーっす。ちょっと調べ物してたら気付いたら朝で」
「徹夜か。珈琲飲むか? フェオレの方がいいか」
「カフェオレお願いします」
「あー! おはよーございまーす松崎先輩!」
「……何で朝からうるっせえのいるんだよ」
『たちばな』に入ってきたのは渚だった。渚が大学生になってから会う機会は減っているが、ここに来たときに会う確率は高い。実家暮らしをしている渚の家は、この『たちばな』の隣にある。
恭から距離を取るようにカウンターに腰を下ろした渚は、疲れているように見えた。話しかけられると怒られるだろうかとは思うものの、折角会うと何か話したい衝動に駆られる。少しくらいならいいだろうと勝手に自己完結して、恭は身を乗り出した。
「ねえねえ松崎先輩」
「うるせえ」
「ゆりっぺと一緒に年末年始どっかに出掛けよーって話してるんすけどー」
「勝手に行けよ」
「一緒に行きません?」
「はあ?」
くるり、とカウンターの椅子を回して恭の方を振り返った渚は、怪訝そうな表情をしていた。似たような反応を昨日も見たな、と首を傾げてしまう。こういった反応が返ってくる理由が分からない。
「……何で俺がお前らと一緒に出掛けるんだよ」
「え? だって皆でわいわい一緒に行った方が楽しいじゃないっすかー」
「うっぜえ……」
心底嫌そうな表情が返ってくる。恭が誘ったところでいい反応が返ってこないのはいつものことだが、いつものことだからこそ知っている。渚は何だかんだと付き合いがいい。この後憂凛が駄目押しで誘えば、文句を言いながら一緒に行ってくれるはずだ。
冬休みの年末年始、どこに行っても人は多いだろう。難しいことは考えずに遊園地やテーマパークでもいいかもしれない。
恭が考えている間、渚はのんびりとカフェオレを飲んでいた。濃いブラックコーヒーを飲んでいそうなタイプだが、砂糖の多い甘めのものが好きなのだと言っていたのはいつだったか。
「ああ、そうだ柳川」
「はい?」
「最近変な噂が流れてる。気をつけろよ」
「変な噂?」
このところ部活に明け暮れていたこともあって、そういった噂の類にはどうにも疎い。何のことか分からずに首を傾げた恭から、渚は一斗へと視線を向けた。
「『人喰狐』」
「狐?」
「一斗さんの耳には入ってませんか?」
「うん、初耳だね。この辺りでそんなものが居れば噂なんかになる前に姫様に即駆逐される運命だと思うけれど……」
「ですよね。俺もそう思います」
「じゃあただの噂じゃないっすか」
「ただの噂が一番怖いんだよ、馬鹿」
間髪入れずに言い切って、真っ直ぐに恭を見た渚は、真剣な表情をしていた。
「そんなモンは存在しない、かもしれない。のに噂が流れてるってことは誰かが意図を持って噂を流してるんだ。人の噂になって広まると、それは徐々に形を持って『カミ』として生み出されてしまう可能性がある。……火のないところに煙は立たねえ、煙だけがあるなら誰かが火種を作ろうとしてるってことだ」