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03
そしてそれから数日が経過して。
モニカに頼んで別件の仕事の資料を回してもらい、他の調査を進めている間にアレクの準備が整った。
「聞いてリツ! 天才だから私! いいこと思いついたよ!」
「……どうしよう、そうやって聞くと嫌な予感しかしないな」
「いやいや、これはいいアイディアだと褒めてもらうべきだよ。私がリツを身につければ話が早いんだ」
「はい?」
思わず一瞬自分の英語力を疑った。しかし、確かにアレクはそう言っている。聞き間違いではない。目をきらきらと輝かせてリツを見ているアレクは子供のようだ。
「鳥や馬に化けて頑張ってリツを運ぶことを考えるより、リツごと化けてしまえばいいんだよ」
「……俺ごと?」
「そう。私の『変身』の技術は『身に着けているものも全て』変化させるものだからね、リツごと霧か何かになって移動するのが一番早いと思わない?」
「何かすごい嫌だそれ」
アレクの言っていることは分かる。一時的に一体化する、という話だ。恐らくアイディアとしては悪くないのだろうが、そもそも身に着けるというのが分からない。一体化するという状況も分からない。律は普通に人間なので、そんな人外の無茶を言われても理解が追いつかない。
律の心配をよそに、あはは、とアレクは快活に笑う。そしてその口から出た言葉は。
「抱っこかおんぶで余裕でいけると思うんだよね!」
「馬鹿なの?」
「うわそんな本気で怒る? ジョークだよ、アメリカンジョーク」
「イングランド出身が何言ってんだ」
「もう、リツ面白くない。ユーモアを持って」
むう、と不貞腐れるアレクには悪いが、律としては命がかかっている。そんなジョークでは笑えない。
「ま、ジョークなのは本当さ。実験は色々してみたんだ。触れていて私が意識さえしていれば、生物でも一緒に『変身』することは可能だよ」
「……もしアレクの意識から逸れたら?」
「『変身』をうっかり解除しちゃってその場に置き去りにしちゃう。それ自体では死にはしないけど上空で解けちゃったら悲惨」
「あー……なるほど……」
「まあそんなことはしないさ。いや一応もうちょっと練習期間は欲しいけど。それがどうしても嫌ならリツは自力で登山だね」
「いやそれは無理だな」
律は元々インドア派、体育会系ではない。ここに恭がいれば喜んで山登りをしていただろうが、あんな風にはなれない。何より体を動かすのは嫌いだ。
アレクの案に乗るしかないというのは分かっている。不安要素はあるものの、アレクの実力は把握している。彼もプロとして失敗するようなことはしないだろう。
「まあどちらにしろ、近くまで行ける程度だろうけれどね」
「そうだね。雷雨の中までは恐らくは入れない、となると」
「登山用の格好だけはちゃんとしておかないと痛い目を見るだろうね。一式揃えてもらっていい?」
「了解」
登山道を歩いていくわけではない。本当に道なき道を歩くことになる上、魔術的な雷雨だろうとその足元は悪いことが予想される。本当にきちんとした装備を整えておかないと、戦闘になるならない以前に命を落としかねない。
――しかし。どうにもこの仕事にはぴんと来ないところがある。律向きではない仕事であるということもあるが、雪乃が受けそうな仕事でもない。どうしてわざわざ茅嶋に回ってきたのかが分からない。そこにいるものを雪乃が知っているということを考えると、雪乃宛にこの仕事が来るのはおかしいことではないのかもしれないが。
何も教えてはもらえなかったが、一体そこに『何』がいるというのか。雪乃が『面白いモノ』というのは、少し怖い。
「あと山まで行ってちょっと事前調査もしてきたんだけどね、雷雨の範囲はせいぜい直径200メートルってところだよ。そんなにない」
「局地的が過ぎるな」
「まあ、お陰でぎりぎりまで近づくことが出来ればそんなに登山の必要もないさ」
「そうだね。……ううん、出発は明日の朝にしようか。今日は必要なものの買出しに行くよ。登山のセット一式と、他に必要なものは?」
「避雷針」
「……持ち歩くものじゃないよね?」
そして翌朝。準備を整えた律とアレクは、ひとまず車で登れるところまで登ることにした。
雷雨の地点は車で登れる最終ラインよりは下になる。上から降りる方が見やすいというアレクの意見もあり、その地点まで登ることになったのだ。実際確かに上から見下ろすと分かりやすい。山の一部にだけ黒い雲が立ち込めて、雨で白い柱が出来ているのが分かる。そこが今から律とアレクが目指すべき地点ということだ。
「さて、それでは覚悟はいいかな? リツ」
「……本当に大丈夫かな……今更めっちゃ怖くなってきた……」
「何でそんなに疑うかなあ。大丈夫だよ、私としてもユキノに怒られるようなことはなるべくしない」
「言い切らないところが保険かけてて本当に嫌なんだけど」
しかし嫌だと駄々をこねたところで、律が自身で登山をするのは無理があるのだ、諦めるしかない。一か八か。アレクの実力は分かっているし、どうにかなると思うしかない。
「んじゃ行くよー」
「ちょ、ま」
「待たない!」
ぐい、とアレクが律の腕を掴んだ――その次の瞬間。何かに強い力で体を引きずり込まれるかのような、そんな感覚に襲われた。頭の中がぐるぐると回り、感覚という感覚は遮断されて何も分からなくなる。
何もない世界。何ひとつ知覚するこが出来ない世界。何が起きているのか、本当に全く分からない。
「はい着いたよー」
「っ、わ……!?」
気付けば律は鬱蒼と茂る木々の中に立っていた。何がどうなっていたのか全く分からない。無事に移動できたことだけは確かなようだが、ふらりと足元が揺れる。酔ったかのように気分が悪い。
「リツ大丈夫? 顔色悪いね。まあでも体全部分解したようなものだし、多少反動はあるか」
「……アレクの馬鹿……」
「あはは。やっぱり昨日リツでテストしとくべきだったな」
笑うアレクを他所に、時計を確認する。少しだけ時間は進んでいるようだ。アレクの『変身』に巻き込まれている間、律の意識はあってないようなものになっているのだろう。二度とこんなことはごめんだと思いながらも、今後必要があれば覚えておこう、と心に決める。
気を取り直して、律は目の前の景色を眺める。そこにあるのは雨の壁だ。確かに雨が降っているというのに、律が立っている箇所にはぬかるみひとつない。それだけでこの雨がおかしいものだということが理解出来る。雨の壁の向こう側、中の様子は全く見えない。距離としては僅かなものとはいえ、この中にそのまま入るのは自殺行為だろう。『何か』はこの雨の壁の向こう、恐らく中心部にいるのだろうが――さて、どうしたものか。
「……強行突破はやっぱり駄目だな」
「駄目、というか無理かな。あとは自力。この中に霧のまま入ろうと思ったけど全然入れなかった」
「あー……侵入の拒絶系の術式も展開してるってことか……」
「こういうことはリツが何とかして」
「ま、そのつもりだったけど」
恐らく打ち消すだけであれば可能だろう。見ただけの雰囲気ではあるが、そこまで難解な術式ではないように思える。それでも今まで調査に向かった者たちがどうにもできなかったのは、何か別の要因があるはずだ。この雨の壁のせいなのか、それとも他の何かか。
ひとまずは思いつくことをやってみるしかない。そう思いながら左手の甲に描き出す魔法陣。
「【汝、雷を司りし者、稲妻を従えし者。戦車を駆りて戦いし汝の力、卑小たる我に力を貸し与え給え≫】」
一声。同時に律の左腕に絡みつくのは、雷の紋様。――さて、どこまでできるかは運次第だ。
この状況においては銃は必要ない。正確にリズムを刻んで、神経を集中させる。撃ち込むのが1回きりであれば、多少無茶な術式を組んでもどうにかなるだろう。どこまでいけるかは分からない。全部打ち消すことができたなら万々歳、無理だったときはそれはそのとき。どちらにしろ中の『何か』を引き摺りだすことくらいは出来るのが理想ではある。
お、と隣でアレクの声。律が刻んだリズムは正確に、律が望んだ通りの魔法陣を宙に出現させた。恐らくいけると踏んでそのまま吹いた口笛、奏でる旋律。
直後。
「うわ……!?」
「ちょっと!? リツやることユキノと変わらないよ!?」
「ごめんちょっとこれ想定外!」
打ち消せるだろう、程度の考えしかなかった。律が放った雷撃は空の雷雲を引き裂いて魔術同士の干渉を引き起こし、そして轟音と共に落雷が落ちる。足元が地響きでぐらぐら揺れている。焦ったアレクが逃げるべく律の腕を掴んだが、律はそれを静止した。
空。雷雲を生み出した魔術の術式は揺れている。撃ち込んだリツの術式に呼応するかのようにして、隠されていた術式が浮き出している。その魔術の構成に、律は見覚えがあった。複雑緻密、とてもではないが律には扱えないなと思ったことがあるそれは。
「……これ、あのときの」
「リツ!? 大丈夫なの!?」
「うん、多分ね」
「多分って」
落雷は続いている。周囲の音を全て掻き消すほどの轟音。しかしその影響か、徐々に雷雲の術式自体は薄れて消えていくのが分かる。雨も弱まっている――時間が経てば完全に打ち消せるだろう。
ひとまず雨が止むのは待つしかない。その後この雨が降っていた範囲をどうやって探すか。それほど広い範囲ではないことは分かっているとはいえ、山に慣れていない律には非常に重労働になる。しかしそれでもこの中を虱潰しに探すしかないのは確かだ。
「リツ!」
「っ……!?」
突如響いたのは、一際大きな轟音。律の目と鼻の先に、明らかに魔術的な落雷が落ちた。紫電の雷光に反射的に目を閉じたのは不可抗力だ。
「……何の用か」
聞こえたのは女性の声だった。その声からは警戒が滲み出ている。深呼吸ひとつ、目を開ければそこにいたのは漆黒のドレスを身に纏っている、紫の瞳の女性。明らかに人間ではない。大体普通の人間であるならば、こんな場所で際どいドレスにピンヒールという姿でここまで来るような芸当はできない。
――『彼岸』だ、と直感する。
「長い雷雨の原因の究明に」
「……ああ。あと数か月待てば良い。そうすれば此方も動ける、気に留めるな」
「いや、そういうわけには」
「此方もそうはいかぬのだ。主が動けねば動けぬ」
「……主?」
「ええ……見間違いじゃないね? 何でネヴァン?」
「何だ吸血鬼、お前もいたのか。なら話は早いな、帰れ」
「アレク、知り合い?」
「知り合いも何も」
アレクを振り返れば、あんぐりと口を開けている。――そうか、と合点する。ここにいる『何か』のことを、雪乃は知っていた。それであればアレクが知っていても何も不思議ではない。
ネヴァン。かの神話ではワタリガラスの姿で戦場を飛び回り、同士討ちをさせるという話があったなと思い出す。鴉の姿を取る、勝利の女神。
「律、帰ろう。これ以上は駄目だ」
「でもアレク、俺たちは仕事でここに来たんだよ。解決できませんでしたじゃ終われない」
「そうだけどこれ以上関わるのは、」
「仕事。なるほど。ならば納得させればいいのか」
「え」
「まあお前たち如きでは主に危害を加えるのは不可能だろうしな」
す、とネヴァンの手が律に伸びてくる。それは抵抗する間もなく、律の肩を掴んで。
「――!?」
一瞬何が起きたのか分からなかった。ぐるんと視界が反転し、暗転し、景色が変わる。目に入ったのは暗闇、そして次にぼんやりとした灯り。そして岩の壁。洞窟か、という想像はつく。
何をされたのかが分からない。唇がひんやりとしていて変に気持ちが悪い。手の甲で唇を拭いながら、律は周囲の様子に気を配る。アレクの気配がない――だがアレクはネヴァンのことを知っていた。ということはここにいる『何か』、ネヴァンが口にした『主』のことを恐らく知っている。
知らないのは、律だけだ。アレクがここに来る必要は、ない。
「……、ソウイチロウ?」
反響する声は男のもの。ソウイチロウ――宗一郎。それは律の祖父の名だ。思わず律は左手の人差し指にある指輪を見る。祖父の形見として律に渡されたもの。
「……ああ、ユキノの息子の方か」
「貴方は……」
「君に直接会うのは初めましてだね」
姿が見えない相手と会話をするのは妙に居心地が悪い。何より相手の方は律のことを知っている、それが余計に気持ち悪さを助長している。
祖父のことも、そして雪乃のことも知っている。雪乃のことは有名人故に知っていて不思議ではないが、しかしただ知っているだけとは訳が違うように感じる。やはり知り合いなのだろう。
何より声の主は直接、と言った。やはり先ほど感じたのは間違いではない。覚えのある術式――あれは2年前に起きた事件のとき、人知れず『魔女』を足止めしていた術式の主が編んだものと根底が同じ。
「姿を見せてはいただけませんか。貴方2年前、俺に手を貸してくださった方ですよね。鹿屋先生の知り合いの」
「おや。よく分かったね」
「覚えのある術式だったので。どうしてこんなところに?」
「放っておいてもらえると嬉しいね。あと2、3か月もあれば動けるようになる、そうすればここからはいなくなるよ。雷雨も止んでなくなる」
「……もしかして怪我でもされてるんですか?」
律の問いに、声は笑う。静かな笑い声が洞窟中に反響して、頭に直接響いてくるような錯覚に陥る。
「……仕事なので、きちんと把握させていただけると助かるんですが。こんなところに引き籠って、雷雨で周囲を遮断しているその理由を」
「放っておいてほしいと言っているのに。その聞き分けのない頑固なところは、ユキノ譲りかな」
笑いながら告げられたその言葉と共に、ばさりと何かが羽ばたくような音がした。
瞬間、目の前が今度は白に染まる。洞窟の中に灯りが一気に広がったのだと気付くまで、数秒。視界が慣れて、ようやっと律が視認できたのは、その半身を漆黒の羽毛に覆われた姿へと変貌させて、大量の血で洞窟を濡らしている一人の男。
明るく照らし出された洞窟の中は、あまりにも異様な光景だった。鴉と化している男の半身もそうだが、その足元を中心に幾重にも折り重なった真っ赤な魔法陣が広がっている。そのひとつひとつが非常に高度で複雑緻密に組み込まれた術式で、何となく雰囲気として構成が理解できるものはあるが、大半は何がどうなっているのか全く分からない。しかしこの魔法陣が今現在この男の体を治療し、再生を続けているのが分かる。そしてま、この魔法陣がなくなってしまうと恐らくこの男は死んでしまうのであろうことも。
「君に直接会う日が来るとはね。カヤシマ リツ……という名だったかな、ユキノの息子は」
「そうです。貴方は」
「『鴉』、或いは『ウィザード』。君の祖父の友人でもあるし、コトハとも色々関係があるし、そうそう、俺は君のパートナーの少年……キョウ、だっけ? あの子とは何度か会ったことがあるよ」
「え」
「そうだな、リノと呼んでくれればいい。いつもはリノ=プリドという名を使っているから」
なぜ恭と会ったことがあるのか。琴葉は元々恭の知り合いなので不思議ではないが、いつの間に関わりを持っていたのかが全く分からない。知らない間に知り合いが増え過ぎている。
しかし成程、と納得せざるを得ない。この状況で彼が動ける筈がない。雷雨の結界は人避け、そして律のように調べに来る『此方』や『彼方』を寄せ付けないための自衛手段。破るようであればネヴァンが対応する、そうして身を守っていたのだ。
「悪いね。君の仕事を邪魔したいわけではないが、俺は御覧の状況だ。まだもう少しこうしていないと死ぬ危険性がある。悪いんだけれど手を引いて貰えないかな」
「……貴方の治療が終われば、雷雨は止むんですよね」
「そうだね。ここまでしなくても治療できる状態まで持っていけるのが最善だ」
「例えばですけど、俺に何か出来ることはありますか」
「構築している術式を全て読み解くことが出来るのであれば不可能ではないけれど、君に出来るとは思えないな?」
ふふ、と男――リノは笑う。馬鹿にされているような響きに苛立つ気持ちはあるものの、事実なので言い返せない。律には全てを読み解くことは不可能の上、ここまでのものを構成できる実力はない。
「……どうしてこんな状況に?」
「うん? ちょっと派手に喧嘩したんだよね。1年くらいくたばってて、ようやっと治療に回せるだけの体力が戻ってきて今に至る、かな」
「それ喧嘩ってレベルですか……?」
「喧嘩だよ。俺は俺の翼を返してもらおうと思っただけだけれど、聞く耳を持ってくれなかったからなあ……。いやいや本当に、嫌われると色々と大変だ」
「翼?」
「そう、翼」
その単語に、律はまじまじとリノの様子を観察する。全身血に濡れている、半分羽毛に覆われていて何が何だかよく分からない。しかし確かに、『鴉』であるならば当然持っているであろう翼はその背には見受けられない。
この状態では確認のために背中を見せてくれ、とは言い難い。翼を奪われているのであれば、その背には恐らく大きな傷を持っている。律の右手とは比べ物にならないだろう。
このまま数か月放置すればいい、それで仕事を終わらせるのは簡単だ。だがしかしここで食い下がれば、もしかしたら。魔術の腕はリノの方が圧倒的に上であることは分かっているのだから、ここで口にするべきは。
「……やっぱりどうにかしたいんですが」
「ん? 術式を読み解く自信が?」
「今の俺には無理ですよ。でも術者である貴方は知っているでしょう? 自分の術式なんだから。どこをどうすればいいのか指示をもらえれば、ぎりぎり期待に見合う程度のことは出来ると思います」
「本当に? 出来る? 君に?」
「俺は茅嶋 雪乃の息子なので。貴方から見ればただのその辺の『ウィザード』かもしれませんけど」
世界最高峰の『ウィザード』と呼び声高い雪乃の息子であるという事実は、律にとって背負っていかなければならないものだ。何よりこれは茅嶋に来た仕事であり、諸事情があったためにどうにも出来ませんでした、という報告では終われない。解決すると引き受けたからにはどんな手段を使ってでも解決して帰らなければ、家の名前に傷がつく。
律の言葉に、リノは笑う。心底可笑しそうに。ひとしきり笑って――息を吐いて。呆れ切った笑顔で、律を真っ直ぐに見た。
「……ああ。本当に君はソウイチロウにそっくりだな」
「そうですか?」
「そうだよ。……分かった、なら少し手伝って貰うとしようかな」